それは鬼か、ただの少女か。変わらない悲劇を描いた『同志少女よ、敵を撃て』
狂言には「面を被ると、別の生きものになる」という決まり事があるらしい。素顔で市井の人を演じていた役者さんが、舞台上で面を顔に装着すると、途端に老人や鬼、福の神など、さまざまなものに変身する。
私がこれを知ったのは、先日、野村万作一門の狂言会「第100回野村狂言座」を観劇したときで、野村萬斎さんが「つまり狂言は、仮面ライダーの祖先なのです」と説明されていた。
家に帰る間、はて、現代の日常生活において、この「面」のシステムに似た何かがあるとしたら、それは一体何だろうと考えた。人間を一瞬で、別の生きものに変えてしまうもの。
状況や環境に応じて人が変わることはある。学生時代から太宰にかぶれていた文学青年の知人が、三十代半ばを過ぎてスタートアップ企業に転職した途端に「人間はWILL・CAN・MUSTの3つが大切です」なんて言い出した。別の生きものになった!と思った。
立場が人を変えることもある。挨拶と同じくらいの頻度で他人を妬み、呪っていた知人が、管理職になった途端にいい人になった。それから大切な存在を得て、変わることも。散々「仕事が大切だから子どもは要らない」と言っていた知人が、いま小さな右手を引きながら、歌うように花の名前を教えている。
人はその場に応じて最適化されて、まるで別人のような振る舞いや表情、思想を身につけることがある。だけど、面を被るだけで、途端に別の生きものになれる狂言とは、やはり少し話が違うようだ。
私たちは、ある時突然、別の生きものになることはない。だから自分のままで、少しずつ変わる。
戦争によって、人間がいかにして変わっていくのかを描いた小説がある。『同志少女よ、敵を撃て』。母親や同じ村に住む仲間たちをドイツ軍に殺された18歳の少女・セラフィマが、ソ連軍の狙撃兵となり、第二次世界大戦下の独ソ戦で戦い抜く物語だ。新人文学賞の第11回アガサ・クリスティー賞で、初めて審査員の全員が満点をつけた受賞作。その後も直木賞候補作に選出、第9回高校生直木賞受賞、2022年本屋大賞受賞と、話題に事欠かない。
小さな村で暮らすささやかな生活を愛していたセラフィマは、敵軍によって母を撃たれ、村人たちを惨殺され、その上乗り込んできた赤軍の女性兵士イリーナに村を焼かれる。
絶望と悲しみ、そして憎しみが轟々と燃え上がる。村を焼いたイリーナをいつか殺すと憎み、しかし生き延びるために彼女の誘いを受けて、少女は狙撃兵になることを決意する。そして、イリーナのもとで狙撃兵としての振る舞いや技術、思想を身につけていく。かつて子鹿を連れた母鹿を撃つことに思い迷っていた少女は、実戦に出て、自分が撃ち殺した人間の数を数えるようになる。
戦下では女性が陵辱され、銃撃戦に小さな子どもが巻き込まれる。文字を脳内で映像化することすらつらい描写が続くが、それでも「セラフィマはどう変わっていくのだろう」と先を知りたくてページをめくる。すると不思議なことが起きる。
セラフィマの変化より「変わらない」ところが気になり始めるのである。
突然村を襲われるまでは外交官を目指し、ソ連とドイツの仲を良くしたいと夢みていたセラフィマは、激しい実戦の中で「ドイツ軍は本当に憎むべき存在なのか」と逡巡を続ける。ドイツ軍の兵士たちに銃口を向け、引き金を引きつづけても、その思慮深さは失われない。
仲間を撃たれ、撃ち返し、憎き相手を思い浮かべて殺してやると念じた次の瞬間、ロシア伝統の蒸気風呂が用意されていることを聞いて、狙撃兵の少女たちは飛び上がって喜ぶ。シラミを落とし、互いの体を洗いながら、その心地よさに笑い合う。
鬼になりきれない少女のあどけない表情が、鬼でなければ説明がつかないような残虐な場面の間にひょっこり出てくる。矛盾だ。だけど、それが矛盾しないのが人間なのである。
私たちは、ある時突然、別の生きものになることはない。だから自分のままで、少しずつ変わる。
2月にウクライナ戦争が勃発して以来、戦争のニュースを見聞きするたびに私は、残虐なできごとや理不尽な状況が、人間を変えてしまうことの悲劇性を考えるようになった。だけど、この小説を読み進める途中で、私は別の悲劇に気づく。
いっそのこと、面を被っただけで鬼に変われたらどれほど楽だろう。別の生きものになって、敵軍を何も考えずに殺められるようになれたら。男を男というだけで恨めるようになったら。憎しみを晴らすだけの兵器になれたら。そんなふうに変身できたら、どれほど簡単だったのだろう。
だけど私たちは、「今この瞬間から別の生きものにはなる」という生き方を選べない。どう足掻いても、鬼にも福の神にも変わることはない。異なる文化を持つ人々の美しさに憧れ、誰かを愛おしいと思い、お風呂に入れるささやかな幸せを喜ぶ人間としての自分は、そうそう消えてくれはしないのである。
変わる悲劇もあるが、変わらない悲劇もこの世にはあるのだと思う。
小説の最後、主人公・セラフィマが銃口を向けるある人物は「変わらずに、変わってしまった」人間である。異国の、異なる時代の狙撃兵が、引き金にかけた人差し指。それが物語を超えて、まるで自分のもののように感じられるのは、そこに描かれているのが「もはや人間ではなくなった何か」の指ではなく、ただの少女の指だからである。
文/塚田 智恵美