
着物、ワイン、十二国記【さとゆみの今日もコレカラ/第774回】
着物とワインは手を出さないほうがいいってよく言われるんです。一度ハマるとお金も時間も天井なしになるよって。どう思います?
そんな話をしていた時、その場にいたオシャレな先輩が「あとは十二国記」と言って、別の先輩が「そうそう。お金はたいしてかからないけれど、時間は無限に溶けるよねえ」と言った。
ジュウニコクキ?
尋ねた私に、「あ、さとゆみ、まだ読んでないんだ!」と嬉しそうに言う先輩。あれをまだ読んでないなんて羨ましいなあ。キミの人生にはまだ十二国記を読むという楽しみが残されているんだあ。いいなあ、とニコニコしてらっしゃる。
聞けば、全12冊というではないか。
ちょうど、限りなく完結に近い形の最新刊が出たばかりだという。一気読みできるなんて最高じゃんと、隣の先輩も援護射撃してくれちゃう。
年末年始を全部捧げる価値あるよと太鼓判をおされた。
調べてみると(すぐに調べたがる)、18年ぶりに発売された最新の4巻セットの1巻目は初版50万部!!!だったらしい。
初版で! 50万部!! そんな夢のような世界があるんですね、パトラッシュ。。。
というわけで、2019年の冬、私は十二国記シリーズを12冊、大人買いした。
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はい、5年、積みました。
いやねもうね、老眼にはきついんです、漢字いっぱいの本。開いて2分で離脱した。
それじゃなくても人の名前覚えるの下手なの、わたし。『三体』も命からがらなんとか読んだの。
先日大掃除をしながら、ああ、もう二度と読まないんだろうなあ。どんどん新しい本を買っているというのに、5年前の積読本を読むなんて絶対ないなあ。だれかにあげようかなあ、などと思っていたところに!
見つけたわけです、オーディブル。
オーディブルなら! いけるかもだ!!!!
かくてかくて。よもやよもや。
寝ても覚めてもeverytime十二国記であります。仕事してる時以外ずっと十二国記。オーディブルを聴き続けたくて、ベッドの中でも聴き続け、寝てからも夢の中で聴き続けております(朝、どこまで記憶にあるかを確認するのが結構大変)
でもね、買った本も無駄ではなかったよ。
耳からだと登場人物や国名の漢字がわからないから、聞き終わった後に、ざーっと表記確認した。なるほど、この文字か、となる。
あとはやっぱり、イラスト、ね。
いやあ、まったく中のイラスト見ずに読み進めたから、うわあ、この人、こんな顔とか。地図的にこの配置か、とか。
脳内で構築した想像の登場人物や、脳内で建設した国の様子をイラストや地図で確かめるのも楽しかった。
いやはやほんと、オーディブルのおかげで一生積読かと思っていた本に手を出せました。
最初の話は前半きついから、山越えるまで待ってと言われていたのも良かった。辛抱した甲斐がありました先輩!
そして、こんなふうに国を十二個も作ってしまう小野不由美さんが凄すぎて。小説家ってほんと、天地創造の主だよなあって思う。神様仏様小説家様。
着物、ワインはその後も手を出していませんが、十二国記はまんまと沼りそうです。
時間は溶けるけれど、その間、歩いたり料理したりお掃除したりゲームしたりしてるからいいの。
年末、大掃除しながら聴き終えるぞー!
お仲間いらしたら教えてください。
(ちなみにシリーズ累計は1300万部突破だって。いっせんさんびゃくまん!
そして、短編が来年出るらしいじゃないの! そして神戸での十二国記展明日までらしいじゃないの ミュージカルもやってるのか!)
★「今日もコレカラ」は24時間に1回、夜あたりに更新されます。時間未定の夜更新になったので、何日か分のバックナンバーは文末においておきます。
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【バックナンバー】
知的体力!と繊細さん【さとゆみの今日もコレカラ/第773回】
現在ご一緒している著者さんが、非常にかっこよくてしびれている。
3歳年上の社長さま。
インタビューやミーティングのアポがなかなかとれないくらい、スケジュールはいつも真っ黒。の、はずなのに、先日送ったばかりの構成案に補足資料と参考原稿をどっさりつけて戻してくださった。
マネジメントをしている広報の方も「え、これいつ書いたんですか?」とびっくりしていた。「ん、この間の週末に」と、社長はおっしゃる。
50代なのに体の線がしゅっとしている。運動をされているのだろう。顔もまったくたるんでない。
「体力が違うんですかねえ」と私がつぶやくと、「歳をとってくると体力というよりは、『知的体力』みたいなものが大事になってくるよねえ」とおっしゃる。「読もう、書こう、と思ったときに集中できる力、みたいなのが大事だよねえ」と。
そして「僕もダメなときは全然ダメなのだけれど」と、謙遜される。
知的体力!
いやまさにそれなであります。
気づけば、「ま、いっか」が脳内の口癖になっている。ほんと、知的体力がダダ落ちしている証拠だ。
で、量と質はある程度比例するから、知的体力が落ちると、知的な感性も鈍るんだろうなと思う。
それはやばい。やばいすぎる。この仕事をする上で致命的だ。
そういえば、金原ひとみさんの新作『YABUNONAKAーヤブノナカ』でも、知的に不感症になっていくさまを、「文学◯ンポ(自主規制伏字)」と表現していて、その言葉の鋭さに一刀両断されてマジで血を見た。ほんと連呼しないでほしいし痛いですし苦しいですし身に覚えありすぎますしと、本を読みながら泣いて詫びた(誰に?)ところでした。
実際、歳をとって今のところ一番怖いのは、文学的感覚が鈍ることである。
感動が雑。感想が雑。いろいろ雑になっていく。
まさに不感症である。
体力と知的体力にも相関性がある気がする。
物理的な体力がなくなると、本も読めないし書けなくなる。相関して知的体力も落ちる。
ファットになると文章もファットになるなあと思うし、体がだれると文章もだれる。
そう思っていた。
……ところが!
先日、某「見える人」と、体型と敏感さについて話をしていたら、「いや、それ、わりと逆」と言われた。
「ふっくら体型は、おおらかな人が多い。痩せている人は神経質な人が多い。そんなふうに言われるけれど、実は、逆なんだよね」
と言うのだ。
いわく、「ふっくらしている人は、皮膚が薄いといろんなことに耐えられないくらい敏感だから贅肉をたくわえているんです」とのこと。
この理論でいくと、わがままぼでぃのわたしはだいぶ繊細さんということになる。
……全然信用できない。
嗚呼、幸せのお座敷仕事【さとゆみの今日もコレカラ/第772回】
昨日アップした「人づきあいのシーソーゲーム(バックナンバーは文末)」に、たくさんのメッセージをいただきました。
義務と権利って、考えるほどに面白い。
たとえば、私の周囲には「仕事が好きではない」人があまりいない。
というのも、私の周りにはライター、各種クリエイター、起業家、セミナー講師、美容師など、”お座敷仕事”の人が多いからだ。
ご指名がかかって初めて仕事ができるのがお座敷仕事。
選ばれないと仕事できないのだから、「ありがたや。今日も仕事をさせてもらっている」という感覚になりやすい。
プロのスポーツ選手なども、きっとそうだろう。選ばれない限り、文字通りバッターボックスに立てない人もいるのだ。
こういう職業の人たちにとって仕事は「義務」ではなくて、今日も仕事ができるという「権利」になりやすい。
そもそも仕事をする「権利」を得るためにお稽古もするし営業もする。その結果お座敷がかかるのだから、仕事とはご褒美みたいなものだ。
*
別件。
来月からさとゆみゼミの6期がスタートするのだけれど、うちのゼミの課題はきつい。
毎週毎週何らかの原稿を書いてもらうし、添削もだいぶ厳しいと思う。
だけど途中で辞める人は毎年ほとんどいない。
仕事だったらお金をもらってでもやりたくないと思うようなきつい課題を、お金を払ってなんとかやろうとする心理はいかほどか。
これもやっぱり、課題を出すという「権利」を買っているからだろうなあ。
お金をもらうときも、お金を払うときも、それをできる「権利」を得たと思うときがきっと、楽しいし幸せなんだろうな。
人づきあいのシーソーゲーム【さとゆみの今日もコレカラ/第771回】
先日東京女子大のメディア論の講座にお呼ばれして、ライターの仕事について話をさせてもらった。
私が、ライターは文章力も必要だけれど、企画を立てられる力と、コミュニケーション力も大事ですと話したからか、「コミュニケーション力」について質問をされた。
「フリーランスの仕事って、人づきあいが難しくありませんか。仕事を発注する側(編集者さんやクライアント)とどんな関係を築けばよいのですか」という質問だった。
これは『書く仕事がしたい』にも書いたけれど、受発注の関係性がある場合、どうしても受注している側は「仕事をいただいている」という姿勢になりやすい。
だから私は
・自分が受注側のときはやや生意気ぎみに
・自分が発注側のときはだいぶ低姿勢で
コミュニケーションするようにしている。
それくらいでやっと、シーソーがちょうど対等に釣り合うような気がするのだ。
後輩のライターさんからこんなことをよく聞く。
編集者さんに聞きたいことや、疑問に思ったことがあったとしても
「忙しい編集者さんに質問をして、手を煩わせちゃったりしないかな」
とか
「こんなことも知らないなんて、このライター大丈夫かなと思われないかな」
とか思って、質問することができません。
キツイことを言うようだけれど、そういう人は、奥ゆかしいのではなくて、仕事をナメていると思う。
いい原稿を書くことよりも、自分が嫌われないことが大事になってしまっているのだから、ライターとして仕事をサボっちゃっていると思う。
これは学生さんたちにも話したのだけれど、わからないことを聞くのは「権利」ではなく「義務」だと思うのはどうでしょう。
仕事相手に「やってもよいのか?(権利)」と悩むのではなく「やらなきゃいけないこと(義務)」なんだと考えてみるとか。
そして、これは、ライターの話だけではなく、仕事全般に言えると思う。
なーんてことを講義で話させてもらった。
で、話しながら思っていたのは、ああ、この原稿がアップされていたら、このリンクを読んでって大学生の皆さんに言えたのになあってこと。
昨日アップされた塚田智恵美さんの原稿。
編集者とだけうまくいかない人間と、恋人とだけうまくいかない人間。そのメカニズムはいかに
面白いので是非読んでくださいませ。
ちなみに、20代、30代の頃、私の周りには「仕事相手とはうまくいくのに、恋人とだけスーパーこじれる」シゴデキ女子がけっこう多かったのだけれど、いまごろみんなどうしてるだろう。
「土日にメールを送るのはパワハラです」など聞きまして(えっ)【さとゆみの今日もコレカラ/第770回】
今日は東京女子大学のメディア論の講義に登壇させていただいた。お昼に授業が終わってケータイの電源を入れたら、ずいぶん多くの通知が届いていた。
何事だろうとSNSを開くと
「あれを書くのは勇気がいったでしょう」
というDMが何本もきていた。
今日アップされた、朝日新聞の&【and】の書評コラム
被害者になるのも怖いが加害者になるのも怖い。私は誰かを病ませていないか。そして私たちはなぜ病むのか。『弱さ考』(外部サイトに飛びます)
のことだった。

実は、このコラム、2バージョン納品して編集者さんに判断を委ねた。
そして、編集者さんが選んでくださったのが、この「私自身は、いろんな人が言うところの『生きづらさ』がわからない。そして、わからないことが怖い」について書いたほうだった。
コラムにも書いたけれど、
私はいま、
いじめられることよりも、いじめてしまうことのほうが怖い。
パワハラをされることよりも、してしまうことが怖い。
人間関係に病むことよりも、病ませてしまうことが怖い。
被害者になるより、加害者になるほうがずっと怖い。
だから、この本(『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』)も「自分の保身のために」読んだ。
身勝手といえば、身勝手な動機だと思う。
おりしも先日、「土日にメールを送るのはパワハラです」ってSNS投稿があったよと友人が教えてくれて、それじゃ私毎週パワハラだよう、、、となったところだった。
でも、そういう「アレをやったらダメ」「コレは地雷」という考え方ではきっと、私たちは会話せずにどんどん離れていくばかりなんだとも思う。そんなふうに分断したくないし、されたくない。
だから、知りたい。
自分には解像度高く想像できない、繊細な心の動きを、知りたい。
最後の一行を
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを守るために」
ではなく
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを知るために」
としたのは、そういう気持ちからで。
寄り添いたいというのは、おこがましいと思ったから。
力になりたいも、出過ぎていると思う。
まして、守るは言えない。
だから、まず、知りたい。
知るだけで変えられる「自分の行動」があるように思ったから。
身勝手な動機からスタートしたけれど、本当に読んで良かったと思った本だったよ。
私のだいぶやらしいところ【さとゆみの今日もコレカラ/第769回】
人の悪口って聞いていてだいたい嫌なものだけれど、そうじゃないときもある。
めっちゃ評価の高い人を、知り合いがけなしていたりすると、そして私も実はその人が苦手だったりすると、ちょっと嬉しくなったりする。
「どうしてどうして? どこが嫌いなの?」と、嬉々として聞いたりする。
もっと言って、もっと聞きたい! ってなる。
そしてそれに便乗して、「私もね、あの人の◯◯なところがどうかと思っていたんだー。いや、素晴らしい人だとは思うんだけどね」などと、もっともらしく言ったりする。
それに頷いてもらえたりすると、絶対顔には出さないけれど、気持ちがいい。
だけど、家に帰ってはたと気づいた。
よくよく考えてみたら、わたし、別にその人の「◯◯なところが嫌」なわけじゃない気がする。
◯◯なことをやっている人は、多分、たくさんいる。
そうじゃなくて、わたしがその人を苦手なのは、過去にその人に相手にされなかったことがあったからだ。それが悔しくて、悲しくて、でも「相手にされなかったから嫌い」と言うのは癪だから、「◯◯なところが嫌」と言ってみたりしたんだ!!!
うわーー、めっちゃいやらしい。
そして、もうひとつ、怖いことに気づいてしまった!!!
わたしが「あの人の◯◯な部分、あまり好きじゃない(あまり誉められたもんじゃない、あまりイケてない)」と過去に言ったことがある人(4人くらい思い当たる)
全員、わたしがあまり相手にしてもらえない人だった!!!!
うわーー、うわーー、うわーー。ただのひがみじゃないか!!
そしてさらに気づいたぞ!
過去にそうやって「あの人はどうかと思う」と感じていた人が(相手にされていなかった)、徐々にわたしを視界に入れてくれるようになって、対等に話ができるようになったら、コロッと「あの人、いい人だよね」なんて言ったりしてる!!! してるぞーーーー。
恥ずかしくって土に還りたくなった。土に還りたくなりながらSNSをパトロールしていたら、私がもっともらしく批判した人の悪口を真っ向からド直球で書いている作家さんを見つけた。
「あの人、私のことをまったく相手にしなかった。ムカつく!」
とあって、清々しすぎた。
清々しいその人も、いやらしいわたしも、どっちもすっごく人間っぽい。
腹が立つよね、人間だもの。
ひがんだりするよね、人間だもの。
相談にのってるふりして【さとゆみの今日もコレカラ/第768回】
相談にのってるふりして本当は納得行かせるのが快感で
脇川飛鳥さんの短歌集、ソーリーソーリーより。
あるわ、あるある。そういうのある。15回くらい噛み締められる短歌だ。読めば読むほど、じわじわくる。
最近気づいたのだけれど。相談に乗ってもらうとか、誰かの手を借りるとか、ちょっと迷惑をかけてしまうとか。
こういうの、意外と「孝行」じゃないかと思うようになってきた。
親孝行ならぬ、友達孝行、先輩孝行、後輩孝行。
え、人に迷惑をかけるのが相手に対する孝行だって? と思うかもしれない。
でも、あの人の役に立てたとか、ピンチを救ってあげられたとか、なんなら説教してやったぜとか、そこまでいかなくてもアドバイスしたったぜ、とか。
そういう経験って、頼られたほうに、手を貸してあげたほうに、充足感や優越感を手渡せる。
なんでもかんでも、自分でやってしまってはいけないのだ。
「お前はもっと人に頼る余地を残した方がいい」と、昔、誰かにも言われたことがあったなあ。
*
私たちは、人に頼るのは申し訳ないと思うのに、人から頼られると嬉しいと思う。
だったらなぜ、自分が嬉しいと思うことを相手は迷惑だと感じるに違いないと決めつけるのだろう。
それは相手をみくびっていないだろうか。相手は自分よりも狭量であると言っているようなもんだよなあ。
和田裕美さんとの2日間のコラボセミナーはめちゃくちゃ面白くてみんな大興奮だった。私もノートがメモだらけになった。本編めっちゃくちゃ勉強になった。
の、だけれど。
そのセミナーの「楽屋裏」で、私が一番学んだのはそこ。
自分が手を出すべきところではないところで決して手を出さない和田裕美さんは、先回って次々と動いてしまう私よりも断然、みんなを幸せにしてたよ。頼られているみんな、嬉しそうだったよ。
「すみません」を卒業した日【さとゆみの今日もコレカラ/第766回】

以前、デザイナーのNさんと、ライター仲間のTちゃんと、3年かかって完成した書籍の打ち上げで、プチ旅行をしたことがある。
Nさんと私は同世代。Tちゃんは一回り以上若い。私たちは、礼儀正しくめちゃくちゃ感じのいい、そして原稿がすっごくうまいTちゃんのことを、大好きだった。
このときも、一緒に温泉に入ったり、飲んだりして、とっても楽しい初日を過ごした。
ところが、次の日の朝のことである。
昨日、夜中まで語り合っていたらしい二人が、なにやらお金のやりとりをしている。
「あ、また言った! 罰金100円!」と、いうNさんの声が聞こえる。
どうしたの? と聞いたら、
「あのね、Tちゃん、なんでもかんでも『すみません』って言うんだよー」
とNさんは言う。
ああ、たしかにそれはそうかも。
たとえばお箸をとってあげたら「すみません」。
タオル、ここに置いとくねーと言ったら「すみません」。
いい原稿だったよーと伝えたら「すみません、ありがとうございます」。
Nさんは、
「それ、全部『ありがとう』でいいじゃんねー。きっとTちゃん『すみません』が口グセになっちゃっているんだよー」
と言う。うん、たしかに。
たとえばお箸をとってあげたら「ありがとうございます」。
タオル、置いとくねーと言ったら「ありがとうございます」。
いい原稿だったよーと伝えたら「わーい、ありがとうございます」。
でいいじゃんねー、と。
たしかNさんの言うとおりだ。Tちゃん、何も悪くないのだから「すみません」と言う必要はない。
それに、改めてよく考えてみたら「すみません」と何度も言われるほうも、そんなに気持ちよくないかも。だって「すみません」って言われたら「いえいえ」って言わなきゃならないし、何度も「すみません」って言われ続けたら、なんか、こちらがいじめているみたいだよね。
だから、その口グセを旅行中に治そうぜと、昨夜二人で相談して「すみませんって言ったら罰金100円ゲーム」が始まったらしい。
これが、かなり面白かった。
実際に意識して聞いていると、Tちゃんは、一時間に何度も「すみません」と言っている。本人も、スーパーナチュラルに「すみません」と言っては、「はっ!」となって、Nさんに「はい、100円!」と言われている。
でも、500円めの罰金くらいから、「すみ……じゃなくて、ありがとうございます!」とか「す……じゃなくて、嬉しいです!」とTちゃんが言うようになって、2泊3日の旅行の最後のほうはもう、「す」すら、言わなくなっていた。
別れ際、貯まった500円の罰金で、みんなで缶コーヒーを買って飲んだ。
Tちゃんが「ものすっごくいいことを教えてくださって、ありがとうございました!」とにっこにこで帰っていった。
何ヶ月か後、Tちゃんは「すみませんて言わないの、まだ続いています!」と教えてくれた。
それまではどことなくおどおどとした雰囲気だったのに、今は、しっかり落ち着いているように見える。心なしかオーラまでキラキラしている。もともとめちゃくちゃ仕事はできる人なのだ。
Tちゃんはその後、ある媒体でトライアルで書かせてもらった原稿を絶賛され、レギュラーライターに昇格したという。その数ヶ月後、さらに彼女はその媒体の編集者に抜擢され、私に仕事を依頼してくれる立場になった。
相変わらず感じがいいし、優しいし、丁寧なTちゃん。
もともと超素敵だったけれど、もっと素敵になったTちゃん。
最初の一歩は「すみません」を「ありがとう」に変えたことだった……のかもしれないなって思ったよ。


