
さよなら私の原稿、193本【さとゆみの今日もコレカラ/第882回】
2025年の4月にサイト更新をストップしていた朝日新聞のtelling,さん。昨日、3月31日をもって、サイトが閉鎖された。
私が連載させてもらっていた「本という贅沢」の連載193本も全部消えた。
もちろん、事前にご案内いただいていたから全部コピペして避難させてあったし、コラムの著作権は私に所属している。
が、タレントさんへのインタビュー記事などの著作権は(契約によるのかもしれないけれど)、おそらく編集部のものだから、その後、別の場所(たとえばライターさんのnoteなど)で公開されることはないだろう。いい記事もたくさんあったけれど、二度と読めない記事になってしまっている。
いち読者としても、とても残念だ。
メディアが消失することによって、ライターが書いた記事が一瞬にして消える事態が続いていてると聞く。
これまで「紙の本は残るからいいですね」と言われるたび「いやいや、webの方が残るよ。紙なんて数年で簡単に絶版になるよ」と伝えてきたけれど。こうなると、一周回って「紙の本は残る(少なくとも日本で発行された書籍は国会図書館に1冊は残る)」と言えるかもしれない。
夏前には、『ママはキミと一緒にオトナになる』を連載させていただいていたkufuraさんも閉じることになっている。
ここには、本には書かれていないエピソードがたくさん残っているので、これが消えてしまうのも悲しいなあ。
もし、『ママはキミと一緒にオトナになる』を読んでファンになってくださったみなさまがいらっしゃったら、6月末のサイト閉鎖前までに読んでもらえたら嬉しいです。
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【バックナンバー】
父が愛した醍醐の桜【さとゆみの今日もコレカラ/第881回】
醍醐寺の桜を見に行った。
亡くなった父が大好きだった醍醐深雪桜を、母と一緒にみようと思ったのだ。
ここにくるのは、記憶がはっきりしているだけでも、4度目。
2回目は12年前だろうか。
桜の前で、ベビーカーに乗っていた息子を抱き上げ、一緒に写真を撮った父のことを覚えている。
昨夜、母と一緒に向かったときも、「ああ、この木よね」と、すぐにわかった。
金堂がある伽藍のほうはライトアップのおかげで人がいっぱいだったけれど、
霊宝館のあるほうは、ぐっと人が減り、ゆっくりと周ることができた。
霊宝館の中には、信長、秀吉、家康が書いた書が国宝として展示されている。
文字を見ると、ほんとうに生きていたんだなあと感じるから不思議だ。
信長のサインは「信」の字を「イ言」のように横長に書き、その間に「長」という文字を入れている。芸能人のサインみたいでオシャレである。
秀吉は700本の桜を醍醐寺に植樹させた。「醍醐の花見」として催された宴で、みなが披露した和歌も「醍醐花見短冊帖」として残っている。
秀吉をはじめとして、北政所(ねね)、淀殿(茶々)、秀頼、諸大名の和歌が131首も詠まれている。
ねねも茶々も、一緒にいたのだなあと思う。こういうときってどんな気持ちなのだろう。
一番多いのは女房の和歌。そうかこういう場所でおつとめするには、文学の素養も必要であったのだなと思わされる。
ひとつひとつ見ていくと、桜を雪に見立てた歌が多い。
醍醐寺の山号である「深雪山(みゆきやま)」に掛けて、「雪」や「御幸(みゆき=お出まし)」を詠み込んだ歌が多数を占める。
ライターとしては、いや、まず、みんなが詠みそうな話題は避けるところがスタート地点だろうなどと思ってしまうのだが、「みゆき」だらけの歌の差分を味わうのも楽しい。
栄華を極めた醍醐の花見の半年後、秀吉は亡くなる。
没後400年以上の月日を経て、同じ場所で桜を見ている私たちよ。
私たちも、もうすぐ亡くなる。
醍醐深雪桜も太閤しだれ桜も樹齢は180年ほどになるという。
桜のほうが長生きだね。
「なぜVIOよりヒゲ脱毛なのか」発信すると情報が集まる法則【さとゆみの今日もコレカラ/第880回】
発信すると情報が集まる。
これは誰もがよく言っていることだけれど、何かについて発信すると、それについての情報が集まってくる。
いま、私ほど、「尿漏れ」と「介護脱毛」について情報が集まってきている人はいないのではないか。
先日、現役の介護士さんがこんなnoteを書いてくださった。
50代を迎え討つ! の原稿でも触れたヒゲ脱毛とダイエットについて、リアルな声を教えてくださっている。
この中に、
「VIOよりもヒゲ脱毛」
「そしてやっぱり痩せてくれ」
というくだりがあるのですが、ヒゲ脱毛については、「なるほど、そんな理由で!!!」となりました。
思ってもいない理由だった。現場のリアルとはこういうことかとなりました。
よかったらぜひ、読んでくださいませ。
これはもう完全恨み節になるんだけど、ここまできたら聞いてくれ。
「うちのお父さんちゃんと世話されてない」っていただくクレームの8割がヒゲが伸びていることに由来している。
再読こそが読書の醍醐味だと思う理由【さとゆみの今日もコレカラ/第879回】
NHKさんで行っている読書会&書評講座。
2冊目の課題図書が『書くことの不純』で、内容がわりと難解だった。
初読のときには「とっつきにくい」「理解できる部分が少なかった」と言っていた参加者のみなさんが、2度目の書評リライトでは、みんなとても面白い感想を書いてくれていて、「再読でぐんと理解が深まった」ことがわかった。最初は理解できない本でも、2度、3度読むことで、だんだん読めるようになってくる。ある日突然読めることもある。
私はノルウェイの森を高校生のときに読んで「なんじゃこの本? 意味わかんねー」と思ったけれど、大人になってから再読したら、もう、わかりみが深すぎて、なんでこんなに明快な話を、当時はわからないと思ったのだろうと感じた。
なので、再読こそが読書だと思っているのだけれど、その醍醐味は、2度、3度、頭から最後まで読んで思考を深めることだけを指すのではない。
今日何かが起こったときに、あれ、この感じ、既視感がある。どこかで一度触れている。
そんなふうに感じたときに、かつて読んだ本を振り返る。
あの本のどこかに書かれていたことのような気がする。そんなふうに蔵書をパラパラめくって、その場所に辿り着き「ああ、今の私の心境にぴったりの言葉がここにあった」となるときのエクスタシーが半端ない。
これは、一度読んでいるからこそ、気づけることで。
過去に自分が読んだ本に、今救われる経験を何度もしてきた。
この再読読書は、初読があってこそである。
だから、いまわからない本でも、せっせと読んでおくことには価値があるなあって思うよ。
今日は京都の日本酒サロン粋suiで1日ママdayです。お待ちしていまーす。
この桜、命の桜。最後の桜。 【さとゆみの今日もコレカラ/第877回】
大学1年生のときに、初めてゼミなるものを体験した。
一人に和歌一首ずつ、三十一文字を与えられ、そのたった三十一文字を何ヶ月もかけて調べ上げるのだ。
何をそんなにやることがあるのかと思うかもしれない。
でも、その、たった三十一文字の中に何が描かれているのかを読み解くのに、分厚い書籍を何冊も何冊も読み、
過去の考察論文を何本も読んだ。
「梅」や「桜」の一文字が入っていた人は大変だった。
万葉集まで遡って、「梅」や「桜」を描いた和歌を全部洗い出し、分析し、この桜はどんな桜なのかを研究する。
万葉集に桜の歌は少ない。この時代は、花見といえば、梅だった。
桜が、一年に一度だけ咲くもので、はかなげなものの象徴とうたわれるようになったのは、奈良時代ではなく、平安時代のことである。
転機となったのは、 在原業平の
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
である。
咲くときだけではなく、散ることの美しさ、切なさに言及されるようなったのは、古今和歌集で桜の歌が多く収録されてから。
西行法師の、「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」は、平安末期の歌である。
そして、「来年はこの桜を見られるだろうか」といった、死生観の象徴としてはっきりと扱われるようになったのは、さらに時代が経ってからのこと。
「明日ありと 思ふ心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」は、親鸞聖人の歌だと言われている。
秀吉は、亡くなる前の春、醍醐寺に700本の桜を植え、最後の花見を楽しんだという。
いま読んでいる小説が京都を舞台にしていて「紅葉は大丈夫です。でも、来年の桜は見られないかもしれません」という記述があった。
「そうか、母さん、今年は最後の花見になるそうだ」と奥さんに話しかけるこの感じ、日本人にしかわからない感覚だよなあと思いながら、読んでいた。
京都は二分咲き、三分咲き。
来年の桜を見られるかどうかわからないのは、なにも、病気の人だけじゃない。
最近は、よく、そんなことを考えるよねえ。
桜だけじゃなくて、椿の美しさと見事な散りっぷりに拍手を送りたくなるのも、歳をとったからか。
今日はこのあと、NHK梅田さんで、木下達也さんの『天才による凡人のための短歌教室』をみんなで読みます。
あなたといるからデトックス 【さとゆみの今日もコレカラ/第876回】
先日、東京から京都に遊びにきた友人と一緒に、サウナに行った。
1時間半のサウナ時間。粛々と汗を流し、水風呂に浸かる。
その彼女が、「サウナって、デジタルデトックスですよねえ」と言う。たしかに。サウナには、ケータイを持ち込むわけにいかない。
彼女は、デジタルデトックスできることが、サウナの魅力のひとつだという。というか、デジタルデトックスできる場所って、もう、サウナくらいしかないかもしれないとも言う。
なるほど。そうか。
たしかに、ケータイの存在を完全に忘れることができる時間なんて、ほとんどない。
そういえばかつて、京都にある私設図書館「鈍考」で、入り口のロッカールームにケータイ電話を預けたら、驚くほど本が読めた。
強制的にケータイを手放す場所は、いまやお金を払ってでも手に入れたいのだなあ。
「さとゆみさんと会うのも、デジタルデトックスです」と、彼女は言う。
いろいろ話したいことがあるから、ケータイを触らなくなるのだとか。
そう言ってもらえるのはとても嬉しい。
私も、「そういえば、この人と一緒にいる時は、ケータイを一切見ないな」という人がいる。
それはお金を出してでも欲しい、お金を出しても買えない、プライスレスな時間なのだなと気付かされることよ。


