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『東のエデン』で観る、「2010年の日本の空気」【Tajimaxのアニメでたどる平成カルチャー/第2回】

日頃「平成カルチャー」について記事を書いたりインタビューを受けたりしているTajimaxが、今一番注目している2010年代をアニメでたどる新連載。あまりにも速いスピードで時代が変化した「平成」最後の空気感を、アニメで紐解く。

『東のエデン』は(2009年4月より6月までフジテレビ『ノイタミナ』枠で放送)神山健治監督・ノイタミナのオリジナルストーリーアニメで、ノイタミナでは初になる映画化作品である。2009年にTVシリーズと劇場版の前半『The King of Eden』が公開され、2010年に上映された劇場版の後半『Paradise Lost』で幕を閉じた。政治や経済、社会問題などをスタイリッシュな映像で表現し、複雑な展開と後半で伏線を回収していくストーリーに今でも多くのアニメファンの支持を得ている作品だ。

ガラケーの最後の時代【LINEサービス開始前の時代】

『東のエデン』は「携帯電話」がキーとなる物語だ。この物語の主要アイテムである「ノブレス携帯」は、「Mr.OUTSIDE」からいきなり手渡される。12人の選ばれたプレーヤーは「セレソン」と名付けられ、強制的に「日本救済」のゲームに参加しなくてはならない。「日本を正しき方向へと導く」ことができればゲームは終了し、プレーヤーのうち誰か一人でもこれを成し遂げた場合、敗者は記憶を消されて消滅するシステムだ。各セレソンには100億円の電子マネーが入った「ノブレス携帯」と、万能なコンシェルジュの「ジュイス」が配布されてゲームはスタートする。

どこか近未来を感じさせるデザインの「ノブレス携帯」は、万能なコンシェルジュと100億円の電子マネーが入っている時点でかなり魅力的なアイテムだ。だが、どんなに近未来感や特別感があっても使い方はガラケーとさほど変わらない。2010年はまだ「LINE」は存在しておらず、(LINEがサービス開始したのは2011年)連絡のやり取りが全て電子メールというのもガラケー時代のもどかしさを感じて面白い。

携帯電話を主要アイテムとして取り扱ったアニメ作品はいくつかあるが、『東のエデン』が他の作品よりも一歩先の時代を感じさせるのが、作中で描かれたオリジナルのシステムだろう。『東のエデン』のタイトルを象徴する「エデンシステム」はカメラをかざすだけで画像を認識し、その画像への情報書き込みを可能にするシステムだ。他にも、IP電話アプリの「AirShip」、未来を確率で予測する「世間コンピューター」と言った架空のシステムが登場する。いつかそのようなシステムが本当に開発されるのでないか……と期待してしまうリアリティがあるところも『東のエデン』の見どころだ。

漠然とした不安と不満【2009年〜2010年の日本】

さきほど、『東のエデン』にはガラケーや「ノブレス携帯」、写真付きのメールなど「携帯電話」を軸にあちらこちらに2010年を思わせる小物たちが登場すると書いた。

だが、「2010年」の欠片はそれだけではない。この時代に問題視された数々の社会問題や、作中に漂う淀んだ空気そのものがまさに「2010年」という時代の「大きな塊」なのではないだろうか。

『東のエデン』がテレビで放映されたのは、2009年。

東日本大震災が起こる前の時代にあたる。もちろん、新型コロナウイルスのパンデミックもない。2020年以降の現代と比べると、2009年、2010年の方がまだ平和で良かったと思う人もいるかもしれない。私自身も2010年に戻れるのであれば戻りたいと思うことがしばしばある。

自身の思い出は置いておいて、2010年の実際の日本はどうだったのか。首相はコロコロと変わり、長いデフレに追い打ちをかけるかのように襲ったリーマンショック。引きこもりやニート問題。また「派遣切り」という言葉が流行語大賞に選ばれ、非正規労働者の増加から「ワーキングプア」という言葉も目立つようになった時代だ。そしてその問題は10年以上経った今でも未だに突破口が見つからず、より深刻化していっている。2010年の日本は流行やカルチャーだけ振り返ると明るい記憶や印象があるかもしれない。だが、こうして全体的に俯瞰して振り返ると、この時代の漠然とした不安と不満。国民がなんとなく感じとる「閉塞感」は相当なものだったのではないだろうか。

東のエデン』のキャッチコピーは「この国の”空気”に戦いを挑んだひとりの男の子と、彼を見守った女の子のたった11日間の物語」だ。

作中では、日本で「迂闊な月曜日」と称されたミサイルテロ事件が起こり、国民の関心が時間と共に薄れていくところから物語はスタートする。ヒロインの森美咲は第一話で「迂闊な月曜日」以降の日本に漂う雰囲気を「なんとなく漂う重たい空気」と表現し、滝沢朗は憎まれ役を買ってでも、その根底にある日本の問題に対峙していく。

結果的に100億円を使い切っても、日本の全ての問題が解決したわけではなかった。しかし、滝沢朗が動いたことにより、これからの日本がほんの少しずつ変わっていくかもしれないと希望を感じるラストで『東のエデン』は終わる。

放送開始から10年以上経った現在の日本も、ノアの箱船のような雰囲気があるのは否めない。だが、絶望感に浸る前にもう一度2010年の日本の「空気」そのものを描いた『東のエデン』を、観る価値はあるのかもしれない。現実に滝沢朗は存在しない。だってこの世界での主人公は私たちなのだから。

文/Tajimax

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