
映画『国宝』と小説『国宝』【今日もコレカラ/第621回】
映画『国宝』の原作小説をオーディブルで聴き終わった。
このオーディブル、語りが寺島しのぶさんの弟である尾上菊之助さんで、口上の部分など何度もリピート再生してしまうくらいの素晴らしさだった。
映画を観た時、あのシーンはなぜこうなったのか? と感じた部分、言ってみれば腑に落ちなかった場面が数箇所あったのだけれど、小説を読んだら、ああなるほどだからか、となった。
以前、CORECOLORに『国宝』のレビューを寄せてくれた渡辺清乃さんは、仏教に非常に詳しい。そして、この映画を「人間曼荼羅だ」と評していた。
「胎蔵界曼荼羅」は、中心には宇宙の根源を表す大日如来が座していて、その周辺に多様な仏さまが配置されている。
センターを務める大日如来から発せられる教えが、周辺のメンバー(仏さま)を通じて放射線状に広がって、生きとし生けるものを救済する。また、それぞれの仏さまたちもお互いに繋がり助けあいながら、それぞれ特有の存在意義を果たしている。
(「もっと狂いたい」。映画『国宝』は、今なお私に誘惑の流し目を送る。より)
映画から「曼荼羅」を想起する思考がすごいなといま、改めて思う。
というのも、小説は映画以上にまさに「曼荼羅」そのもので、それぞれの人生がそれぞれの人生に深く影響をしあっていたからだ。登場人物の誰ひとりが抜けても、小説の結末には辿り着かないだろうことを、圧倒的な群像劇で見せられた。
(ここからは、一切のネタバレなしに小説を読みたい方は、読まないでね)
そう。映画と小説では結末が違う。
それもそのはずで、小説版の曼荼羅のセンター(主人公)に最も近い人物が、映画では一瞬しか登場しない。
その人が登場しないことで、あのシーンも、このシーンも、「縁起」が変わる。
映画で私がおぼえたちょっとした違和感はすべて、その登場人物の不在によってもたらされた違和感だったのだと気づいた。
誰かが欠けると、誰かの人生が変わる。
誰かが生きると、誰かの人生が変わる。
そう考えたあと、一拍置いて、その意味するところに至ってぞわっとする。
私たちもみなそうなのだよな。
あの人いなければ、あの人とも出会わず、さすれば今の自分はおらず。
今の自分がいなければ、その人とも出会わず、その人の人生も変わり、さすればその人の周りの人の人生も変わっていく。
ああ、これが人生曼荼羅なのか。
これが「縁起」なのか。
生きることって、それだけでもうどうしようもなく、絡み合っているのだなあ。
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