「世界はうつくしい、と言いたくて絵を描いて来た。」【今日もコレカラ/第1020回】
こんなに心を揺さぶられたトークイベントはあっただろうか。そう思った夜のことを。
京都にくるたび、は言い過ぎだけれど、2020年に初めて行ったとき以来、5、6回は訪れている場所がある。東福寺塔頭の光明院。
とにかくお庭が素晴らしくて、何十分も座って見ていられる。そして、丸窓がある部屋を見るたび、ここに住みたいと思う。ここに住んで、書いて、振り返って庭を見て、また書いてができたら、なんて素敵だろうと夢想する。
どんなに家賃を払っても住めないであろう、憧れの場所。

そんな光明院で、画家・柏原由佳さんの個展が行われる。その、オープニングレセプションに誘っていただいた。「光明院」の名を聞き、いちもにもなく、行きたいと返事をした。
柏原さんは光明院に9ヶ月住んで、絵を描いたのだという。私が夢見る生活ではないか。その展示を、和蝋燭の灯りで見られるのだという。
室町初頭の1391年に創建された寺に、ハッとするような色彩の絵画が並ぶ。
日が少しずつ暮れていくから、刻一刻と、絵の表情が変わる。会場はアート関係者でいっぱいだったけれど、全部の絵を見て回る人だけではなく、一枚の絵の前から動かず、ずっとその変化を見守っている人が何人もいた。

この庭を描いたのであろうと思われる作品もあれば、抽象画のような作品もある。どれも、綺麗で美しかった。
綺麗で美しかったなんて、バカみたいな感想だけれど、誘蛾灯のように引き寄せられる美だった。つい手を伸ばして、絵に触りたくなる。その世界の中に入りたくなる。
私の住む世界の延長線上に、この美しい世界が存在するのだと思うと、もっと目を凝らしてこの世界を見てみたい、つまりもっと生きていたい思わされる、そんな絵だった。
とっぷり日が落ちて、蝋燭の炎がゆらめき出すころ、トークイベントが始まった。庭を背にして、3人が並ぶ。
画家の柏原由佳さんと、光明院の住職・藤田慶水さん。そしてなんと、日本の現代美術を牽引してきたギャラリストの小山登美夫さん。
なんて贅沢な時間と思ったのも束の間、3人の掛け合いに引き込まれる。
大学で日本画を学んだあと、2006年に渡独し、油絵に転向した柏原さん。2022年に帰国するまでは、おもにドイツで創作活動をしていたという。
なぜドイツに? と、小山さんが聞く。
自分が学ぶ場を探していたとき、ヨーロッパでいくつもの学校を見学したと柏原さんはいう。その最中に、ドイツのライプツィヒ視覚芸術アカデミーを訪れたときのこと。廊下に学生たちが描いたたくさんの絵が置かれていた。
それらの絵を見た柏原さんは「下手だな。私のほうが上手いな」と思ったそうだ。でも同時に、「下手だけれど、目が離せない。私の絵よりも魅力的だ」と思ったという。
それまで日本の美大で日本画を学んできた柏原さんは、授業でも正確な描写を求められてきたという。描写をすると完成するのは知っているのだが、それはやりたくなかったと話す。

柏原さんの声を聞きながら、ちょっとだけ脳がトリップする。
下手だけど魅力的。上手いけれど心に残らない。
書き続ければ書き上がる。でも書き上がることが完成か?
私たち書き手も、同じような問いを抱えて書いているなと思う。そして、もう、「書き上がった」だけの原稿が求められていないことも、日々、ひしひしと感じている。
描くときの楽しさ、苦しさについて問われた柏原さんの話が印象的だった。
描きはじめるとき、私は天才かもしれないと思って描き始める。下絵を描かずに出たとこ勝負で描き始めるのだという。そのときはとにかく楽しい。
でも、途中で雲行きがあやしくなってくる。だんだん嫌な予感がする。違う、こうじゃないと思う。
だんだん苦しくなる。「絵なんてやめちまえ」と思うときもある。
今回の展示作品にも、何回も洗い流し、白でつぶし、描き直しをしている絵があるという。
私は初めて知ったのだけれど、一度描いた油絵を「流す」とは、テレピン油でそれまで描いた部分を除去することを指すそうだ。そうやって描き直しをすることもあれば、もう一度、白でキャンバスを塗りつぶして描くこともあるのだという。
会場にいた方から、「なぜ、新しいキャンバスに描き直ししないのですか?」という質問があった。柏原さんは「キャンバスの中に、その絵を描いた時間が残っていると思うから」と答えていた。
その子(柏原さんは、自身の絵のことを「その子」と呼んでいたのだけれど)、の過去を引き受けて描くのだという。
ああ。そうか。
その過去は、人には見えない。でも、そこに積み重ねて来た「厚み」は、キャンバスに、心理的にも物理的にも残るものなのだなと思う。
「でも、そうやって何周も描き直しした絵よりも、悩みなく一気に描き上げた絵のほうが評価されることも多いんですけれどね」と、柏原さんは笑う。
会場のみんなも笑う。
ここにいる人たちはみんな、「それ」を経験している人たちの集まりなのだと思う。
一人のアーティストの言葉を、会場にいる人たちが自分の体に取り込んで自分の細胞と会話させている。そんな瞬間を、トークイベントの間に何度も感じた。
今回のイベントに誘ってくださった方と、帰りのタクシーの中で話をした。
そういえば、トークイベントの会場で、お庭の縁側に座って演奏をしている人がいましたよね。ぽろんぽろんと音がしてた。あってもなくても成立するはずの音楽が、あの場所にあることが素敵だと思いましたと感想を伝えた。
するとその方は
「細部の細部に神が宿ると思っている人たちの集まりなんだよね」
と、おっしゃった。
このトークイベントにひたひた迫って来た感動は、それかと思った。
描く人も話す人もアーティストであり、演奏する人も、その場を守る人たちも、聞く人たちもみな、それを知っている人たちの集まりだったのだ。
そんな場所に、時間に、存在させてもらえてよかった。

住職の藤田慶水さんが、「9ヶ月の間一番感動したのは、由佳さん(柏原さん)が『世界はうつくしいと伝えたくて描いている』と言ったことだった」と話していた。
家に戻って、柏原さんが書かれたステイトメントを読み直す。
世界はうつくしい、と言いたくて絵を描いて来た。
うつくしいものはどこにあるのか。
光を追いかけ続けて来た。
その陰にある闇をいつしか見ないようにしていた。苦しさも悲しさも、おそらく美しさのすぐそばにある。
京都のお寺で、九ヶ月を過ごした。
十六年前に描いたその庭のスケッチが、アトリエから見つかった。
そこに描かれていたものは、今もほとんど変わらなかった。
変わらないものの中に確かに流れた時間があった。土。石。植物。光。
折り重なった時間。
残された跡。
もうここにはないもの。私は庭を眺めていた。
「山、水の上を歩く」個展 案内より
けれど、いつしか、庭に見られていることに気づく。
庭の記憶。
場は、そこに在ったものを静かに抱えている。
物質の奥には記憶が眠っている。
私自身もまた、その世界の一部になったとき、すでにそこにあった光が指す。
柏原由佳さんの個展「山、水の上を歩く」は、京都の光明院にて10月30日から11月11日まで。
住職と、光明院に9ヶ月住んだ柏原さんいわく、雨の日も素晴らしいそうです。
詳細はこちらから
柏原由佳 / 個展「山、水の上を歩く」
東福寺塔頭 光明院、京都
2026年10月30日[金]-11月11日[水]
開館時間:7:00–17:00
*11月7日[土]~9[月]の3日間のみ 夜間拝観21:00まで
【この記事もおすすめ】
- Writer
- #佐藤 友美
- Back Number
- #さとゆみの今日もコレカラ