
好きなものの、向こう側。——2026年8月54冊の中の3冊【連載・月60冊読むkyoの「積んどかない」読書/第9回】
8月。夏といえば、やっぱりホラーである。
……と言っておきながら、私はホラー映画が大の苦手だ。
怖い。とにかく怖い。
くるぞ、くるぞ、と身構えているところへ本当に来られるのも嫌だし、何の前触れもなく突然来られるのは、もっと嫌だ。音までついてくるのだから、たまったものではない。学生時代、ホラー好きの親族に無理やり付き合わされた「真夜中の暗闇ホラー映画鑑賞会」は、思い出したくもない恐怖体験だった。ビクビクと怖がる私を楽しそうに笑いとばす顔は、生涯忘れないだろう。
ところが、小説となると話は別である。
怪談も、怪奇小説も、ミステリーにじわりと不穏なものが混じる物語も大好物。怖さに身をすくませつつ、それに勝る好奇心に心を踊らせながら、夜中に一人で読んでしまう。同じ「怖い話」なのに、どうして映像は苦手で、文字なら喜んで読めるのだろう。
たぶん私は、自分の頭の中で景色をつくる余地が好きなのだと思う。
文章を読み、人物の姿を思い浮かべる。音のない部屋に足音を想像し、書かれていない暗闇の向こうまで勝手に補う。恐ろしいものを見せられるのではなく、自分で少しずつ組み立てていく。その距離が、私にはちょうどいい。
考えてみれば、本に限らず、好きなものほど、目に見えているものだけでは満足できない。
映画を観れば、字幕の裏側にある翻訳者の意図が気になる。
図書館へ行けば、並んでいる本だけでなく、なぜこの場所にこの棚があり、人がどんなふうに過ごせるようにつくられているのかまで気になる。
目の前にあるものを楽しみながら、その向こう側にいる人や、そこに至るまでの考え方を知りたくなる。



8月に選んだ3冊は、そんな好奇心を満たしてくれる本だった。
文字から立ち上がる恐怖。
限られた文字数の中で選び抜かれる字幕。
そして、本を読む場所そのものをつくる人たちの思考。
一見まったく違う3冊だけれど、どれも、普段目にしているものの少し向こう側へ連れて行ってくれる。
8月は、好きなものを、いつもより少しだけ深く覗き込む読書になった。
*
最初に挙げるのは、京極夏彦著『文庫版 完本 百鬼夜行 陽』である。夏に読むなら、やっぱり少しくらい怖いものがいい。
京極夏彦作品ほど「見えないものを想像する怖さ」を存分に味わわせてくれる本も、そう多くはないと思う。学生時代に長編小説『姑獲鳥の夏』を読んだ時の衝撃は、今もよく覚えている。
本書で描かれるのは、何もないところから突然現れて人を襲う、わかりやすい化け物ばかりではない。罪悪感、欲望、怖れ、思い込み。人の心の中にある、本人ですらうまく説明できないものが少しずつ形を持ち、やがて「異形」として立ち現れてくる。
だから、怖い。
けれど、その怖さの正体を知りたくなってしまう。
京極夏彦作品を読んでいると、妖怪や怪異そのものより、人間のほうがよほど不可解で恐ろしいと思うことが多々ある。目の前で起きていることが変わらなくても、それをどう見て、どう理解するかによって、世界の姿はまるで違ってしまう。
「何かがいる」から怖いのではない。なぜ、この人には「何かがいる」ように見えてしまったのか。その奥へ、さらに奥へと進んでいくところに、私はどうしようもなく惹かれる。
しかも本書は、京極堂シリーズの本編で出てくる人物たちを、別の角度から見ることのできる短篇集である。
脇役として登場した人物たちの人生、抱えていた葛藤。
本編ではひとつの出来事として見えていたことが、別の人物の目を通すことで、まったく違う意味を持ちはじめる。
知っている世界なのに、見たことのない場所を覗いているような感覚がある。これが、たまらなく楽しい。
一度読んだ物語にも、まだこちらからは見えていない面がある。登場人物の数だけ世界の見え方があり、その視点が変われば、知っていたはずの出来事まで揺らぎ始める。
そして文章だからこそ、その「見えなさ」が残る。
映像なら、怪異には姿が与えられる。音もつく。逃げ場がない。
けれど小説では、どこまで想像するかは読者に委ねられている。輪郭をくっきり描くこともできれば、暗闇の向こうに何かがいるような気配だけを残すこともできる。
怖い。でも、もう少し覗いてみたい。
その好奇心に負けて、ページをめくる。
私にとってホラー小説の楽しさとは、案外、この「怖いものとの距離を自分で決められること」なのかもしれない。もちろん京極夏彦作品は、そんな私の都合などお構いなしに、想像力の奥までずかずかと入り込んでくるのだけれど。それでもページを閉じないのだから、やっぱり私は、文字で読む怖い話が大好きなのだ。

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次に挙げるのは、太田直子著『字幕屋の気になる日本語』である。
私は映画を観るなら、ダントツで字幕派だ。画面に映る俳優の表情を追い、その声や息づかいを聞きながら、視線の端では日本語を読む。映画を観ているあいだ、当たり前のようにそこにある字幕だが、考えてみれば、ずいぶん不思議な存在である。
字幕は、登場人物が話した言葉のすべてが、そのまま日本語に翻訳されているわけではない。「1秒につき4文字」といわれるほど厳しい字数の制約があるからだ。長い台詞でも、観客が一瞬で読み取り、同時に映像も追える言葉へと変えなければならない。
何を残すのか。何を削るのか。
どの言葉なら、その人物らしく聞こえるのか。
ほんの数秒だけ画面に現れる短い日本語の裏側で、そんな選択が繰り返されている。
本書の著者・太田直子さんは、『ボディガード』『ヒトラー〜 最期の12日間』『バイオハザード』シリーズなど、数多くの映画字幕を手がけた字幕翻訳者である。
本書は、字幕づくりの舞台裏だけを紹介する本ではない。街で耳にした言葉、テレビから聞こえてくる表現、妙に丁寧すぎる言い回し。「字幕屋」として日本語を削り、選び続けてきた人だからこそ引っかかる、日常の「気になる日本語」が次々と登場する。これが、とても面白い。
普段なら何となく聞き流してしまう言葉に立ち止まり、「それ、本当にそう言う?」と考えてみる。言葉は意味さえ通じればいいわけではない。同じことを伝えるにも、選ぶ言葉ひとつ、語順ひとつで、受け取る印象は変わってしまう。字幕なら、なおさらだ。
映画には映像があり、俳優の演技があり、声がある。字幕はそれらを邪魔せず、それでも観客に必要なものを届けなければならない。足すのではなく、削る。けれど、削ったからといって、薄くしてはいけない。限られた文字数の中に、できるだけ多くの意味や感情を残す。
映画を観ているとき、私は字幕を読んでいる。それなのに、その言葉を誰が、どれほど悩んで選んだのかを意識することはほとんどなかった。
見えているのは、ほんの十数文字。その向こう側には膨大な言葉があり、その中には、選ばれなかった言葉もある。本書を読みながら、画面の下に当たり前のように現れていた字幕が、急にひとつの偉業として見えてきた。
太田さんは2016年1月に亡くなり、本書は、連載や映画評論などに残された文章をまとめた遺稿集として刊行された。だからこそ、読み終えたあとには、言葉への鋭い視線だけでなく、字幕という仕事への愛情まで残る。
次に映画を観るとき、私はきっと、いつもより少しだけ字幕を気にしてしまうだろう。ほんの数秒で消えてしまうその言葉の向こう側を、覗いてみたくなったからだ。

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最後に挙げるのは、Open A、ひらく、図書館総合研究所編著『都市のような図書館をつくる Library as the City』である。
当然のように、私は図書館が大好きだ。なくなったら生活できないと思うくらい、幼少期から途切れることなくお世話になり続けている。もちろん、本がたくさんあるからという理由は大きい。けれど、それだけではない。
静かに本を読む人がいる。
棚の間をゆっくり歩きながら、思いがけない一冊と出会う人がいる。
勉強をする学生もいれば、新聞を読む人、親子で絵本を選ぶ人もいる。
考えてみれば、図書館とは不思議な場所である。
同じ場所にいるのに、それぞれが違う目的を持ち、周囲に気を配りながら、思い思いの時間を過ごしている。
そして本書を読むと、その「不思議」は偶然できあがったものではないことがわかる。
本書をつくったのは、建築や公共空間を手がけるOpen A、本のある場所や文化施設を企画・運営するひらく、そして図書館計画を専門とする図書館総合研究所。異なる専門性が重なることで、「これからの図書館とは何か」という問いを、多角的に掘り下げていく。この組み合わせだからこそ、図書館を本棚と建物だけでは捉えない。
どんな人が来るのか。そこで何をするのか。
人と本は、どのように出会うのか。
街の中で、図書館はどんな役割を担えるのか。
そんな問いが、次々と広がっていく。
本書では、国内外のさまざまな図書館や本のある場所を紹介しながら、読書体験、空間、運営、そして街との関係までを考えていく。さらに、どうすれば「都市のような図書館」をつくれるのか、具体的な方法へと踏み込んでいく。
タイトルにある「都市のような図書館」という言葉が面白い。都市には、さまざまな人がいて、さまざまな目的があり、思いがけない出会いがある。
公園で休むこともあれば、店を覗くこともある。
誰かと話すことも、一人で過ごすこともある。
目的地へ向かう途中で、予定になかった場所へ寄り道することもある。
図書館も、そうであっていい。本を借りるためだけに行く場所ではなく、何となく立ち寄り、過ごし、知らなかった本や人、考え方と出会える場所。そう考えると、普段何気なく使っている図書館の見え方が少し変わってくる。
なぜ、この場所に椅子が置かれているのか。
なぜ、この棚はこの高さなのか。
静かに過ごす場所と、人が交流できる場所は、どうつながっているのか。
今まで利用者として当たり前に受け取っていた知識や時間、空気感。その向こう側に、それを考え、設計し、運営する人たちの思考がある。
私は本が好きだから、図書館へ行く。けれど、本書を読むと、その「本が好きな人」だけを見て図書館がつくられているわけではないことにも気づかされる。
まだ読む本を決めていない人。
そもそも本を目的に来たわけではない人。
ただ居場所を求めている人。
さまざまな人たちを受け入れながら、本と出会うきっかけをつくる。
本を並べる場所ではなく、人と本、人と人、そして街をつなぐ場所として図書館を考える。そんな発想に触れるほど、いつもの図書館をもう一度歩いてみたくなった。
本棚の前だけではない。椅子の置かれた場所も、窓から入る光も、人が集まる場所も。そこにあるものには、きっと理由がある。好きな場所だからこそ、その向こう側まで知りたくなる。
『都市のような図書館をつくる』は、図書館のつくり方を教えてくれるだけではない。いつも本を借りて帰っていた場所を、ひとつの小さな都市として、もう一度眺め直したくなる一冊だった。

*
好きなものほど、知りたくなる。
知らなくても、もちろん楽しめる。でも、知りたい。
恐怖の成り立ちを考えなくても小説は読めるし、字幕に込められた葛藤を知らなくても映画鑑賞はできる。図書館の設計思想を知らなくても、本を借りることはできる。けれど、その向こう側を少し知ると、今まで当たり前に見ていたものが、急に違って見えてくる。
文字だけだからこそ生まれる怖さがある。
限られた数文字だからこそ伝わるものがある。
何気なく置かれた一脚の椅子にも、そこに人を迎えるための理由がある。
見えているものは、ほんの一部。その奥にあるものを知ったからといって、だから何だ、と思うかもしれない。けれど私は、知れば知るほど、ますます好きになってしまうし、ますます知りたくなる。だから、本を読む。
好きなものをもっと好きになるために。
知らなかった世界を、ほんの少し覗いてみるために。
ホラー映画だけは、相変わらず遠慮しておこう。そう思いながら、8月も好奇心の赴くままにページをめくった。
文/kyo
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