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「理解したい」驕った私にケイコの右ストレートが飛んできた。映画『ケイコ 目を澄ませて』

私の妹は、幼い頃から聴力が思わしくなかった。20代も終わりの頃、つながっているべき耳の中の軟骨が2つに離れていることが理由で、両耳とも聴力が低くなっていることがわかった。その頃、妹と会話をする時は、意識して彼女に近づき、大声ではっきりと話す必要があった。それでも「何?聞こえない!」と言われることもしばしばだった。

几帳面で真面目な性格なのになぜか仕事が続かず、職を転々としていたのも、「上司の指示が聞こえず、メモがうまくとれない」「何度も同じことを聞けないので、見様見真似で仕事をするが、細かなことを聞き逃してミスをしてしまい、気まずい」という理由からだったそうだ。今では手術をして片耳だけ聴力が戻っている妹は、困ったように笑いながら「上司の声がほとんど聞こえてなかったから別にいいけれど、ミスった時に結構ひどいこと言われてた気がするんだよね。」と回顧する。罵られても、何を言われているのかわからず困惑する妹の気持ちを想像するたび、過去に戻って妹のことを抱きしめられたらいいのに、と思った。

ろう者として生まれ、聞こえない世界で生きる女性プロボクサーが主役だということを知り、映画『ケイコ 目を澄ませて』を鑑賞した。

淡々と繰り返される縄跳びの音、鉛筆がノートの上を走る音、河川敷の上の鉄橋を電車が走る音。そうした自然音が劇を彩る。映画が上映されている99分の間、ほぼ音楽がない。自然な音が際立てば際立つほど、主人公でありプロボクサーの「ケイコ」は「音を聞くことが出来ない」ということと、私は「聞こえる者」であることを思い出す。

劇伴がない分、雑音と演者の動きに私たちの意識が集中する。さらに、ケイコのセリフは全編を通して、2~3しかない。鑑賞前にその噂を聞いていたため、「情報量が少なすぎないか?」と思っていたが、そんな心配は無用だった。言葉で語るよりも雄弁に、ケイコの視線と表情が想いを伝えてくる。私は、こんなに真剣に人の表情を見た事があっただろうか。

ケイコは主人公であるにもかかわらず、書き言葉や手話を含め、自分の胸の内を明らかにする場面が少ない。毎日のトレーニング内容をしたためる日記か、ケイコの弟との手話の会話、ジムの会長宛の手紙程度でしか、直接気持ちを語る場面が描かれない。映画の前半、強く感じたのがケイコは「内向き」の人間だということ。ケイコは、人や環境から刺激を受けたら、それを内に内に溜めていく。これは、性格によるものが大きそう。溜まった刺激を、クツクツ煮込んで自分で消化していくタイプのように見える。だからなのか、物語は淡々と進んでいく。

劇中、手話話者3名が画面に映り、手話で会話を楽しむ場面がある。特筆すべきなのは、この場面にはなんの字幕もついていないことだ。手話話者の会話に、私は置いていかれる。時間にするとおそらくほんの数十秒。手話がわからない私には、どんな会話が繰り広げられているのか理解できない。目を澄ませて、どんな会話をしているか想像する。すごく不安な気持ちになる。今まで、耳が聞こえることでの快適さを無意識に享受してきたことを知り、はっとする。その瞬間の心のざわめきに、職場の人達の会話を聞き取れず、愛想笑いをしていた瞬間の妹の気持ちを思う。

ある時、三浦友和演じるジムの会長が、病に伏す。医師による会長の病状説明のシーンで、少しの無理の蓄積が、身体にダメージを与えかねないと伝える、「雨垂れ石を穿つ」という趣旨のセリフがあった。私にはこの説明が、ケイコの人生のメタファーのように感じられてならない。ケイコにも妹にも、私には想像できない数の「雨」が降り注ぎ、長い時間をかけて心の中の石を穿ってきたんだろう。ジムの閉鎖とこれから先どうボクシングに向き合っていくかの葛藤、対戦相手の反則をうまく伝えられないもどかしさによって、ケイコの人生をかけて溜まった雨水が濁流のごとく流れ出し、咆哮になったように思える。

地下の劇場から階段を上り、靖国通りに出た私は、目を澄ませて、耳を凝らす。靖国通りを通る車のエンジン音、腕を組んで歩くカップルの会話、遠くを走る山手線。いつもそこにあったはずなのに、聞こえていなかった音が私の耳に飛び込んできた。嫌でも、耳が聞こえることを意識する。ケイコが言う「どうせ人はひとり」というセリフは、寂しいけど、きっとそのとおりだ。ケイコもひとりだし、私もひとり。ひとりずつの私たちができるのは、ひとりずつのまま、相手の心を覗こうと努力し続けることだけだ。聞こえないことを理解したいと思って映画を見始めた、驕った私の頬に、ケイコの右ストレートが飛んできた。多分、「本当の理解」なんて、一生できない。

文/市川 みさき

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