
「人の話を聞くのが好き」なのは「自分LOVE」だからでした(私の場合)【さとゆみの今日もコレカラ/第807回】
本日、「人の話を聞くのが好き」が高じすぎた方のお話を聞かせていただいてて、それがすっごく面白かった。その話は近く原稿になるので、そのときにご紹介させていただくとでして。
私も人の話を聞くのが好き。
ほんと、誰彼かまわず、いろんな人に質問してまわるから「さとゆみさんて、ほんと、人に興味あるんですねえ」と1000回くらい言われたことがあるけれど、ごめんちゃい、人に興味あるっていうか、自分に興味ある。
いろんな人の話を聞くと、自分との差分がわかる。
差分がわかると、自分の居場所がわかる。
物差しをもって歩いているようなものなのです。
うわああ、知らんかった。
うわああ、知ってたけど、その考え方したことなかった。
うわああ、それ考えたことあったけれど、そこは思いつかなかった。
うわああ、完全に同じこと考えてた。だけど、たどり着くまでの道のりが違う。
そんなふうに自分を起点に話を聞いていると、どんな話だって面白いの一択で、自分からの距離が遠ければ遠いことを面白いと思うし、近ければ近いことを面白いと思う。
原稿を書くときも、自分との「差分」について考えたことを書く。
私は、「自分のこと」を書いているように思われるし、自己開示があけっぴろげな書き手だと思われているけれど、「自分のこと」を書いていることはほとんどなくて「自分と何かの差分」について書いている。
私と彼(ないしは、私と世界)の間にある差分は何だろうということを書いてる。
これは、エッセイやコラムでもそうだけれど、インタビュー原稿でもそうだ。
ということを言語化できた、楽しい夜でした。
らびゅー。
★「今日もコレカラ」は24時間に1回、夜あたりに更新されます。時間未定の夜更新になったので、何日か分のバックナンバーは文末においておきます。
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こんなところにこだわって書いている、裏話【さとゆみの今日もコレカラ/第806回】
今日、朝日新聞「&」でおすすめさせてもらった三宅香帆さんの『文体のひみつ』ですが、まさに、その原稿を修正している最中に、「やっぱり文体って大事だなあ」と思った件があった。
(原稿はこちら)本好きの人。文章を書く人。100パー読んだらいいけど、読まれたくない。『文体のひみつ』
今回はちょっと、その原稿の裏話。
この原稿の中で私、
なるほど! だから私たちは「しいたけ.」さんの文章に心をつかまれ、星野源さんの言葉にふにゃっとなって、さくらももこさんに笑ってしまうのか!!
と書いたんだけれど、この一文、初稿では
なるほど! だから私たちは「しいたけ.」さんの文章に心をつかまれ、星野源さんの言葉にふにゃっとなって、こんまりさんに説得されてしまうのか!!
だったんですよね。
つまり、こんまりさんを、さくらももこさんに変えたわけです。
これ、なんでかというと、「こんまりさん」と書いた部分は、「こんまり(近藤麻理恵)さん」にしたほうがよさそうという指摘が入ったからです。
ああ、たしかに。おっしゃる通り。
ここはフルネームが必要な場所だ、と納得しました。それは完全に納得したのですけれど、そうなると、原稿はこうなるわけです。
なるほど! だから私たちは「しいたけ.」さんの文章に心をつかまれ、星野源さんの言葉にふにゃっとなって、こんまり(近藤麻理恵)さんに説得されてしまうのか!!
どうでしょう
音読してもらったらわかると思うのですが、急にリズムが崩れる。
今回の三宅香帆さんの本には、「文体とは、音の数やリズムにもあらわれる」という内容が繰り返し出てきていたので、ここはこだわりたいところと思いました。それで、そもそもの例をさくらももこさんに変更させてもらったのです。
1文字修正入ると音が変わるから、赤字をもらうとその前後の文章もだいたい書き直す。私はわりと、内容より音色や音数を優先することが多いです。今回も音優先で、内容を変えたパターン。
文脈的に、「こんまりさんの文章の特徴」と「さくらももこさんの文章の特徴」は代替可能だったのですが、
音(リズム)的に「こんまりさん」と「こんまり(近藤麻理恵)さん」は代替不可能だったと思ったからです。
そんなことを考えながら、みゅうみゅう毎日書いております。
よかったら、読んでくださいね。
本好きの人。文章を書く人。100パー読んだらいいけど、読まれたくない。『文体のひみつ』
「選ぶ」をすると、「選ばれる」がわかる【さとゆみの今日もコレカラ/第805回】
年末、大学で講義をさせてもらったのだが、そのリアクションペーパーを昨日もらった。
約150人分。文字数にして5万2000文字。全部に目を通して面白いことに気づいた。
くっきりと記憶に残る感想がいくつかあって、それらには共通点があるということだ。
とくに記憶に残った感想は、私の講義自体について書かれた感想ではなく、私の講義で思い出したこと、自分の体験について詳しく書かれているものだった。
私の講義なのだから、その内容は私が一番よく知っている。それについての感想はもちろん、めちゃくちゃ嬉しいしありがたい。ただ、おおむね想定の範囲内である。
一方、講義を聞いて連想したという個別のエピソードや、個別の思考などは、私には知り得ない。そういう感想は面白いし、記憶に残る。「前に、こんなことを言っていた学生さんがいてね……」と、いつか別の講義で話していそうだ。
ところで、こんなふうに、150人分の感想文を一気に読むような経験を一度でもしてみたら、それを見る側の目のつけどころがちょっぴりわかるだろうなあと、思う。
私がエッセイ講座で最初に、全員分のエッセイをブラインドで読んでもらうのも、その理由だ。
知らない人のエッセイ(名前が隠されたエッセイ)を読むのは、どれほど気力がいることか。どれほど大変で苦痛なことか。それを知れたら、書くときの心もちが変わる。
これ、なんでもそうだなと思う。
企画を通す側を経験したら、通る企画が見えるようになる。
大量のESを読んだら、面接官の気持ちが見えるようになる。
お行儀の良いスムースな文章が、実は一番「弱い」。そんなことを知れたら、きっと、その後書くものが、がらっと変わるんだろうなあ。
(大学生に言っているようで、私はいま、自分に向かっても言っています)
糸井さんからの(勝手に)アンサーソング【さとゆみの今日もコレカラ/第804回】
昨年末『神時間術』を読んだこともあって、今年は仕事の仕方をガラッと変えた。体感で1.6倍くらいの集中力で、1.6倍くらいの量の仕事ができているイメージ。今年、めちゃくちゃ仕事が増えているので、ほんと、よかった。
その話はまたいつか書くとして、その流れで今年は久しぶりにほぼ日手帳を買った。
何を思ったのか英語版を買ったので、日本語版と違って毎日の言葉の部分が全然目に入ってこない(老眼にはきつい)。
で、今日読んだ部分がたまたま1月2日の糸井さんの文章だった。「今日のダーリン」の文章。
When you have a reader, you can write. So why not make that reader your future self? It doesn’t matter if it’s you in a year, or in a month. It might surprise you to see how much next year’s you will enjoy reading what you wrote about today. No doubt that you will then pick up the rest of the story.
うわわわわわわ、となった。
まさに、昨日書いた「誰も読んでくれなくても、文章を書くか」(文末にアーカイブあります)のアンサーソングのようで、ぞわっとした。
未来の自分という読者のために書く。
糸井さんの、これはひとつのアンサー。
そしてもうひとつ。これは昨日の時点で私が考えていたことだけれど、書くこと自体に意味がある場合。
例えば、書くことで自分の脳をまさぐっている場合。考えをまとめている場合、思考を飛躍させている場合。
こういう時は、誰が見てくれる見てくれないにかかわらず、もう、書いただけでモトが取れている。
モトを取ろうという根性がそもそも浅ましいが、書いていること自体がご褒美なのだよな。
以下はさとゆみ訳。
読み手がいれば、人は書くことができる。だったら、その読み手を「未来の自分」にしてみたらどうだろう。それが一年後の自分でも、一か月後の自分でいい。今日書いたことを、来年の自分がどれほど楽しんで読むか――きっと、あなた自身が驚くはずだ。そして間違いなく、あなたはその物語の続きに目をこらしたくなるだろう。
ほしいときにほしい文章が目に入るものだなあ。
(そういえば。今年の「日本語版」のほぼ日手帳には、われらが(?)ハンケイ500mの円城新子さんの言葉が載っているそうですぞ!!)
誰も読んでくれない文章を書く【さとゆみの今日もコレカラ/第803回】
作家の和田裕美さんとセミナーをさせていただいたとき、質問タイムにこんな質問をいただいた。
「最近、どんな発信もどんどん読まれなくなっています。わたしの周りの書き手の人たちも、軒並みPVが落ちたと言っています。どう考えればいいでしょう? どうすればいいでしょう?」
この質問のことをずっと考え続けております。さとゆみ@三連休三連勤です。
私はnoteがスタートした頃からのユーザーだけれど、当時のnoteは出せば数日で5000〜1万PVくらいいっていた。
それはそうだよなあ。だってもう、情報の数が違いすぎる。
文章のライバルは文章だけじゃない。いま、YouTubeで1日にアップされる動画を全部見るには、82年かかるらしい。
図書館の本を見て、「はああ、ここにある本、私は全部読む前に死んじゃうんだよなあ」とか思ったレベルの話じゃない。
1日分で82年。寿命よ。
読む人口は増えていない、読む人の可処分時間は減っている、書く人は増えている。文章以外のコンテンツも増えている。
普通に考えて、PVが10年前の10分の1以内に止まっているなら、十分頑張っていると言えるんじゃないかと思う。
じゃあ次に考えるのは、「もし、この文章を誰も読んでくれないとしても、私はやはり書くのか」ということだよね。これからもっともっと読まれなくなる私の文章を、それでも書くのかは、2024年くらいからずっと考えているテーマです。
もう結論は出てるんだけれど。

