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嘘つきは謙虚のはじまり、かもしれない。『ぼくらは嘘でつながっている。』(リレー連載3日目)

日々言葉と向き合っている書き手の4人が、浅生鴨氏の最新作『ぼくらは嘘でつながっている。』(ダイヤモンド社)を読みました。言葉を大切にしたい「書き手」だからこそ、この本を読んで、モヤったこと、疑問に思ったこと、発見したことを、4日連続でお届けします。(本日は3日目です) 

ごめんなさい、最初は正直嫌々読みました

「嘘」という言葉を聞いた時、多くの人は「人を欺く」とか「騙す」という意味合いを思い浮かべるのではないだろうか。「嘘をつくな」という教えを受けて育ってきたことで、嘘=悪という呪いにかかっている人も多いと思う。私もその一人だ。だからこの本のタイトルを見たとき、違和感があった。嘘でつながるとは、どういうことだろう。

私は、本を買ったらまずは装丁を眺めることにしている。

『ぼくらは、嘘でつながっている。』のカバーは、ほどよく紙の凹凸があって、触り心地がいい。思わず漏れ出た著者の本音っぽい言葉が表紙のあちらこちらに書いてあり、こらえきれずにニヤッとしてしまう。

カバーを外して、本の背を見る。タイトルにある「嘘」の部分だけ、印刷の文字が赤くなっているのを見つけた。他は全部黒字。なるほど、「真っ赤な嘘」っていうことか。

デザインの一環とは思いつつも、「真っ赤な嘘」というのが妙に心に引っかかり、ページをパラパラ捲ってみる。

そこで、「本書には嘘しか書かれていない。最初から最後まで、ここに書かれていることはすべて僕のでっち上げ、嘘である。」という衝撃の2行を見てしまった。

「この本に書かれていることは、全〜部真っ赤な嘘だよ!」っていうオチではありませんように、と願いながら本を開いた私は、読む気持ちを一気に失った。「嘘」だと知っていることを、なんで240ページも読まなきゃいけないのよ。なんだか無性に腹が立った。

「嘘」の意味合いが、ぐるっと回転した

正直少しイラっとしながら開いた本だったが、不思議なもので、読後に残ったのは怒りではなかった。巻末にもさらっとすごいことが書いてあるが、全く腹が立たなかった。

むしろ、読み終わった後、自分のなかの正と誤、陰と陽みたいな正反対のものが、ぐるっと逆転したような感覚に陥った。生きてきたなかで一番不思議な読書体験だったんじゃないだろうか。

そもそもなぜ、私がこの本に嫌悪感を抱いたのか考えてみると、「嘘」という言葉の定義が、著者である浅生氏とは異なっていたからだったようだ。私が考える「嘘」=「人を欺くこと」という解釈だったけれど、浅生氏の思う「嘘」=「本当ではないこと」という広義なものだった。嬉々として「人を陥れようと思って、欺いてますよ~!」と書いている著者がいたら、そりゃ腹がたつだろう。

でも「嘘」の意味を、細かく刻んで、じっと見つめてみたら、「嘘」の持つイメージがだんだん変わってきた。この本を最後まで読まずに拒絶反応が出る人がいるのだとしたら、「嘘」という言葉のイメージに惑わされているのが、一つの要因なのではないだろうか。

天国の祖父の頭上に、花は降るのか

 私の祖父は、肺が硬化して呼吸ができなくなる難病を患い、17年前に亡くなった。

祖父は頑固な性格で、その頑固さを受け継いだ私の母とは折り合いが悪く、私の前でもお構い無しで、ことあるごとに口論をしていた。

そんな関係性だったものの、母は、祖父に対して意地を張っていた日々を心から後悔しているようで、折に触れては「もっとお父ちゃんに優しくすればよかった」と涙している。祖父の人生最後の免許更新日も、祖父と母は些細な事で喧嘩をした。病状が進行して呼吸が苦しい祖父を、免許センターまで送迎しなかったことは、17年経っても母の心残りになっているようだ。

あるポッドキャストを聴いていた時のこと。

知り合いを亡くして気持ちが沈むDJを励まそうと、リスナーが「亡くなった人を思い出すと、天国でその人の周りに花が降ってくるんですよ。」とtwitterでリプライをしたエピソードが紹介されていた。

死んだ人を思い出すと花が降ることについて、生きている私たちには、本当かどうか確かめる術はない。そして私は、スピリチュアル全般をあまり信じていない。正直言うと、説明のつかないことについて、無理やり納得するための気休めだと思っている。それでも、時折落ち込んでしまう母の慰めになればいいと思い、「お母さんが、おじいちゃんを思い出すたびに、天国のおじいちゃんの周りに花が降るんだってよ。」と伝えた。母は、「最近、免許センターのことを何回も思い出すから、じいちゃんの周りが花だらけになってきっと困っているね。」と泣き笑いしていた。

これも、本当かどうかわからないことという意味では、浅生氏の言う「嘘」にあたると思う。そういうことならば、私は嘘つきと呼ばれても良い。喜んで嘘つきに立候補しよう。嘘は人を深く傷つけることも出来るし、人は嘘に救われることもある。

ライターの私は、書くことで世界に嘘をついている

 祖父と母の話のようにわかりやすい嘘もつくし、私はものを書くことでも嘘をついている。

浅生氏曰く、真実を人に伝えようとして、映像にしたり、言葉にした段階でそれはもう人によって編集されたものになってしまい、「嘘」をはらんでいるというのだ。

私は、ライターとして生きていこうと決めて、こうして原稿を書いている。

目の前で起こったことや、思ったことをそのまま伝えたいと思っても、私は私の都合の良いようにしか、事実を捉えられない。さきほどの祖父と母の話も、私の解釈で切り取っているし、ちょっと良い話風に書いているので、母や祖父なりの真実は全くわからない。(浅生氏によれば、誰も「真実」を表現することは出来ないのだけれど。)

都合よく記憶を切り取り、自分が選んだ言葉で表現してアウトプットしてしまうことで、私は真実を歪めている。書けば書くほど、嘘まみれになっていく。しかもそんな嘘を、他者に読んでもらうために書くなんて。あぁ、ライターってなんて怖い仕事なんだ。

私は情報を自分の解釈で切り取ってツギハギしている「嘘つき」だということは、いつでも肝に命じておこうと思う。嘘つきを自称するのは、開き直りでもなんでもなくて、持つべき謙虚さなんじゃないかと思うから。

文/市川 みさき

<紹介書籍>
『ぼくらは嘘でつながっている』――元NHKディレクターの作家が明かす人間関係の悩みが消えるシンプルな思考法

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