
幸せは誰が決めるのか。『ここはこどものいない国』
「カフェで授乳ケープを使って授乳していたら注意されました」
少し前、Xで投稿されたこのポストには多くの反応が寄せられ、さまざまな意見が飛び交っていた。
授乳ケープとは、授乳している母親の上半身と赤ちゃんをすっぽり隠せる大きな布だ。「近くで授乳をしていると思うと不快だ」「授乳室がある施設を利用するべきだ」という批判がある一方で、「赤ちゃんの食事なのだから問題ない」「事情は人それぞれなのだから責めるべきではない」という意見もあった。
立場によって意見は変わる。議論に決着はつかない。そして、他の話題が盛り上がれば、いつの間にか忘れられていく。
そうやって、毎日誰かが誰かの育児を責めている。
私の息子は先週一歳になった。可愛い。だけど毎日へとへとだ。「やっと寝てくれた」と思ってコーヒーを淹れる。すると、泣き声が聞こえる。そんな毎日だ。
もし、その大変さがなくなったら。
そんな世界を描いたのが、武田綾乃さんの『ここはこどものいない国』(講談社)だ。舞台は200年後。ほとんどの人間は工場で生み出され、自然出産で生まれる人は少数派となっている。人工的に作られた子どもたちは寮で育ち、少子化問題も解消されている。
さらに、この世界では睡眠は薬で3時間、食事は栄養がつまったスティックバーだけで済む。人間が「面倒」と感じることは、効率化された世界なのだ。
街にいる赤ちゃんも人間ではない。PB(ペットベビー)と呼ばれ、生後5か月ほどの姿で販売される。自分でミルクを飲み、泣くこともなく、留守番もできる。寿命は十年ほどだ。子育ての大変さはなくなり、人々は赤ちゃんの「可愛い」だけを手に入れた。とても便利な世界だ。
けれど読み終えてから、「どこまで効率化することが幸せなのだろう」と考えている。
私も食洗機や乾燥機付き洗濯機、ご飯の宅配に助けられている。だから、便利になること自体は良いことだと思っている。けれど、この作品では子育てまで効率化の対象になっていた。それを私は素直に受け入れることができない。面倒をなくすことで暮らしは楽になる。でも、その過程でしか得られない幸せまで手放してしまうのではないか。
子育ては確かに大変だ。それでも、子どもと向き合う時間の中でしか得られない気づきがある。息子は誰に教わったわけでもないのに、ある日突然座ることや立つことができるようになった。まるで少しずつ動物から人間になっていくようで、人間という生き物の不思議さや尊さを実感する。そして、「この子はこれから何十年も生きていくんだ」と、その長い時間に思いを馳せるようになってから、自分がいなくなった後の世界が急に身近になった。未来を少しでも良くしたいと考えるようになった。それまでは、自分の将来ばかりを考えていた。
誰もが親になるべきだとは思わない。それでも、「子ども」という存在が社会から消えたとき、子どもと向き合う時間の中で生まれる「未来への想像力」も、一緒に失われてしまうのかもしれない。
作中では、自然出産で生まれたことにコンプレックスを抱く美奈子と、自然出産に憧れて妊娠した伊藤が出会い、互いの価値観に触れながら惹かれ合っていく。終盤、美奈子は伊藤の赤ちゃんを抱いて電車に乗る。赤ちゃんは大きな声で泣き続ける。子どものいない国には、そんな赤ちゃんはいない。
乗客の男性は「赤ん坊なんて金持ちの道楽なのだから、他人に迷惑をかけない人間以外は育てちゃいけない」と怒り、周囲の人々も美奈子に冷たい視線を向けた。
その場面は、授乳をめぐって批判が飛び交っていたXの光景と重なった。
美奈子は、周囲の視線を気にせず赤ちゃんを抱き、前を向いて歩く。
この作品は、「どこまで効率化することが幸せなのか」という問いを私に投げかけた。問いの答えは、まだ出ていない。
息子を連れて外を歩くと、「迷惑だと思われているのではないか」と不安になる瞬間がある。美奈子の姿はそんな私に一つの指針を示してくれた。
私は、子どもと暮らす中で何かを選ぶとき、知らない誰かの評価を気にするのではなく、息子と私にとって何が大切で、何が幸せなのかを考えていたい。
文/吉田 ゆか
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