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小さなプライドと劣等感を抱えたまま書き続ける。「文学フリマ」に出店するということ

私が『文学フリマ』なるイベントを知ったのは、ライターの友人が出店していたからだった。

文学フリマとは公式サイトによると、作り手が「自らが『文学』と信じるもの」を自分たちの手で販売する、文学作品展示即売会です、とある。文学作品といっても、小説、絵本、短歌、エッセイなど、そのジャンルは実に多岐にわたる。

その友人は、過去に自分の書いたエッセイをZINEとして販売、それがきっかけとなり、商業出版も果たしていた。すごい……! ZINEを作るとは、なんと夢のある話だろうか。

私は京都在住で、依頼された原稿を書くという商業ライターを17年している。そして、いつかは自著を出したいという夢がある。ZINEを作れば、その夢に一歩近づけるかもしれない。そう思って、今回、5月21日に東京流通センターで開催される『文学フリマ』への出店を決めた。けれど、「一人で挑戦しても、途中で挫折してしまうかもしれない」と考え、自分の主宰するオンラインサロンで同じくZINEを作りたい仲間を募って、みんなで出店することにした。

なぜ、ZINEを作るのか。

私は、私の書いたものを紙の本に仕立てて、誰かに読んでもらいたいからだった。商業ライターとして依頼をもらい、第三者として書いたものではなく、自分が自分の書きたいように書いたものを読んでもらいたい。最近は、WEBで記事を書くことも増えたけれど、本好きが高じてライターになった私としては、書いたものが「紙の本」となる喜びはとてつもなく大きい。

ライターとしてエッセイの依頼も、時々あるにはあるが、少ない。ずっと依頼を待っていたけれど、全然増えない。出版の依頼はもちろんない。ならば、自分で勝手に作って発表すればいいのだとあるとき吹っ切れた。

一緒に出ることを決めた仲間とは、5月の文学フリマをゴールに2月から準備を始めていた。だが、やっと全員のお尻に火が点いたのは、開催まで1ヶ月を切った4月末のことだった。原稿は書けたか? レイアウトはどうしたらいいのか? 入稿はいつまでにするのか? 価格設定は? などと、仕事そっちのけで仲間とZINE作りに取り組んだ。

私は開催まで2週間を切った5月上旬になって、ようやく原稿を入稿した。そして開催3日前に自宅に届いた冊子。

手に取って、「やはり紙に印刷されて仕上がったものはいいなぁ」と思わずニヤニヤ。達成感に浸っていたのだが、さっそくZINEを読んでみて、衝撃を受けた。誤植があったのではない(何ヶ所かあったが、そうではない)。今回ZINEを作ってみてハッキリと分かったこと。それは、私には私の目指す「読ませる文章力」がないということだった。

曲がりなりにもライターを17年続けてきて、少しはまともな文章が書けるようになったのではないかと自負していたのだが、こうして紙に印刷されたものを改めて読んでみると、全然だった。恥ずかしい。

今回のZINEは、自分が過去にネットに書き散らかしていたものを1冊にまとめようと決めていた。画面で読む文章と、紙に印刷されて読む文章は、印象が全く変わってくるのはあらかじめ分かっていたので、紙媒体用に原稿はリライトしていたのだが。

実際、紙に印刷されたものを読んでみると「私は、こんなに文章が下手だったのか」と、がく然とした。ふだん私が読んでいる本とレベルが違う(比べるにも及ばないと思うけれど、ベストセラー作家と比べています)。

商業ライターとしてではない、生まれて初めて自分のエッセイを冊子で読んでみたら、私が目指すレベルにかすってもいないことに、やっと気がついた。私は、紙で読んで耐えうる文章を書きたい、と、猛烈に思った。そして、こんなZINEを販売してもいいのだろうか……と、1日落ち込んだ。

その日はもうこれ以上落ちるところがない、というところまで落ち込んだ。せっかくZINEが完成したというのに、とてつもなくがっかりした。けれど、意気消沈したところで、私の文章がうまくなるわけではない、とも思った。落ち込んでいる暇があるなら、書け(と言われた気がした)。そこで「今の私がこのレベルの文章しか書けないのはもう仕方がない、変えようがない事実なのだ」と、受け止めることにした。

ならば、次に私がすべきは、一刻も早く上達するための努力をするだけだ。死ぬまでに私は、私の書きたいと思う文章が書けるようになるのか。理想とするレベルまで達することができるのか? あと何年書き続けたら、私は私の理想とする文章が書けるようになるのか? 17年やってこのレベルだとしたら、全っ然、時間が足りない。本当に時間がない。あぁ、どうやったら私の考える、いい文章が書けるようになるのだろう⁉︎ と、自分のZINEを読んだあとに、そんなことを考えた。

そして、ついに迎えた当日。

5人それぞれの作品を持ち寄りブースに並べて、お客さんを待つ。お客さんはブースが並ぶ通路を行き来して作品を見てまわるのだが、当日は、人とぶつからずには歩けないほどの混雑ぶりだった。この日はお天気もよくコロナも落ち着いた時期だったせいか、最終的に出店者・一般来場者あわせて1万780人が訪れ、過去最高記録を更新。かつ、初めて1万人を突破したという。


通りゆく人がZINEに目を留め、手に取る。目の前で自分の書いた文章を立ち読みされる恥ずかしさ、買ってもらえる嬉しさ、手に取ったZINEを戻される切なさなど。リアルタイムで読者の反応を見られることに、これまで味わったことのないような喜びと、とまどいがあった。わずか半日の間に一気にいろいろな感情を味わって、心がとても忙しかった。

私もいろいろな人のブースを見にいった。人の波を縫って進み、気になるブースを見ると、自分が話したラジオの書き起こしをそのまま冊子にしたというものや、ホッチキス止めをしただけのシンプルな冊子、中には、卒業論文を製本して販売している人までいた(それはアリなのか? いやアリなのだ。文学と信じるものであれば)。

会場でいろいろな作品に触れ感じたのが、文学とは、こんなにも自由でいいんだなということだった。崇高な、格式あるものだけを「文学」と、たぶん私は定義していて、そこに当てはまらない自分の作品は文学ではなく、発表するに値しないと思っていたし、実際落ち込んだ。でも、出店者はプロかアマかは、問われない。当日は、商業出版を果たしている現役の作家や売れっ子ライターが何人も出店していたり、出版社や書店による出店もあった。と同時に、会社員が趣味で作った冊子を販売していたりもする。みんな文学を愛する人として同じ土俵に上がっていた。

ライターであるという小さなプライドと、でも作家ではないという劣等感を持ちつつ、おそるおそる参加したけれど、そんなことはどうでもよくて、ここではみんなが同志であり、ただひたすらに文学を愛する仲間であるという気がした。文章の上手いも下手も、売れてる、売れてないも関係ない。いろいろな人の作品を見せてもらい、全てが許されたような気がしたのだった。

そして、文学というとすごく地味な印象があったけれど、会場はまるでお祭り騒ぎで、終わってみると、高校の文化祭のような一体感と達成感が味わえて、本当に楽しかった。他のブースを見に行って全然帰ってこない友だち、ブースに来てくれる人と前のめりに話したくて、用意された椅子に座る暇もない私。文章を書くとき、私たちはとても孤独なのに、書いたあとにまさかこんな楽しみが待っていようとは。「文学」を媒体に、こんなにも楽しいやりとりができ、一人だけど独りではないと分かった。そもそもZINEを完成させることだって、一人では到底無理だった。仲間がいたから成し得たことなのだ。

自信のある文章なんて、これまで書けた試しがない。私なんかがエッセイを書いて、意味があるのだろうか? とも思っていたけれど、今回文学フリマに出店したことで、「自信がないまま、これからもただ、書き続けていけばいい」という勇気をもらった。なので、もし今、私と同じように書くことに興味がある、でも書く自信がないという人がいたら、一刻も早く、書くことに取りかかるべき。書く練習をするなり、公開して誰かに読んでもらうなり、するべき。迷っている暇はない。大丈夫、書きたい私たちには、こんなにもたくさんの仲間がいるのだから。

文/江角 悠子

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