世界中の映画祭で大絶賛の医療ドキュメンタリー『Dr.Bala(ドクター・バラー)』。12年間の活動に密着したコービー・シマダ監督に聞く
いま、アメリカ在住の日本人が作ったドキュメンタリー映画が世界中で話題を呼んでいる。タイトルは『Dr.Bala(ドクター・バラー)』。
東南アジアで医療活動を行ってきた大村和弘医師の12年の軌跡を描いたこの作品。ロサンゼルス映画祭で長編ドキュメンタリー映画部門の監督賞、インドの映画祭でベストドキュメンタリー賞など、15の映画祭で受賞・ノミネートを受けている。
日本での配給はまだ決まっていないが、先行上映した会場での感想は凄まじく熱かった。
「自分の中で眠っていた夢が揺り動かされた」
「人のために生きることのすごさを感じた」
「いきいきとした表情や目力に引き込まれた」
「日本人であることを誇りに思った」
公式ホームページに掲載されているその感想は、スクロールしてもスクロールしても読み終わらない。
これほどまでに人の心を動かす映画とは、いったいどんな映画なのか。2008年から大村医師を追いかけてきた、コービー・シマダ監督に話を伺った。
「あぁ、今年のご褒美も終わっちゃった」
——『Dr.Bala』を大画面で観て、大村先生のパワーに圧倒されました。上映会の後の会場は、異様な熱気に包まれていましたよね。
コービー いや、ほんとにすごかったですね。ああいう場だと、普通は質問ってなかなか出ないと思うんですが、次々に手が挙がって。「大村先生の原動力はどこからくるんですか?」とか「どうしてコービー監督は何年も密着できたんですか?」とか。映画をきっかけに、「自分も何かしたい」と動き始める人もたくさんいて。そういう感想が、これまで400件以上も来ているんです。
——東南アジアはここまで過酷な医療環境なのかと。まずそこに驚きました。
コービー びっくりしますよね。僕もカズ(大村医師)から聞くまでは、全然知らなかったんです。ミャンマーでは、血を拭きとるためのガーゼの質が悪すぎて、むしろ血を弾いてしまったり、針の先端が尖ってなくて刺さらなかったり…。麻酔を打ってもまったく効かなくて、患者さんがものすごく痛がっているとか。日本だったら、ありえないですよね。
——手術中に停電もしていましたよね。
コービー あれも、現地の人たちに聞いたら、よくあること。だから、みんな慣れていて、全然慌てないんです。僕が撮影に入ってからも、懐中電灯で照らしながら手術をすることがありました。
——大村先生が耳鼻科医として、現地の医師たちに鼻の手術の「技術」を伝えることにこだわったのは、なぜだったのでしょうか。
コービー 実は僕もずっとそれが分からなかったんです。だって、カズが一人で手術をすれば、1日に4、5人は助けることができる。でも、そうはせずに、ずっと現地の医師たちと一緒に診察をして、一緒に手術をしながら、技術を教えていました。
その理由が分かったのは、密着をするようになってしばらく経ってから。
ラオスはベトナム戦争で、カンボジアはポルポト政権によって、多くの医師たちが命を落としていました。耳鼻科医の数も極端に少なく、鼻の病気で手術が必要になった患者さんは、自国の医師を信用できずに、わざわざタイやシンガポールまで治療を受けに行っているような状況だったんです。
——大金を払って、しかも何時間もかけて他の国に治療を受けに行っていた。
コービー そう。命にかかわる腫瘍ができても、ラオスやカンボジアでは手術で治すことができないから。現地の医師たちが技術を身に付けることで、「自分の国の患者を自分たちで治す」という、医師としての誇りを取り戻してほしい。「俺たちに任せろ」って、言えるようにしてあげたい。カズが考えていたのは、そういうことだったんです。
——大村先生は、医療機器も十分にはそろっていない状況で手術をされていましたよね。
コービー 僕は最初、カズが当たり前のように現地で手術をしているから、そういうものなのかと思っていたんですよね。
でも、日本から他の先生たちが来たときに、設備がそろっていないことにすごく戸惑っていて。「教えるつもりで来たのに、かっこ悪いくらい何もできなかった…」と言っていたんです。慣れない環境で、しかも教育を目的として人前でする公開手術は、たとえどんなに有名な医者であってもなかなかやりたがらない、ということもそのときに聞きました。
コービー 他の先生たちにとっては難しいことを、カズは顔色一つ変えずにやっている。それを見て、「これって、実はすごいことなんだ…」と後から気付かされました。
——現地の先生と一緒に手術をするシーンで、大村先生が思わず「危ない!」と声を上げるような、見ていてハラハラする場面もありました。
コービー それまでラオスには内視鏡がなかったので、現地の先生たちは使い方も分からない状況だったんです。それを、カズが手取り足取り、一から教えていった。だから、危ない場面もたくさんあって。
ラオスで一番偉い耳鼻科の先生が、患者さんの鼻を切ってしまいそうになったりとか。「ダメダメ!」と、カズは慌てて止めていましたけど。撮影しながらヒヤッとしましたね。
——大村先生が東南アジアで活動をしていたのは、夏休みの1週間。1年に1回のボランティア活動です。正直、1年に1週間の活動で、そんなに変わるものなのかな? と思っていました。
コービー そうですよね。カズがずっと目指していたのは、現地に骨を埋めるようなボランティアではなく、年に1回1週間でも、とにかく長く続けられるものでした。その仕組みを作ることができれば、活動に参加してくれる人も増えるし、関わる人が多くなれば、それだけ支援できることも増える。
それに、カズの活動に何年も密着するうちに、僕のような素人目から見ても、現地の先生たちが明らかに成長しているかが分かるようになりました。それはもう、びっくりするくらい変わっているんです。「去年よりももっとレベルの高いことを教えてほしい」という熱量も伝わってくる。1週間単位で見たら分からないかもしれないけれど、12年という長いスパンでカズの活動を追ったことで、「なるほど、こうやって医療を変えていくのか」と、ものすごく腑に落ちたんです。
たしかに1年に1週間は短いかもしれない。でも、だからこそ、映画を観終わった人たちが「自分にも何かできるのでは」「1年に1週間でも人のために何かをしたい」と思ってもらえるんだと思うんですよね。
——ボランティアというと、どこか「自分を犠牲にする」みたいなイメージがあったのですが。
コービー そう思っている人は多いかもしれないですね。でも、カズを見ていると全然違いますよね。東南アジアでの1週間が終わるとき、カズは「あぁ、今年のご褒美も終わっちゃった」って言うんです。
それが本心から出た言葉だということは、表情を見れば分かる。向こうでの活動を、心から楽しんでいるんです。あんな顔ができる場所が見つかったら、人は本当に幸せなんじゃないかな。
オールNGなしの撮影現場。手術シーンも間近で撮る
——コービー監督が大村先生と出会ったのはいつですか?
コービー 2006年です。きっかけはラグビーでした。当時、カズはカリフォルニア大学ロサンゼルス校の救命救急科に短期留学をしていて、僕が所属していた日本人ラグビーチームに、参加してきたんです。
何度か練習で顔を合わせるうちに、同じ町田市の出身だということが分かって、意気投合。僕が32歳、カズが27歳のときでした。
今でも覚えているんですけど、カズが留学していた1カ月の間に、ニューヨークで遠征試合があったんです。一応、声をかけたものの、「お医者さんとしてアメリカに来ていて、ケガなんかしちゃったらまずいだろうし、まぁ来られないだろうな」と思っていたら、次の日には「飛行機のチケット取りました!」って(笑)。
——すごい行動力。
コービー 今思うと、あの頃からカズの行動力には驚かされている。
——大村先生を主役に映画を撮ろうと思ったのは、何かきっかけがあったんですか?
コービー 2008年に僕が日本に一時帰国したときに、カズと再会する機会があって。カズはその頃、ミャンマーで医療活動をしていたのですが、ちょうど同じタイミングで日本に帰ることになったので、「会おう」と。
そこで、カズが東南アジアの医療の話をしてくれると聞いていたので、事前に現地の様子などを質問するアンケートに答えてもらっていました。「短いドキュメンタリーを撮れたらいいな」という気持ちがあって、カメラも持って行ったんです。今だったら、4KとかHDのカメラが当たり前だと思うけど、その頃はSDカメラの時代。だから、よく見ると画質が粗い。
——大村先生からはどんな話が?
コービー そのときに聞いたのが、映画にも登場するメイ・ミーという18歳の女の子の話でした。ミャンマーでは、治療ができないままにかなりひどい状態になっている患者さんがたくさんいたそうなのですが、彼女もその一人。
3歳のときにやけどを負って、皮膚が溶けた状態で口と肘がくっついてしまっていたんです。周りからは「化け物」と言われるようになり、外出もできずにいたと。カズが診療したときも、お母さんの陰に隠れて、笑顔も見せなかったといいます。それを聞いて衝撃を受けました。
——密着したのはいつからですか?
コービー 2013年から。「ラオスに行くけど、行きますか?」って聞かれて、「行ったことがないから、行ってみようかな」というノリで返事をしたのが始まりです。1週間の撮影だったので、手荷物とキャリーケースに、飛行機の重量制限ギリギリまで機材やテープを詰め込んで行きました。飛行機代はカズが出してくれましたが、その他の撮影にかかる費用はすべて自腹で。仕事ではなく、ボランティアです。
——映画には手術シーンも多かったですが、あそこまで近い距離から撮影できるのは、かなり珍しいのでは。
コービー そうですよね。珍しいと思います。普通だったら、医療現場での撮影は、いろいろ厳しく規制されますよね。でも、僕が撮影をしていて、NGが出ることはほとんどなかったです。
それは、全部、カズがあらかじめ許可をとってくれていたからなんです。だから、「ここまで撮っちゃっていいの?」っていうようなものまで、何でも撮らせてもらえました。それは、患者さんや現地スタッフへのインタビューでも、同じでしたね。NGなしで。
これは、後から聞いたのですが、カズは「手術室で映画を撮った監督はめったにいないと思うから、コービーさんの経験のために」と、僕が撮影できるように積極的に手続きをしてくれていたみたいなんです。それは、より撮影許可をとるのが難しい日本の手術室でも同様でした。
——わざわざロサンゼルスからボランティアで来てくれていたコービー監督に対して、大村先生が「何かプラスになるものを作ってあげたい」ということだったのでしょうか。
コービー そうだと思います。それに、カズは僕が最初に撮影に入ったときから、現地の人たちに対して、必ず「ムービーディレクターです」と紹介してくれていました。まだ、映画になるとは思っていなくて、しかも、僕には長編映画の監督経験もなかったのに。そう紹介してもらえて、照れくさいながらもすごく嬉しかった。
——撮影期間中はどのくらいカメラを回していたんですか?
コービー 夜遅くまで手術をしていることもあったので、ほとんど朝から晩までずっと回しっぱなしでしたね。手術シーンは、定点カメラと手持ちのカメラの2台で撮影しました。手術中に話していることを拾うために、胸元にはずっとピンマイクを着けておいてもらって、そこから音声を録っていたんです。
——密着していて、大村先生から「ここは撮らないで」と言われたことはなかったですか? ちょっと険悪な雰囲気になったりとか。
コービー ないですね。でも、一度だけ、近寄りがたい空気を感じたことはありました。映画にもありますが、日本で14歳の男の子の手術をしたときのシーンです。
十何時間もかかるようなとても難しい手術で、その場にはただ事ではない緊張感が漂っていました。カズから「撮らないで」と言われていたわけではないのですが、初めて「これは、近寄れないな」と思いましたね。それで、手術室の扉の隙間から撮ったんです。
——その距離感によって、余計に緊迫した現場の雰囲気が伝わってきました。
コービー 出血が多くて、手術を途中で中断しなければならなかったので、カズとしてはとてもつらかったと思います。その後、珍しく家族に弱音を吐いていましたから。あのシーンの撮影を通して、彼が普段、向き合っているもの、背負っているものの大きさが伝わってきました。
フィクションの手法を使ってドキュメンタリーを作る
——密着していた期間は、1年に1週間×7年。膨大な量のデータで編集が大変だったのでは。
コービー 密着して撮ったデータに加えて、2007年からカズが自分で撮っていた写真や資料などのデータも集めたので、全部で400時間以上はあったかな。だから、編集作業はほんとに大変でした。映像にいろんな思いが詰まっていて、なかなか削れなくて。
1年くらいはひたすら削って、削って…。映画は1時間半に収めたいと思っていたんですが、1時間50分くらいまで削ったところで、そこから削れなくなってしまって。結局、編集作業には2年かかっています。
——編集はどのように進められたのですか?
コービー まず、80回以上のインタビューの文字起こしをして、それを時間別、人物別に色分けしながら、全体を把握することから始めました。それまで長編のドキュメンタリーを作ったことがなかったので、YouTubeで「ドキュメンタリー 作り方」みたいな感じで調べたんです。
——え? YouTubeで?
コービー そう、YouTubeで(笑)。でも、ノンフィクションの編集については、あまり参考になるものがなくて。それで、じゃあ、フィクションの手法はあるかなと思って調べたら、アメリカ人の若い脚本家が、フィクションの構成について解説している動画を見つけたんです。それを見て、めちゃくちゃ勉強しました。
そこで解説されていたのは、「Story Circle」や「SAVE THE CAT」というもの。たとえば「Story Circle」では、物語を8つの段階に分けて、主人公が新しい体験を通してどんなふうに変化していくのかを表していきます。
「SAVE THE CAT」は、あらゆるストーリーのパターンが分析されていて、それが物語を組み立てるうえでのテンプレートになっている。
僕は、『Dr.Bala』をその手法に当てはめて、ストーリーを構成してみようと思ったんです。
——ドキュメンタリーを、フィクションの手法で。
コービー そうです。バッドマンシリーズの『ダークナイト』とか、『パラサイト 半地下の家族』で使われているようなストーリー構成を、ドキュメンタリーでやってみようと思って。
冒頭から何分経ったら事件が起きて、次は何分後に展開させるとか。エンディングは、オープニングと対比するようなシーンを入れるとか。すでにある素材の中から、そうした構成ができるようにエピソードを探して、つなげていく。
——斬新なやり方ですね。
コービー 難しかったのは、ドキュメンタリーなので、嘘があってはいけないこと。あくまでも事実はそのままに、ストーリーを組み立てていきました。
はじめはどこから手を付けていいのか分からなくて、途方に暮れていたのですが、「フィクションの手法を使おう」と決めてからは、作業が進みました。そして、エンディングシーンを編集しているときに思ったのが、2008年に日本で再会したときにカメラを回しておいてよかったな、ということでした。
——最初に東南アジアの話を聞いたときの。
コービー 実は、あのとき話していたことが、予言だったかのように、その後のカズの活動になっているんです。
「東南アジアの医療を変えたい」というのも、「短い期間でボランティアを続けられる仕組みを作りたい」というのも、その10年後には実現している。それって、すごいことですよね。編集しながら気付いて、鳥肌が立ちました。
——映画では、カンボジアに技術支援に行く日本人医師たちの姿が、危機感とともに映し出されていましたよね。何か編集の意図があったのでしょうか。
コービー もちろん日本の技術力は優れています。でも一方で、撮影をしていたときに「日本人、このままじゃやばいよ」という話も出ていたんです。というのも、カンボジアの医師たちはものすごい勢いで成長していて、すでに日本のトップの病院と同じくらいの症例数を執刀している。
日本人の医師たちに「カンボジアには日本人よりも手術が上手な医師がいますよ」と言うと、「え!そんなに上手なの?」とびっくりされますが、そのくらい向こうの先生たちのハングリー精神はすごいものがあります。それを知ってほしいなと思って、あえてそのシーンを入れました。
——2022年に映画が完成し、これまで世界各国の映画祭で高い評価を得ています。特に印象に残っている賞はありますか?
コービー インド映画祭でいただいた作品賞は嬉しかったですね。ロサンゼルス映画祭では長編ドキュメンタリー映画部門の監督賞を受賞したのですが、僕としては作品賞のほうが嬉しい。
「何か分からないけどいい映画だったな」と言われるのが、実は一番嬉しい。僕にとってはめちゃくちゃ褒め言葉。どこか一カ所に目が向くのではなく、没頭して、全体の流れとして見てもらえているということだと思うから。
監督には2種類のタイプがいると思っていて、すごい才能があって自分で何でもできてしまう人と、周りの人に助けてもらいながら映画を作る人。僕は後者なんです。
——この映画に集まったスタッフさんたち、すごい方たちばかりですよね。
コービー そうなんです。音楽を担当したChad Cannonさんは、2020年にアカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞した「American Factory」で、音楽を担当された方です。Chadさんは、もともと「音楽でアメリカとアジアをつなぎたい」という思いを持っていました。ミャンマーのジャパンハートにも行ったことがある人で、この映画にも並々ならぬ情熱を注いでくれました。彼との出会いをはじめ、素晴らしいメンバーたちに支えてもらったと感じています。
——たくさんの国の映画祭に出品されたのはなぜですか?
コービー 世界中の多くの人に観てもらいたいと思ったからです。この作品は、東南アジアで撮影をしましたし、主人公は日本人のカズで、自分はアメリカで活動をしている。それが、この映画の強みでもあると考えています。
また、初めて制作した長編映画なので、客観的な評価を得たいとも思いました。でも、実際にたくさんの映画祭に出品してみて分かったのは、映画祭はビジネスだということ。
ロサンゼルス映画祭で監督賞をもらったときも、授賞式に本人が参加するのはタダなのですが、それ以外は1人25ドル払わないといけない。トロフィーもタダでもらえるわけではなくて、400ドルで購入する。もちろんエントリーにもお金がかかる。映画祭自体がビジネスになっている、という現実も見えてきました。
でも一方で、カンボジア国際映画祭ではオフィシャルセレクションとなり、カンボジアでいつも撮影に行っていた病院の耳鼻科医はほとんど観に行ってくれました。
コービー このときは主催者にお願いして、カンボジアのメンバーが多く映っているディレクターズカット版を流してもらいました。自分が出た映像を観て、みんなが喜んでくれたと聞き、とても嬉しかったです。
——今後の展開はどのようにお考えですか?
コービー 今は、複数の配給会社と話を進めながら、同時に日本各地で自主上映をしてくれる団体や企業、学校での公開も予定しています。先行上映では「もっと多くの人に観てもらいたい」という声も多くいただきました。やはり大きなスクリーンで観てもらうと、伝わることもあるのではないかと思っているので、なるべく多くの国で配給が決まるように働きかけています。
「人生で何が一番大切なのか」、その答えが東南アジアで分かった
——ロサンゼルスから東南アジアまで、毎年撮影に行っていたのは、大村先生の何に引きつけられたからなのでしょうか。
コービー 「熱さ」ですよね。とにかく熱量がすごかった。
2008年にミャンマーがサイクロンの被害を受けたとき、カズはタイの大学で熱帯医学について学んでいるところでした。でも、被害の状況を聞くと、すぐに大学を辞めてビザをとってボランティアに駆けつけたんですよ。
——わざわざ大学を辞めて、支援に?
コービー そうなんです。大学を中退してまで、誰かのために行動できるって、すごくないですか?
カズが初めて海外活動をしたのはミャンマーだったので、ミャンマーの人たちが大変なことになっていると聞いて、いてもたってもいられなかったんでしょうね。被災から1カ月後には、その期間で集めた募金を抱えて現地へ向かい、医療活動を行っていました。
僕が長年、カズの撮影を続けたのは、その熱量に動かされたから。
それと、もう一つには、僕自身が東南アジアに魅力を感じて、毎年行きたいと思うようになっていたのもあります。
——どんなところに魅力を感じていたのですか?
コービー カンボジアやラオスでは、家族が入院するとなったら、田んぼを売ってお金を作って、家族全員で病院に来るんです。そういう人たちが集まって、廊下にズラーッと並んで寝ている。
それを見ていたら、「人生で何が一番大切なのか」を、教えてもらったような感じがして。
家族が病気になったら、みんなで側にいて支える。田んぼがなくなって、生活には困るかもしれないけれど、そんなことは問題じゃない。家族のほうが大事なんだ、と。
ミャンマーのカフェに行くと、よく小さい子どもが注文をとりにきてくれるんです。家族経営をしていて、みんなで働きながら暮らしている。その光景を見て、なんだかいいなと思ったんです。
——ミャンマーの人たちの温かさは、映画を観ていても伝わってきました。
コービー 実は、2019年に撮影に同行してくれたフォトグラファーから、次の場所での撮影に「行けなくなった」と言われて。その理由が、「実家に帰る予定と重なったから」だったんです。「ミャンマーの家族を見て、自分の家族に対する思いを見直した」と。
なんだかそれが、すごく嬉しかったんですよね。ちょうど僕も同じようなことを思っていたから。撮影を通して、家族への思いを共有できた気がしました。
——現地の医師たちが必死で技術を習得し、患者さんのためにと努力する姿を見て、「惰性で生きていちゃいけないと思うようになった」と話していたベテランの医師の方もいましたね。
コービー 東南アジアに通っていると、現地の人たちから学ぶことがたくさんあります。
誰かのために動けることや、自分を高めるハングリー精神、そして家族を大切にする心も。街にいる子どもたちの目もキラキラしていて、生きる力に溢れている。
僕はずっとアメリカから十何時間もかけて、しかも手弁当で撮影に行っていましたが、それができたのは、やっぱり自分が行きたかったからなんです。
行くと、元気になって力をもらえる。僕たちが何かをしてあげているようでいて、実は彼らからもらっているもののほうが、ずっと大きいと思います。(了)
【プロフィール】
コービー・シマダ(島田公一)さん
映画監督。1974年生まれ。日本大学経済学部を卒業後、Dellに入社。1999年、25歳のときに脱サラして渡米。ロサンゼルスの俳優学校に通いながら、エキストラとして『ラストサムライ』『スパイダーマン2』『インセプション』などハリウッド映画に出演。2003年に映像制作会社「KOBY PICTURES」を立ち上げ、映画、ドキュメンタリー、企業向けプロモーションビデオ、CMなどを制作している。2022年に長編映画『Dr.Bala』を制作し、監督・脚本を手がける。
『Dr.Bala』公式サイト
『Dr.Bala』上映情報
〇映画上映&トークイベント
4月29日(土)よりロードショー
*GW期間中は、上映後にトークイベントが予定されています
撮影/深山徳幸(人物) 安永ケンタウロス・中村力也(ロケ写真)
執筆/安藤梢
編集/佐藤友美
撮影協力/Rick’s Cafe American(リックス カフェ アメリカン)
東京都町田市原町田4-7-3 内藤ビル2F