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「人を」わかりたいから読むのではない。「自分を」わかるために読むのだ。『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』

なぜ、こんなに人の日記を読むのが好きなのだろう。

小説は繰り返し読まないのに、日記は何度も読み返してしまう。武田百合子の『富士日記』と、末井昭の『絶対毎日スエイ日記』は、もう何度読み直したかわからない。作者と似た出来事を体験して同じような感想を持ったとき、本棚に手を伸ばしてパラパラとめくり、そこにある文字をなぞる。なんだか安心するのだ。

日記は書籍だけでなく、ウェブでも読む。ブックマークには7つ。そのうち3つはもう更新されていないが、たまにその後が気になってアクセスしている。


今も更新され、毎日読んでいる日記のひとつが、品田遊氏の『ウロマガ(居酒屋のウーロン茶マガジン)』だ。私が読み始めたのはここ1年程だが、日記は2018年6月から毎日、約1500字のボリュームで綴られている。

これがなんというか、単なる日記だと思って読むと危険なのだ。

しばらく跳び箱を飛んでないことに気づいて、おもむろに飛べる場所を探したり(大人が気軽に跳び箱を楽しめる場所は存在しないそうだ)、今日は書くことがないからと「嘘の話を書きます」といって小話が綴られていたり。どこかシニカルな視点で書かれた日々の記録や思いつきに、思わずぐふっと吹き出してしまう。

一方で、「『安易にエモいと言わず、言葉を尽くして考えて』みたいな言説がちょっと苦手だ。(中略)世界は言葉でできているんだけど、言葉が必要な人ばかりではない」など、書く仕事をしている自分にとって、どきりとするような考察もあり、そうなると思考の沼にはまって2時間くらい抜け出せなくなるときがある。

だから日記の更新通知がきても、すぐに読むのを我慢する日もある。

なのに、私はうっかり読んでしまった。この品田遊氏の、1642日分の日記から選り抜かれた書籍『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』を、いつもより早めに入ったベッドの中で。偏頭痛がひどかったので鎮痛剤を飲み、眠くなるまで本でも読むかと、何の気なしに手に取ったのだ。

本になった日記は日付を外され、約150編に絞られて再構成されている。加筆修正しているとはいえ、ウェブで読んだ文章もあるはずなのにどの話も初見のようだ。品田氏は編集者でもあるが、取り上げた話の順番がものすごく練られている気がする。

日常の出来事と創作がランダムに構成されており、最初は箸休めのように思えた創作の小話が、日常の描写とまじって現実の話なのか非現実なのか、はたまた夢なのか、読んでいるうちにその境界線がわからなくなる感じ。

「白昼夢みたい」ってこういうときに言うのかな、なんて思いながらベッドの中でページをめくった。

日常で抱く違和感や疑問を言葉にするのが、うらやましくなるくらい上手いと感じる。

私も品田氏と同じように、美術館では絵の前で立ち止まって「じっくり観ている自分」を演出するときがあるし、自分の知らない地元の店がテレビで紹介されているのを観たとき、妙な敗北感があった。

「わかる、わかるよ……!」と読み進めたら、あとがきに「子どもの頃から『そういうことが言いたいんじゃなくて……』という言葉を何度も飲み込んできた。『わかる』と言ってくれる人ほど敵だった」とあった。梯子を外された気分だ。

だけど、敵認定されたからこそ、わかったのだ。

私がよく日記を読み返すのは、好きな作者の思考をなぞって、その人を「わかりたい、理解したい」からだと思っていた。そうじゃなかった。自分の中からは生まれてこない言葉に、出合いたかったからだ。

あとがきはこう続く。

「頭の中のちょっとしたイメージや違和感を形にするために、多くの言葉を尽くさなければならない」

日常でふと思うことや違和感を、誰もが言語化できるわけではない。でも、言葉にできた方がきっと世界は広がる。私も、頭の中を形づくってくれる言葉を、いつだって探している。

だから日記を読んで、他人の言葉の中に少しでも「わかる」をみつけると、うれしくなってしまう。ああ、同じように感じる人がいるんだなぁと安心もする。たとえ私が「そういうことじゃない」受け取り方をしていたとしても、「わかる」って思える人の存在自体が救いになっている気がする。

心に引っ掛かったところに細かく破ったティッシュを挟みながら(寝たまま手の届くところに付箋がなかった)結局最後まで読んでしまった。鎮痛剤はとっくに効いて、頭も目も冴えまくっている。完全に読むタイミングを間違えた。

寝不足のまま翌日手に取った本は、倍くらいに膨らんでいた。

ティッシュを挟むのが面倒くさくなり、途中から折り目をつけていたのだ。ティッシュと折り目だらけで、どこをおもしろいと感じたのかわからなくなったので、もう一度読み返した。さらに二重に折ったり、手元にあったチェルシーの包み紙やブルボンのビスケットの袋を挟んだりしていたら、わけがわからなくなった(味ごとに分けたのに)。

どこを読んでもおもしろい、金太郎飴みたいな本に付箋はいらなかった。

品田氏のこの本も、これから何度も読み返すだろう。

ちなみに、品田氏はネットを通じて「この人の考え方わかるなあ」と感じても、「会ってみたい」と思ったことはないそうだ。わかる。

でも、もし、品田氏の日記の更新が止まってしまったら……。「あのー、お元気ですか?」みたいなメールを、品田氏には送ってしまいそうな気がしている。

文/高山 しのぶ

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