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まさかのGoogleカレンダー! これできっと締め切り厳守! できるはず!!【さとゆみの今日もコレカラ/第785回】

昨日に続き、スケジュール管理の話を。
先日、レビューをアップした、『神・時間術』を試してみて、おおお、これはすごいとなっている。(記事はこちら→東大生も選んだベスト書籍。『神・時間術』で、2026年は時間を“増やす”)この本自体はめちゃくちゃ役に立っていると感じる。

でも、多分ここに書かれているような「効率を高める」の方向性だけじゃなくて、そもそもの仕事の入れ方、スケジュールの立て方に課題があるんじゃないかって気がしているわけです。

そこで、この本を読んだあと、めちゃくちゃしごできな先輩に、スケジュール管理について聞いてみた。

先輩、ちょっと意味不明なくらいの仕事量をこなしているはずなのに、週末は毎週遊びまわっている写真がSNSにあがる。アホほど忙しい部署のはずなのに、家に仕事を持ち帰ったことはないし、残業もほとんどしないとおっしゃる。

その先輩に、「どうすれば土日休めるんですか?」「どうすれば毎日18時で仕事を終えられるんですか?」と、聞いた。

すると「さとゆみはどうやって仕事管理しているの?」と逆に聞かれたので、Googleカレンダーを見てもらう。

私のGoogleカレンダーには取材の予定やミーティングの予定、締め切りなどが書かれている。それに加え、その日やるべきTO DOリストがあって、それは手書きで毎日書き出していると話した。

先輩は、私のカレンダーとTO DOリストをざっと眺めて、「これ、カレンダーに締め切りしか書いていないのがダメなんじゃないかな」と言う。

ん??? と、なる。

え、締め切り以外に何を書くんですか? と聞いたら「どの日にその仕事をするか書き出してる?」と逆に質問された。

し、て、ない。

あー、締め切りが近づいてきてるなあというのは毎日感じている。
でも、その前には別の締め切りがあるから、それに対応しているので精一杯だ。

そして、その仕事は、締め切り当日にTO DOリストに昇格される。「ああ、今日こそは絶対にやらなきゃ」となって、その繰り返し。だいたい毎日2、3本は締め切りがあるから、そうなっていく。

先輩は、締め切りがあるものは締め切り日だけではなく、「それをいつやるか」を、スケジュールに入れると良いとおっしゃる。

2週間先くらいまでのスケジュールを見て、何をどの日にやるのかを割り振って、それをカレンダーに入れる。

やろうと思ったのに終わらない日もあるから、バッファを見て書き込む。このやり方だとどんなにずれこんでも最悪、締め切りの前日には上がっている。
そんな話をしてくれた。

さらには、毎週末遊びの予定を入れているから、絶対にそこまでには終わらせるという「本気の締め切り」があるのも大事とおっしゃる。
マジか。

締め切りを書き出すんじゃなくて、その仕事を始める日を書き出す。

仕事ができるみなさん、これ、常識ですか?
みんなそうやってるんですか?

私にとっては、天変地異くらいのライフハックだったんですけれど、みんな知ってるやつでしたか?

25年間、そんなこと、考えたこともなかった。
やべえ、私また、パワーアップしちゃうYO。

【この記事もおすすめ】ここにも書いてあるじゃないか!

1つ目は「スタート期限」で始める日を決める。文字通り、締め切りとは別に取りかかる日を自分で設定する方法。

★「今日もコレカラ」は24時間に1回、夜あたりに更新されます。時間未定の夜更新になったので、何日か分のバックナンバーは文末においておきます。

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【バックナンバー】

来年のことは、今年のうちに。【さとゆみの #今日もコレカラ/第784回】

もうすぐ終わろうとしている2025年ですが、みなさん、いかがでした? 私は、だいぶ、渋かった。
ちょっと悔いの残る1年だったなあと思う。与えられたことは精一杯頑張れたけれど、自分が目標にしていたことはあまりできなかった。

で、こういうときはもう次に目を向けようと思ってですね。
2025年諸君には悪いけれど、もう心は2026年の後輩たちに心を寄せることにしたよ。
ここしばらくは、2026年にやりたいことと、それをどうすればできるのかを考えていた。M-1グランプリも見ずに。

で、まずは、今年の反省。
今年はとにかく、時間がなかった。いつも時間に追われていた気がする。
そして、いつも疲れていた。ぼんやりしていた。

何が去年までと違ったのかと考えると、大きく2つあって。
運動があまりできなかった。あと、お金をだいぶ使った。

1)運動ができないと、体力が落ちる。正比例して集中力も落ちたと思う。集中力が落ちると仕事効率が落ちる。時間がない。
2)海外に3回行って遊びまわり、家をもう一軒借りたので、お金がかかった。お金が出ていくと、働かなくてはならない。時間がない。

もっとゆっくりするつもりだったのに、今年は1年間ぶっ通しで働いちゃったよ。なんなら過去最高働きました。せっかくゆるFIREへの道を歩もうとしていたのに、働きマンに逆戻りです。

そんな反省のもと、2026年、同じ轍は踏むまいとスケジュール管理術の本を立て続けに読んだ。来年のことは、今年のうちに。今年のうちに、傾向と対策!
その中でも、どえらい納得した1冊の内容を、いま毎日試している。ここに書かれた時間術をつかうと体感1.6倍くらい仕事が捗るのだけれど、その分ほんと脳が疲れる。毎日倒れるように寝ている。夢も見ねえ。

この時間術については、明日詳しく書こうと思います。(あ、アップされました。こちらです

あと、めっちゃ仕事ができる先輩に教えてもらった、TO DO管理法(だから私は締め切りが守れなかったのか!)も、また明日。

2026年、手ぐすねひいて待ってろよ!(違

命からがら【さとゆみの今日もコレカラ/第783回】

突然ですが、死にかけた経験って、みんなどれくらいあるものなんだろう。
ヒヤリハットレベルだと、ほとんどの人が経験しているんだろうか。

私は注意力散漫なので、まあまあ危ない目に遭っている。ちょっとタイミングがズレていたら死んでいただろうなと思うこともままあった。
ちゃんと数えたら5回、か。

先日知り合いがfacebookで、「たこ足していたコタツのコードがショートして、もう少しで火事になるところだった」と書いていて。急に、記憶が蘇った。私も似たような経験をしたからだ。

その日、私は両親のベッドルームで寝ていた。
普段は自分の部屋で寝るのだけれど、その日は父親が家にいなくて、母と弟と遊びにきていたお客様と1階のリビングルームで一緒に映画を見ていた。
私は一人眠くなってしまって、先に寝るーと2階にあがり、父がいないんならと、両親のベッドにもぐりこんだ。理由は忘れちゃったけれど、両親の部屋の布団はふかふかだった記憶がある。

途中で息が苦しくて目をあけたら、部屋の中が霧の中のように白かった。ん? 火事? と思ったのだけれど、あまりに眠かったので、夢かなと思って二度寝した。
2回目は、本当に呼吸が苦しくて息ができなくて目が覚めた。まだ眠くて起きたくなかったけれど、これはマジのガチの火事じゃん? と思って、朦朧とする頭で這って部屋を出た。
意識がとびとびながらも、一酸化炭素は上にいくはずと思って、這って出たのがよかった気がする。部屋のドアをあけると、隣の部屋から煙が噴き出していた。
私が寝ている部屋のドアが少し開いていたから気づいたのだと、あとでわかった。

1階のみんなは、2階がそんなことになっているとはつゆ知らず、映画を見続けていた。私はなんとか下までたどりつき、「上、火事」とだけ伝えたら気持ちが悪くなって吐いてしまった。母親が慌てて2階にあがり、燃えていたこたつ布団を窓から雪の上に投げ捨てた。
どうやら、こたつの電源コードがショートしていて、こたつ布団に火が出たようだった。
雪の上に落とされたこたつ布団は、さらにスコップで上から雪を被せられたが、朝になるまで燃え続けた。

映画を見続けていたら、大火事になるまで気づかなかったかもしれない。
両親の部屋で寝ていなければ、そして、私が寝ている部屋を閉め切っていたら煙に気づかなかったかもしれない(私の部屋は2階の一番奥だったので)。
わりと、ヒヤリハットな事件だったよなあ。

それにしても、1回目は「火事かもしれないけれど、眠いからまあいっか」と思った睡眠欲ってすごい。2回目も「まいっか」と思っていたら、きっと煙に巻かれていただろう。そして、布団を窓から叩き捨てた母親もすごかった。

オチはないんだけれど、友人宅が火事を起こす寸前だったので、みなさんコタツのたこ足には気をつけてね、と思ったのでした。
あと、死にかけた経験って、みんなあるのかなと気になってみたり。

タクシーに跳ね飛ばされたバイクが突っ込んできた話と、
真冬の凍った池の上を歩いていたら氷が割れて池の真ん中で溺れた話と、
酔っ払ったディレクターに宿の鍵を閉められ氷点下の寒空にパジャマ姿で投げ出された話は
また今度。

2つの大黒湯【さとゆみの今日もコレカラ/第782回】

京都の家(事務所)は、築98年の長屋だ。先日夜遅くに東京から到着したら、お向かいに住むおかあさんとばったり会った。
「え、こんな遅くにどうしたの?」
と聞いたら
「銭湯に行ってたのよ」
という。
ずいぶん遅いんだねと聞くと、早い時間はほら、舞妓さんや芸妓さんでいっぱいだからねとおかあさんは言う。
「あ、大黒湯ですか? お湯がめちゃくちゃ熱いところ」
と私が尋ねると
「詳しいのねえ。そうそう、大黒湯。一度潰れちゃったのだけれど、若い大学生が立て直してくれたのよ」
と、おかあさん。
やっばり大黒湯の話か。その話なら知っている。
「ちくりんが立て直してくれたんだよね?」
と私が言ったのでおかあさんはビックリしてた。
「あなた、東京の人なのに、なんでそんなに詳しいの?」

ええと、話せば長いが、私はちくりんがバイトをしていた梅湯のファンで、梅湯の壁一面に貼られている梅湯新聞で、ちくりんこと、竹林さんが大黒湯を立て直すために大学を休学していたのを知っていた(ちなみのCORECOLORのコレカラ新聞は梅湯新聞を真似ている)。

で、そのちくりんが、これまたCORECOLORでインタビューさせてもらったハンケイ500mで新連載を始め、大黒湯立て直しのあれこれを書いていたのだ。

そんな話を、お向かいさんとするとは思わなかった。
「ちくりんには感謝してるのよう」と、おかあさんは言う。私だけじゃないのよ。祇園の舞妓さんや芸妓さんたち、どれだけ助かったことか。

メディアの人間として知っていた「大黒湯」の話。こんなふうに、身近な人の生活に直結しているのを知ると、また全然違った見え方をするなと思う。
たった一人の行動が、地域の人たちみんなの生活を変える。

そういえば、私が大学時代に通っていた銭湯も「大黒湯」という名前だった。
地元の人たちが集う場所で、脱衣所ではいつも、近所のおばさんたちがおしゃべりをしていた。そこで毎日安否確認をしているようだった。大河ドラマの時間になるとガラガラになる。
あの銭湯がなければ、風呂無しキッチン&トイレ共同という家賃3万円の下宿には住めなかった。

いまはもうない東京の大黒湯。
復活した京都の大黒湯。

復活したほうには、なるべくいっぱい通おう。鏡広告も出したいな。

旅の螺旋階段【さとゆみの今日もコレカラ/第781回】

先日のエッセイ講座では「旅」をテーマにエッセイを書いてもらった。
いろんな切り口の「旅」があって、いろんな景色があって、いろんな記憶があった。

旅と読書は似ている。旅をしたら家に戻る。本を読んだ時も同じだ。今いる場所は変わらない。だけど、旅をしたあとは(読書をしたあとは)、もうもとの自分ではない。
同じ場所に帰ってきているようで、実は違う場所にいるなあと思う。

以前こんな文章を書いた

メーテルリンク作の『青い鳥』は、チルチルとミチルの兄妹が、幸せの青い鳥を探して異界を旅する物語だ。どこに行っても青い鳥は見つからず、あるいは見つかっても連れて帰ろうとすると死んでしまう。失望した二人が家に戻るとそこに青い鳥がいたという話。ゆえにこの作品は、「近すぎて気づかない場所に本当の幸せがある」と解釈されることが多い。
日常にある幸せに気づけないというのは、たしかにそうかもしれない。でも、この話の肝は「旅をした」ことにあると、私は思う。旅の間に二人はいくつもの経験をした。家を出る前の二人とは別人だ。別人になっているから、自分たちの居場所を再解釈できる。
たとえるなら、螺旋階段をのぼったようなものだろうか。上から見たら、一周回って同じ場所に戻ってきたように見える。でも横から見たら、ずいぶん前に進んでいる。
新しいものさしを手に入れて戻ってきたとき、慣れ親しんだ我が家にも再発見が生まれるだろう。ずっと部屋の中にいたならば、鳥は青くならないのだ。
昨日、旅は思い出すためにすると書いたけれど旅は、戻ってくるためにするものでもある。
戻ってきた場所をもっと愛するためにする。
チルチルミチル。すきすきみちる。

チルチルミチル【さとゆみの今日もコレカラ/007】より

りょーこの「旅」のお話もまた、違う自分になって戻ってきた話。
私もいつか行きたい、カミーノ一人旅。ぜひ週末のお供にどうぞ。

「書きたいことはないけれど、書きたい」【さとゆみの今日もコレカラ/第780回】

人の文章に手を入れて直すって、難易度の高い外科手術に等しい仕事だよー!
編集者としていちばん緊張する場面だよー!
免許も持ってない顔も名前も明かさない人がやっていい所業じゃないよー!
切り刻まれた側の傷を引き受ける覚悟も想像力も技術もないまま屈折した承認欲求を排泄してんじゃねえよ

https://x.com/aikonnor/status/2001678566216630483?s=20

編集者の今野さんが、こんなポストをしていた。

福岡でエッセイ講座が終わり、まさにいっときも気の抜けない外科手術から戻った気持ちで、マッサージを呼んだ。「ガッチガチですねえ」と言われた肩こりが、この投稿を見て少し緩んだ気がする。
そうだよね、人のエッセイにコメントするなんて、全身緊張していて当たり前だよね。

エッセイに正解なんてない。
そしてエッセイは「わたくしごと」だから、否定されると、内臓まで切り刻まれる。感想言うにしても、コメントをするにしても、一番緊張するのが、エッセイだ。

何度もワークをして、グループで話をして、だんだん打ち解けて、それでやっと実際に書いた文章を真ん中にして話ができるようになる。

ライティング講座では、「書きたいことは、とくにないんです」と言う人が一定数いる。エッセイ講座でもやはり、「書きたいことは、とくにない」と言う人がいる。

「書きたいことがないのに、なぜ書くの?」と不思議に思う人もいるかもしれない。でも、この気持ち、私はよくわかる。
「書く」という行為はそれそのものが、自分に近づく行為だ。自分を知る行為でもある。書くことは自分の輪郭を確かめるようなものだし、書くことで自分や自分の過去をちょっぴり愛し直せることもある。
好きになれるかもしれないと思って、祈るように書く。
それはほんと、命懸けの行為なんだよ。

命懸けの行為に命懸けでこたえたいなあと思って臨んだ7時間でした。
みんな、また、会おうね。

家族じゃないけど「お帰りなさい」【さとゆみの今日もコレカラ/第780回】

鹿児島にいる。
福岡でエッセイ講座があるんですけれど、その途中に寄ったら会えますか? とLINEしたら「途中って!」と、笑われた。
今年、三度目の鹿児島。

何しにきたかというと、天文館図書館に会いに(?)きた。
そして、図書館の館長を務める松田さんと、松田さんに紹介してもらったお友達のみなさんに会いにきた。

以前書いたこともあるけれど、ここの図書館が本当に気持ち良いのだ。
ここにいる本たちは本当に幸せそうにしている。私の本も置いてくださっているのだが、ここにいる私の本は、本当にのびのび幸せそうにしている。訪れる人たちもとってもリラックスしているように見える。過去に二度、トークイベントをさせてもらって、大ファンになってしまった。

そして二度目のイベントの時、館長の松田さんが、私の友人たちと飲みませんか? と誘ってくれた。それが図書館同様あまりに楽しくて気持ちのいい方たちで涙が出るくらい笑って、私はその場で3ヶ月後にはまたきますと次の飲み会の約束をした。
その飲み会も、翌日腹筋が痛くなっていたくらいに笑って笑って幸せだったので、ひそかに、今年中にまた会いたいなと思っていた。

お店に着くと、先に到着していた二人が「お帰りなさい」と言ってくれた。お帰りなさいかあ、素敵な言葉だなあと嬉しい気持ちで乾杯する。
そのあと、仕事が終わって合流してくれた方が、やっぱり「さとゆみさん、お帰りなさいー」とグラスをカチンと合わせてくれた。

みんなの行きつけだというそのお店は、とってもアットホームでディープな場所だった。おばんざいがずらりと並んで思わず声が出てしまう。年末の疲れた体が今すぐ食べたいと欲しがるのがわかる。
お豆も野菜もお魚も、何から何まで美味しい。滋養という言葉が浮かぶ。
「ここにくると、1週間分の栄養をとれる感じがするよね」
と、一人が言う。
「そうそう、最近ロクなもの食べてないなあと思ったらくる場所だよね」
と、また別の一人が応じる。
おかみさんとの会話も打ち解けていて
「今日は東京から来る人がいるっていうから、気合い入れて仕込んだのよー」
などと言ってくださる。

その日、最後に合流してきてくださった方も、顔を見るなり、「わあああ、お帰りなささいい!!」といってくれた。会食が入っていたのに、絶対行くから待っててと駆けつけてくれたのだ。

お帰りなさい、すっごく嬉しい。
家族以外にこの言葉を言ってくれる人がいるの、すごく幸せ。

みんなの仕事のこぼれ話を聞く。じーんとしたり、アホほど笑ったりして、笑いすぎてシワが増えた。あまりにも楽しかったので、その場でまた次の約束をして別れた。

来年の2月にまたこよう。
また、帰ってこよう。

きっと、好きになる【さとゆみの今日もコレカラ/第778回】

毎月30軒、50軒の美容院を取材させていただいていたころ。

どうやって店ごとの特徴を書き分けようかと悩んで編み出したのが「店名の由来」と「内装のこだわり」を聞くことだった。
これを聞くと大抵、話が1時間を超える。みなさん、話したくて仕方ない、その人にしか話せないエピソードがあるのだ。

ところが、最後までうまく話を引き出せなかった方がいた。
「うーん、内装にはあまりこだわりがなくて……」とおっしゃる。だいぶ粘ったけれどなかなか口が重い。そろそろ次の取材現場にいかなきゃならない時間になったとき、ふと思いついて、「どうしてこの場所に店を構えたのですか?」と聞いてみた。

するとその方が、ああ、といって顔をあげ、ぽつぽつっとお話をしてくださった。

僕、美容師デビューした直後から、ずっと通ってきてくださったお客様がいらしたんです。まだ未熟だった僕をいつも応援してくださって、見守ってくださった大切なお客様です。でも、そのお客様、病気で車椅子生活になってしまったんですよね。

僕が当時勤めていた美容院は、階段しかないところでした。病気になったその方を、今こそ髪を整えることで元気づけてあげたかったのに、車椅子だとお迎えできなくなってしまって……。
それで、自分が独立するときは絶対に、エレベーターのあるビル、車椅子で入れるお手洗いが作れる場所って考えたんです。

そうでしたか、と私は相槌をうった。
「そのお客様、今はきてくださっているんですか?」とは聞けなかった。ちょっとうるんでいるような目に、なんとなく、聞いちゃいけない雰囲気があった。

帰り際、大事なことを思い出した気がします。今日は取材、ありがとうございましたと、その方は深く頭を下げられた。私も、聞かせてくださりありがとうございましたと、頭を下げた。

200文字のお店紹介のキャプションに、この話は書けなかった。
でも、聞いてよかったなあと思った。
その美容院やその美容師さんのことを、取材前よりもずっと好きになった。その、好きになった気持ちで、別のキャプションを書いた。

ーーーーーー

先週の土曜日、編集ライター養成講座の講義で、「興味を持てる話が聞けないときはどうしていますか?」と質問された時にお話ししたこと。

自分と約束していることがあるんです。
好きになるまで、帰らない。
帰るまでに、好きになる。きっと。

負け慣れている、という強さ【さとゆみの今日もコレカラ/第777回】

土曜日からずっと考えていることがあって。

宣伝会議さんの「編集・ライター養成講座」で話をさせていただいたときに「どうして、そんなふうに頑張れる(努力できる/自分に投資できる/自分を信用できる)のですか?」という質問をもらったんですよね。

私がやってきたことひとつひとつはそんなに特別なことじゃないけれど、どうしてそれをやろうと決断できたのか? みたいな感じの質問だった。

これ、実は、『書く仕事がしたい』を書いたときに、編集者のりり子さんにも言われたことだった。
「ここに書かれていることは、やろうと思えば全部真似できることばかりだけれど、唯一、これをやろうと思うさとゆみの心持ちだけは真似できないかもしれない。それはさとゆみの自己信頼の高さに由来していると思う」
みたいなことだった。

そのときも、うーん、そうなのか、と思った。

たしかに私、自分のことを信頼している気がする。
まあまあ忙しいときも、全然稼げないときも「まあ、そのうち私がなんとかしてくれるでしょう」と思っている。
いつかうまくいくだろうって思っているから、努力(投資)をして無駄になると思ったことがないかもしれない。

どうして私、そんなに自分を信用しているのかなあと考えて、ひとつ思い当たったことがある。
「そうだ私、負け慣れてるんだ」ってこと。

私、小さいときから軟式テニス(いまはソフトテニスと呼ばれている)をやってきたのだけれど、これがまあほんと、面白いくらいに、ずっと負け続けてきた。100戦100敗くらい。


そしてわかったことが
「努力したって負けるときは負ける」
「全国優勝する人以外は全員負ける」
「負けても死ぬわけじゃない」
ってことだ。

で、「負けたら、それまでのいろいろが全部ゼロになるか」といったら、全然そんなことはないってことも、学生時代に知った。
結果だけ見たら負けだけれど、負けるまでの過程にものすごくたくさんのものを得ているから、すでに元は取れている。
甲子園球児のみなさんだって、優勝校以外の全員が「負けたから、3年間の努力は全部無駄だった」なんて、たぶん思っていないよね。

逆に言うと、負けても元が取れるものに対して努力(投資)をすればいいのかもしれない。

ライターになりたい、ライターで稼ぎたいと思うチャレンジは、もし失敗したとしてもそこまでの過程がだいぶ楽しいから、それだけでも全然元がとれるんじゃないかしら。とか。

そうじゃなくても、仕事は、スポーツほどシビアじゃない。
1年に1回しかチャレンジできない季節モノでもない。1回負けたらそこで終わりのトーナメント戦でもない。

ってことは、よ。
失敗しても死なないし、うまくいくまでやめなきゃいいだけだし、万が一最後までうまくいかなかったとしても、努力(投資)している最中にすでに元がとれてるから、まあ、負けっぱなしでも問題ない。

みたいなことをしどろもどろ話したんだけれど、みなさんに伝わったかなあ……。

勝ち続けているから、自分を信頼できるんじゃないんです。
負け続けてもどうせ楽しかったから、自分を信頼してる気がします。

嫉妬の矛先【さとゆみの今日もコレカラ/第776回】

突然気づいたのですが。
自分が持っている感情の中で、ここ数年、どうにもややこしくなっているのが、嫉妬の感情だなあと思うわけです。
ええといまは、恋愛以外の話をしています。

なんでだろう。昔は、嫉妬ってそれほど感じなかった。全然なかったとは言わないけれど、持て余すようなことはなかった。

たとえばこの道の先輩に嫉妬を感じるときは、「ああ、私も嫉妬を覚えるくらい、この人に近づけているんだなあ」と思えて、ちょっと嬉しかった。雲の上の人には、嫉妬など抱かないので。

そう考えて、はたと思い当たった。そうか、昔の嫉妬は、自分より前にいる人に対する嫉妬だったけれど、いまは違うんだ!

つまり、いまは自分よりも若い人、自分よりも経験が浅い人に、颯爽と追い越されていくことに焦りを覚えているのか。

相手が前にいるなら目標にすれば良い。いつかあの場所に辿り着くぞと思えば良い。でも、後輩の存在を背後に感じたら、間違いなくそのうち追い越されるし、一度追い越されたら多分もう追いつけることはない。こちとらもう、体力も気力も下降するばかりなのだから。

嫉妬というよりも焦りなんだな。だから気がせくのか。
と、それがわかったらだいぶスッキリした。焦りだったら自分の側に原因があるから対処しやすい(よく考えたら嫉妬もそうか)。

そしてもう一つ気づいた。
なるほどこれが、ミドルエイジクライシスというやつか。
いやん、大人の仲間入り!

人づきあいのシーソーゲーム【さとゆみの今日もコレカラ/第771回】

先日東京女子大のメディア論の講座にお呼ばれして、ライターの仕事について話をさせてもらった。

私が、ライターは文章力も必要だけれど、企画を立てられる力と、コミュニケーション力も大事ですと話したからか、「コミュニケーション力」について質問をされた。

「フリーランスの仕事って、人づきあいが難しくありませんか。仕事を発注する側(編集者さんやクライアント)とどんな関係を築けばよいのですか」という質問だった。

これは『書く仕事がしたい』にも書いたけれど、受発注の関係性がある場合、どうしても受注している側は「仕事をいただいている」という姿勢になりやすい。
だから私は
・自分が受注側のときはやや生意気ぎみに
・自分が発注側のときはだいぶ低姿勢で
コミュニケーションするようにしている。
それくらいでやっと、シーソーがちょうど対等に釣り合うような気がするのだ。

後輩のライターさんからこんなことをよく聞く。

編集者さんに聞きたいことや、疑問に思ったことがあったとしても
「忙しい編集者さんに質問をして、手を煩わせちゃったりしないかな」
とか
「こんなことも知らないなんて、このライター大丈夫かなと思われないかな」
とか思って、質問することができません。

キツイことを言うようだけれど、そういう人は、奥ゆかしいのではなくて、仕事をナメていると思う。
いい原稿を書くことよりも、自分が嫌われないことが大事になってしまっているのだから、ライターとして仕事をサボっちゃっていると思う。

これは学生さんたちにも話したのだけれど、わからないことを聞くのは「権利」ではなく「義務」だと思うのはどうでしょう。
仕事相手に「やってもよいのか?(権利)」と悩むのではなく「やらなきゃいけないこと(義務)」なんだと考えてみるとか。
そして、これは、ライターの話だけではなく、仕事全般に言えると思う。

なーんてことを講義で話させてもらった。

で、話しながら思っていたのは、ああ、この原稿がアップされていたら、このリンクを読んでって大学生の皆さんに言えたのになあってこと。
昨日アップされた塚田智恵美さんの原稿。

編集者とだけうまくいかない人間と、恋人とだけうまくいかない人間。そのメカニズムはいかに

面白いので是非読んでくださいませ。

ちなみに、20代、30代の頃、私の周りには「仕事相手とはうまくいくのに、恋人とだけスーパーこじれる」シゴデキ女子がけっこう多かったのだけれど、いまごろみんなどうしてるだろう。

「土日にメールを送るのはパワハラです」など聞きまして(えっ)【さとゆみの今日もコレカラ/第770回】

今日は東京女子大学のメディア論の講義に登壇させていただいた。お昼に授業が終わってケータイの電源を入れたら、ずいぶん多くの通知が届いていた。
何事だろうとSNSを開くと
「あれを書くのは勇気がいったでしょう」
というDMが何本もきていた。

今日アップされた、朝日新聞の&【and】の書評コラム

被害者になるのも怖いが加害者になるのも怖い。私は誰かを病ませていないか。そして私たちはなぜ病むのか。『弱さ考』(外部サイトに飛びます)
のことだった。 

実は、このコラム、2バージョン納品して編集者さんに判断を委ねた。
そして、編集者さんが選んでくださったのが、この「私自身は、いろんな人が言うところの『生きづらさ』がわからない。そして、わからないことが怖い」について書いたほうだった。

コラムにも書いたけれど、

私はいま、
いじめられることよりも、いじめてしまうことのほうが怖い。
パワハラをされることよりも、してしまうことが怖い。
人間関係に病むことよりも、病ませてしまうことが怖い。
被害者になるより、加害者になるほうがずっと怖い。

だから、この本(『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』)も「自分の保身のために」読んだ。
身勝手といえば、身勝手な動機だと思う。

おりしも先日、「土日にメールを送るのはパワハラです」ってSNS投稿があったよと友人が教えてくれて、それじゃ私毎週パワハラだよう、、、となったところだった。
でも、そういう「アレをやったらダメ」「コレは地雷」という考え方ではきっと、私たちは会話せずにどんどん離れていくばかりなんだとも思う。そんなふうに分断したくないし、されたくない。

だから、知りたい。
自分には解像度高く想像できない、繊細な心の動きを、知りたい。

最後の一行を
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを守るために」
ではなく
「それは、地雷を避けるためじゃない。自分の周りの大切な人たちを知るために
としたのは、そういう気持ちからで。

寄り添いたいというのは、おこがましいと思ったから。
力になりたいも、出過ぎていると思う。
まして、守るは言えない。

だから、まず、知りたい。
知るだけで変えられる「自分の行動」があるように思ったから。
身勝手な動機からスタートしたけれど、本当に読んで良かったと思った本だったよ。

よかったら、さとゆみの書評コラム、読んでください。

私のだいぶやらしいところ【さとゆみの今日もコレカラ/第769回】

人の悪口って聞いていてだいたい嫌なものだけれど、そうじゃないときもある。

めっちゃ評価の高い人を、知り合いがけなしていたりすると、そして私も実はその人が苦手だったりすると、ちょっと嬉しくなったりする。
「どうしてどうして? どこが嫌いなの?」と、嬉々として聞いたりする。
もっと言って、もっと聞きたい! ってなる。
そしてそれに便乗して、「私もね、あの人の◯◯なところがどうかと思っていたんだー。いや、素晴らしい人だとは思うんだけどね」などと、もっともらしく言ったりする。
それに頷いてもらえたりすると、絶対顔には出さないけれど、気持ちがいい。

だけど、家に帰ってはたと気づいた。

よくよく考えてみたら、わたし、別にその人の「◯◯なところが嫌」なわけじゃない気がする。
◯◯なことをやっている人は、多分、たくさんいる。

そうじゃなくて、わたしがその人を苦手なのは、過去にその人に相手にされなかったことがあったからだ。それが悔しくて、悲しくて、でも「相手にされなかったから嫌い」と言うのは癪だから、「◯◯なところが嫌」と言ってみたりしたんだ!!!

うわーー、めっちゃいやらしい。

そして、もうひとつ、怖いことに気づいてしまった!!!

わたしが「あの人の◯◯な部分、あまり好きじゃない(あまり誉められたもんじゃない、あまりイケてない)」と過去に言ったことがある人(4人くらい思い当たる)
全員、わたしがあまり相手にしてもらえない人だった!!!!

うわーー、うわーー、うわーー。ただのひがみじゃないか!!

そしてさらに気づいたぞ!
過去にそうやって「あの人はどうかと思う」と感じていた人が(相手にされていなかった)、徐々にわたしを視界に入れてくれるようになって、対等に話ができるようになったら、コロッと「あの人、いい人だよね」なんて言ったりしてる!!! してるぞーーーー。

恥ずかしくって土に還りたくなった。土に還りたくなりながらSNSをパトロールしていたら、私がもっともらしく批判した人の悪口を真っ向からド直球で書いている作家さんを見つけた。
「あの人、私のことをまったく相手にしなかった。ムカつく!」
とあって、清々しすぎた。

清々しいその人も、いやらしいわたしも、どっちもすっごく人間っぽい。
腹が立つよね、人間だもの。
ひがんだりするよね、人間だもの。

相談にのってるふりして【さとゆみの今日もコレカラ/第768回】

相談にのってるふりして本当は納得行かせるのが快感で

脇川飛鳥さんの短歌集、ソーリーソーリーより。

あるわ、あるある。そういうのある。15回くらい噛み締められる短歌だ。読めば読むほど、じわじわくる。

最近気づいたのだけれど。相談に乗ってもらうとか、誰かの手を借りるとか、ちょっと迷惑をかけてしまうとか。
こういうの、意外と「孝行」じゃないかと思うようになってきた。
親孝行ならぬ、友達孝行、先輩孝行、後輩孝行。

え、人に迷惑をかけるのが相手に対する孝行だって? と思うかもしれない。

でも、あの人の役に立てたとか、ピンチを救ってあげられたとか、なんなら説教してやったぜとか、そこまでいかなくてもアドバイスしたったぜ、とか。
そういう経験って、頼られたほうに、手を貸してあげたほうに、充足感や優越感を手渡せる。

なんでもかんでも、自分でやってしまってはいけないのだ。
「お前はもっと人に頼る余地を残した方がいい」と、昔、誰かにも言われたことがあったなあ。

私たちは、人に頼るのは申し訳ないと思うのに、人から頼られると嬉しいと思う。
だったらなぜ、自分が嬉しいと思うことを相手は迷惑だと感じるに違いないと決めつけるのだろう。
それは相手をみくびっていないだろうか。相手は自分よりも狭量であると言っているようなもんだよなあ。

和田裕美さんとの2日間のコラボセミナーはめちゃくちゃ面白くてみんな大興奮だった。私もノートがメモだらけになった。本編めっちゃくちゃ勉強になった。
の、だけれど。
そのセミナーの「楽屋裏」で、私が一番学んだのはそこ。

自分が手を出すべきところではないところで決して手を出さない和田裕美さんは、先回って次々と動いてしまう私よりも断然、みんなを幸せにしてたよ。頼られているみんな、嬉しそうだったよ。


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