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食材も人材も100%活かし切る「料理人の経営学」。リュミエール・唐渡泰オーナーシェフ

大阪心斎橋・リュミエールの唐渡泰シェフ。フレンチ業界では知らない人はいない異色の人物だ。まず、料理が異色だ。フレンチなのにバターやクリーム、砂糖を99%使わない。ミシュランガイドの星を12年連続獲得した経歴を持つ。
2006年創業。経営や資金繰り、雇用はプロに任せるシェフが多い中、プレイングマネージャーを貫き、専門料理店でありながら独立資本で多店舗展開を実現している。多くの飲食店が経営難に追い込まれたコロナ禍にも新店舗を立ち上げ、100名以上の雇用を守り抜いた。当時唐渡シェフはスタッフに収支を全開示し、危機を乗り越えるアイデアを募ったという。丁稚奉公が当たり前だった業界において、いち早く“モノ言うスタッフ”を育てる店づくりをしてきた。その経営方針と人材育成が店を救った。
飲食店の生存率は3年で30%。10年で6%。「10年続けば奇跡、30年続けば伝説」と言われるこの業界で、伝説に最も近いと評される唐渡氏の仕事の流儀を聞いた。

聞き手/佐藤 友美(さとゆみ)・江角 悠子 執筆協力/山田 陽子

かっこいいことを言うと、「崩す勇気」

――厨房、すごく明るいですね!

唐渡:この店で一番日当たりのよい、気持ちのいい場所なんです。本当はこういう場所はお客さまのために使うべきなのかもしれないのですが、スタッフが良い環境で働いていないと、良い料理もサービスもできないと思うので。
ここ、床も傾斜を作らないように、平らな設計にしているんです。通常、飲食店の厨房の床は、水はけをよくするために傾斜がついているのですが、それが原因で三半規管に支障をきたしたり、めまいを起こす人も多いんですよね。料理人にとっては、厨房が「職場」ですから、少しでも良い環境にできるようにと考えました。

――先日こちらでディナーをいただきました。それでびっくりしたんです。フレンチなのに、まったくお腹にもたれない。フルコースをデザートまで完食できたのは、久しぶりでした。体に良いことをした気持ちになるフレンチというのも初めての経験です。

唐渡:そう言っていただけるのは、とても嬉しいですね。うちの料理は、バターとクリームを99%排除しています。ソースは野菜のピューレで作っています。
開店時からこのスタイルでやっていますが、今でもバターとクリームを使ってしまいたい誘惑にかられることはあるんですよ。簡単にコクや旨味が出ますから。でも、どんなに美味しいご馳走でも、体に負担がかかる料理は作りたくない。僕ら料理人は全ての皿を味見しますから、自分たちの体にも良いものを作りたいと考えています。

――サービスしてくださった若いスタッフさんが私を含めていろいろなお客さまと親密に話をされていたことも印象的でした。

唐渡:そうでしたか。どんな話をしていましたか。

――どうして唐渡さんに師事しようと思ったかというお話、先ほどの「これまで勤めた店と違って厨房がとても気持ちいい」といった話などを聞きました。

唐渡:そんな話までしていましたか。ちょっと自由が過ぎますかね。

――いえいえ、全然そんなことはないです。20代のスタッフさんが、自分の言葉で接客ができるというのはすごいことだと思います。得難い経験でした。

唐渡:うちの店は、よくも悪くも「俺についてこい」という感じではないんです。昔は「10年背中を見て学べ」という業界でした。僕自身も、夜中2時までグラスを拭いてスタッフと店に寝袋で泊まっていた時期もあります。でも、今はそれでは誰もついていけない。

――具体的にはどのような教育を?

唐渡:やらせてあげることでしょうか。できなくても、任せてあげる。でも、一方的な押し付けでは難しい。プレッシャーを少なくしつつ任せる方法はないかと考えました。
もともとフレンチレストランには「ポスト」といって持ち場を任せるポジション制のシステムがあります。たとえば、冷製の前菜を作る人、デザートを作る人……というように。リュミエールも、17年前のオープン当時は、それぞれ持ち場が決まっていて、料理が間に合わなければ担当が怒られるといった状況でした。でも今は、一人に任せるのではなくて、最初から全員でやるようにシステムを変えました。
たとえばスペシャリテの「野菜の遊園地」。あれは、調理も盛り付けも大変なんですよね。

唐渡:それを一人に任せるのではなく、全員で作ります。スペシャリテが終わったら、これまた全員で温製の料理を作るといった具合です。洗い物も同じで、僕も洗い物をします。すると、僕の仕事は誰かがしなくてはならない。そうやってわざと若手に仕事を任せていくようにしています。
厨房の料理人も、調理をするだけではなくサービスに出るようにしています。先日サービスをさせていただいた彼は、まだ20代ですが、うちのスーシェフ(シェフに続く、二番手のシェフ)。“全員接客”がうちの信条です。

――このような高級店で若手に仕事を任せることは、なかなか勇気がいりますよね。

唐渡:もちろん、クオリティは担保しなくてはいけないので、最後のチェックは必ず僕がします。でも、常識を壊すのが好きなんでしょうね。

料理人は、「学んだことをくり返す」ことによって完成度を高めるものです。何かを変えると完成度が崩れる可能性があるから、本来、一度完成させたセオリーは崩したくない。でも、完成度にとらわれると成長が止まる。時代の変化に乗り遅れる。だから、かっこいいことを言うと「崩す勇気」を持つことが大事だと思っているんです。

フレンチの店なのだから、展開するのもフレンチだけにすればいいのですが、ティーサロンやブーランジェリー……と、いろんな形態にチャレンジしているのも、やはり「とどまりたくない」という気持ちがあるのだと思います。

――成功したノウハウでお店を展開した方が、効率が良さそうですが。

唐渡:商売が下手なのかもしれませんね(笑)。でも、新しいチャレンジをするには、絶えず進化しなくてはいけない。そして、それが料理に反映されないわけがないと思っているんです。

自信がないからすぐに変化できる

――これまでさまざまな“常識破り”があったと聞いています。

唐渡:ティーサロンの「ダマンリュミエール」を百貨店にオープンしたときは、いちごのショートケーキなどのケーキ類をメニューから外したので、いろいろな方から「ティーサロンでショートケーキがないとは、なにごとだ」とお叱りを受けました。でも、フレンチで出すデザートとショーケースに入っているケーキは、まるで作り方が違うんです。

フレンチのデザートはお客さまのところに持って行けば、すぐに食べていただける。だから、ふわふわの泡も作れる。一方で、百貨店のショーケースに入れるケーキは、1日中もつように固くしなくてはならない。僕たちはフレンチ店なのだから、たとえカフェでもフレンチの出来立てのデザートの美味しさを提供したい。となると、ショートケーキは作れない。

唐渡:もちろん、オープンする前に、各階の全部のお店を見に行きました。どのカフェにもいちごのショートケーキはありました(笑)。それを見て「どこでも食べられるんなら、逆にうちで出さなくてもいいやん」と確信したのです。最初はお客さまからよくご意見をいただきました。でも、おかげさまで、いまでは百貨店の中で一番の人気店になっています。

――こだわりを持つところ、挑戦をするところ、常識を覆すところ……。唐渡さんにとっては一本筋が通っているんですね。

唐渡:たしかに、あまり人がしないことをしているかもしれません。コロナで店をオープンできなくなったときも、うちの出納状況を全部スタッフに見せました。「全員を雇用したまま、乗り切りたいと思う」と正直に伝えたら、いろんなアイデアを出してくれました。

――その噂も伺いました。

唐渡:コロナの時は、家賃だけでも赤字で、借金もたっぷり増えました。それでも、給料は満額出していたし、コロナで休んだスタッフにも支払いをしました。それは一番意識しなくてはいけないところだと思ったからです。たとえ店を閉めることになっても、最後は社員に給料を払って店を閉じようと覚悟していました。給料を払えないならもう、やる意味はないと思っていましたから。
同時に社員には、売上や仕入れ、光熱費など、お金の流れをすべて公表しました。この店の中にみんなを呼んで、収支を全部見せた。「この状態があと何カ月か続いたら店を畳まなきゃあかんくなる」という話もしましたね。それもあって、みんなが積極的に経費削減に取り組んでくれたし、新しいメニューの開発もしてくれたと思っています。

唐渡:たとえば、コロナ禍にオープンした「ビストロカラト」は、夜の外食ができなくなった時期なので、昼間から終日ワインを楽しめるようなコンセプトを考えました。きっかけは料理長の「惣菜のテイクアウトをやりましょう」という提案。その時に、普段賄いで作るヤンニョムチキンやどんぶりをテイクアウトで売ったら、結構人気になりまして。「フレンチの賄いって、意外とお客様に喜んでもらえるんだ」という気づきから生まれたコンセプトでした。

――内情を明かしたからこそ、工夫が生まれたのですね。

唐渡:普段からスタッフには損益(PL)について話をするようにしています。家賃の割合、人件費の割合、魚の原価はいくらで、この部分を捨てたらどれくらいの損失かなど。そして毎日全店舗の人件費率、原価率を公開します。
一昨年、中之島の美術館にできた「ミュゼカラト」はキッチンがIHなので電気代もかかる。「いくらかかると思う? この電気代1%落としたら、みんなの給料数万円あがるねんで」という話もします。この店でホワイトボードに数字を書き出して、みんなで勉強会です。うるさく「電気を消せ、消せ」と言うだけなら、ただのケチなおじさんになっちゃうので(笑)。オーナーシェフならではの教育だと思っています。

一方で、スタッフからも良いと思う案はどんどん出してもらいます。たとえばカフェレストランのミュゼカラトには多いときは一日に500人くらいお客さまがいらっしゃる。そういう店では、オペレーションをどんどんアップデートしていく必要があります。最初から「ルールはどんどん変えていくつもりだから」「アルバイトの意見も聞くので、気づいたことがあったらなんでも言って」と伝えました。

――そうやって、オープンから変えたことはありますか?

唐渡:たくさんあります。たとえば、グラスの置き場所、カトラリーの位置。それも、ワンプレートで注文されたお客さまとデザートつきで注文されたお客さまの場合で変える。細かいところを言ったら、大量にあります。お客さまにとっては些細なことかもしれませんが、それを毎日500回やるのですから、ずいぶん生産性が変わりますし、居心地の良さも変わると思います。

――チャレンジの連続だし、ピンチもたくさんあったわけですよね。ハラハラしませんか? 唐渡さん、メンタルが強いのでしょうか。

唐渡:そんなことはないと思います。いつも不安だらけですよ。お店を作るときでも、テーブルひとつとっても、本当にここにテーブルを置いていいんだろうか。このやり方でいいんだろうかと、いつも自信がありません。もしかしたら、自信がないから変えられるし、いろんなものに挑戦できるのかもしれない。冗談じゃなくて、僕、一度も満足したことがないんですよね。お客さまが美味しいと言ってくれても、本当に美味しいと思ってくれているとは考えないんです。接客にしても料理にしても、「今日は完璧やったな」と思ったことは一回もないですね。ああすればよかった、こうすればよかったと、反省点ばかりです。「今日の最高は明日の最低」をモットーに、現状打破する柔軟性と勇気をスタッフと共有することを常に意識しています。

綱渡りの連続が自分と料理を成長させた

――唐渡さんの教育方針や経営の工夫は、どのように培われてきたのでしょう。リュミエールをオープンするまでの話も聞かせてください。料理人になりたいと思われたのはいつですか?

唐渡:小学校高学年の頃から「お店をする人」になりたいと思っていました。父の転勤で転校することが多く、小学校を4回も変わったので、一つの場所にずっと住みたいという思いがあって。

――当時の唐渡さんが考えていた「お店」とは?

唐渡:ぼんやりと飲食店をイメージしていたと思います。大阪の辻学園調理・製菓専門学校で1年学び、心斎橋の洋食屋さんに就職しました。

ところが、その洋食屋さんの調理場で、缶詰のデミグラスソースを開けていたら、先輩が「本当なら缶詰ではなく、フォン・ド・ヴォー(洋風だし)を引いて作るのが正式だ」と教えてくれたんです。日本の西洋料理はアレンジにすぎない、基本はフランス料理にあると聞かされびっくりしました。「どうせしんどい思いをするんやったら、“本当の仕事”をせな損やん!」と思って。自然とフランス料理の世界へ導かれました。

唐渡:そこでその洋食屋を辞め、東急系列のホテルに就職しました。23歳でレストランの責任者にしてもらうことができました。

――23歳で責任者とは、大抜擢ですね。

唐渡:トップに絶対認めてもらおうという意気込みは、人一倍だったと思います。ホテルでは、総料理長の食事を作る当番があるんです。それをチャンスだと思って、僕は朝からデザートまで仕込んでいました。賄いにデザートまで出すのは、僕だけ。食器もホテルの別の店から借りてきて、盛り付けも工夫しました。だって、毎日同じ食器で食べるのは、味気ないですよね。
みんなからは「そこまでして総料理長に気に入られたいの?」と白い目で見られましたが、そんなの関係ない。絶対認めてもらうんだ、と。

唐渡:そのうち、僕の当番の回数だけがどんどん増えていって「あんたの料理食べる時が、わし一番嬉しいわ」と総料理長に言っていただいたんです。人の心を打つためには、どこまで相手の気持ちを想像できるかなのだと感じた経験でした。

有名になりたい一心で、フランス料理のコンクールにも出まくりました。営業が終わってから一度家に帰って風呂に入ったら、もう一度誰もいない調理場に戻ってきてレシピを考える毎日。神戸で優勝すると東京の本選に行けるんです。でも、本選ではなかなか優勝できない。惜しいところで落とされる。審査員に「僕に、何が足りないんでしょう?」と聞きに行ったこともありました。

火の入れ方、食感の話……。いろんなアドバイスをもらったのですが、ある時、審査員の人たちが何を言っていたのかが、本当にわかった日があったんですよね。それは一言で言うと「コンクール用の見栄えのいい料理を作っているから、ダメなんだ」ということでした。コンクールなので、どうしてもテクニックに走ってしまう。でも、「人が食べるもの」「お客さまに提供するもの」なのだから、その前提を踏み外してはいけないのだと。

僕が優勝できたときは、レンコダイという鯛がテーマで、料理の見た目はシンプルだったと思います。でも、美味しいソースとパリッとした焼き加減の「完成度」、そして何より「香りと温かさ」にこだわったものでした。
審査員といえども、一人の「食べ手」です。料理長に賄いを作ったときと同じ。食べる人のことを想像し、その人の心を動かす料理こそが一流への道なのだと、改めて感じる経験でした。

そういった経験があったので、ティーサロンを出したときも、「フレンチなのだから、ショートケーキではなく、その場で作るデザートで勝負するぞ」と決めたのかもしれないですね。

――その後も、さまざまな名店やホテルでシェフを務めてらっしゃいますよね。

唐渡:僕の教育や経営が独特だったとしたら、それはやはり、過去の経験からくるものだと感じます。当時関西で一番と言われた「ジャン・ムーラン」の美木剛シェフには、「この人でなければ」という強いオリジナリティとカリスマ性を教えてもらいました。その後、フランスの三つ星レストラン「ラ・コート・ドール(現ルレ・ベルナール・ロワゾー)」日本支店のオープニングメンバーとして勤務。本場フランスで働かせてもらって、フランス人の主張の強さも学びました。この業界で生きていく、日本人の真面目さとフランス人の強さ、両方必要だと感じました。

唐渡:中でも一番大きかったのは、ホテルのブライダルや披露宴会場の料理を経験したこと。神戸のホテルで勤めていたとき、震災でフレンチを閉めることになり、行き場のなくなった僕は、宴会料理長にと辞令を受けたのです。

その時、「僕は、宴会料理を作りたいわけじゃなくて、フレンチがしたいので、1年だけやらせてもらって辞めます」と偉そうに伝えました(笑)。でも、当時の里道隆総料理長がとてもできた方で、そんな生意気な僕にも、「わかった。やってみなさい」と言ってくださったのです。

ところが、いざやってみたら何もできなかった。400名規模の料理を同時に作る。これは、今までの経験で太刀打ちできることではなかったのです。料理は作れても、マネジメントができない、原価計算できない、人の管理ができない。しかも、婚礼料理は時間が勝負。時間通りに出てこなければ大クレームで代金がもらえなくなることもあります。

――どう乗り切ったのでしょうか。

唐渡:そもそも、400名の料理を「必ず間に合わせる」ためには、前もって調理しておかないといけない。何かトラブルがあったら怖いから、例えばオードブルは2時間前に盛りつけも終え、華やかなフルーツの盛り付けも午前中に盛り終わっているんですよ。全部用意できて、あとはちょっと温かいものを仕上げるだけにしておく。僕はこれを全面的に変えることにしました。

お客さんにとっては出来立ての方が絶対いいはず。たとえ400人分だろうと、お客さんには5分前に完成した出来立てのものを出したい。そのためには「このスタッフの人数で、どの料理に何分かかるか」など、あらゆる計算をしました。

――時間の綱渡りですよね。スタッフさんは、ピリピリしませんか?

唐渡:先輩からは「そんな余計なことするな」と言われました。でも、朝の時点で夜のフルーツを切り終わっているなんて、おいしいわけがないじゃないですか。「いや、もう絶対これでやる。絶対にミスを起こさない。絶対に間に合わす」の一点張り。
僕は「間に合わへんのやったら、もうお客さんの前で切ろうや」と、目の前で果物や野菜に彫刻を施す“カービング”を提案しました。いくら華やかにフルーツを盛っても、すでに干からびていたら誰も嬉しくない。だったら、宴会場で切る“カービング”にしようと。結局、1年で辞めるといいながら、ホテルの料理長は4年勤めました。

――いよいよ独立となったのは?

唐渡:ラ・コート・ドール時代の大先輩でもある神戸北野ホテルの山口浩総料理長のもと、姉妹店の統括シェフを務めている時、大阪心斎橋の物件で、独立開業を目指す若者を応援するコンペの募集を見つけたんです。たまたま目にしたのが締め切り当日で、電話をかけて滑り込みで応募しました。そしたらなんと、チャンピオンになっちゃったんです。提出した事業計画の倍の初期投資をしていただけるということで、2006年12月20日、念願の開業をしましたが、すぐに浅はかだったと思い知りました。

――浅はかとは?

唐渡:神戸から心斎橋に移動して、土地勘も顧客もいない場所での開店です。今までの忙しさが一転、空席だらけのクリスマスを初めて経験しました(笑)。年が明けると、輪をかけてお客さんが来なくなって「もう、これやばいな」と。この状態が半年続いたら、終わる……と思ったら、寝ていても恐怖の震えで何度も目が覚めましたね。

レストランが一番賑わう金曜と土曜に、一人もお客様が来なかったこともあります。時間をかけて仕込んだソースが一度も使わないままダメになったり、仕入れた牛フィレ肉の色が変わってしまうので、周りを削って削って、1/3くらいのサイズにしなくてはならないこともありました。

唐渡:この時期、やむにやまれず、「一切の仕込みをしない。お客さんが来てから料理を作る」という技を編み出しました。笑い話のようだけど、今でも思い出すたび胃が痛くなります

――心斎橋は、高級店を出店するには難しい地域だと聞きます。

唐渡:外に出したランチの看板の価格表を見て「あんた、ここらで2000円以上のご飯って誰が食べに来ると思ってんの?」と、近所のおばちゃんに怒られたこともあります(笑)。
それでも、お一人でふらっと来られた方が、次はお友達を連れてきてくださったり、一度来てくださった女性経営者の方が貸切で使ってくださったり。以前働いていた店でお世話になった記者さんも取材に来てくれました。おかげで少しずつですが来店者が増えていきました。その頃来てくださった方々のことは一生忘れないと思います。そんな方が何人もいらっしゃいますね。

変えたいこと。変わらずにいたいこと。

――この先、リュミエールはどのようになっていくのでしょうか。

唐渡:レストランの文化というのは、本当は二代目、三代目と続いていくのが良いと思っています。ただ、料亭などでは例があっても、日本食以外で店が継承されていくことはまれですね。

――もしも唐渡さんが次世代に自身の店を受け継いでほしいと思うなら、一番継承されるべきものは何ですか? レシピですか?

唐渡:いや、はっきり言ってレシピは関係ないですね。僕は、どこのレシピも真似しようと思えば作れると思います。
僕らの修行時代は、レシピ集めゲームの時代でした。有名店に行ってそこのシェフのレシピを学ぶ。フランスの三つ星に行ってレシピを学ぶ。でも、今は地球の裏側の店のレシピも公開されている時代です。僕自身もレシピ本を出していますし。若い人たちには、「昔は情報収集の時代だった。これからは、情報整理の時代だ」と伝えています。そしてその上で、いかに自分のカラーを出すのか、オリジナリティを出すかの勝負になってきている、と。

――では、リュミエールらしさとは、何になるのでしょう。

唐渡:一番は、パッションやコンセプトでしょうね。どのようにお客様を勝ち得て、どのように経営してきたか。その情熱の部分。そして、クオリティを落とさない完成度。完成度というのは、必ず薄れていく。料理の味の完成度だけではなく、ソースが縁についていないとか、壁が汚れていないとか、いろんなトータルバランスで、完成度を維持するのは難しい。それが上手くできているのが、もしかしたら日本料理の世界かもしれないなと思います。

――フレンチでは難しくて、日本料理ではできている店もある。それは、どこが違うのですか?

唐渡:僕が思うに、日本料理は「静の料理」。そして、フランス料理は「動の料理」なんですよね。瞬発力や、スポーツ的なテンションの高さが必要なのが「動の料理」。
日本料理の人が汗水流してソースを混ぜているイメージって、あまり無いですよね。姿勢正しく刺身を引いたり、綺麗に切った食材を盛り付けたりする感じ。そして、熟練の技をひたすら極めていく。
でも、フレンチは調理場で怒鳴り声が聞こえたり、ぼわっと立ち上がった火で豪快に調理したり。そのベースが違うように思います。

――動の料理、つまり意気軒昂なフレンチの調理場でも、完成度を突き詰めるために、教育方法を変えたり、経営を公開したりされていると。

唐渡:そうですね。先ほど話したように、もう、背中を見て学べという時代ではない。とくに僕の料理は教えるのが非常に難しいんですよね。大さじ1杯、小さじ2杯などの分量は教えられても、僕がよく使う野菜のピューレの「小松菜をこれくらいの硬さにゆでて、色を飛ばさないようにして、ミキサーで回す」といった細やかなところは一つ間違えると完成しない。だから、時間を測ってチェックするなどの工夫が必要になります。それを、たとえバイトの人が入ったとしてもクオリティが保てるシステムに落とし込む努力をしています。

――暗黙知を言語化するわけですね。

唐渡:スタッフの賄いを食べるときも、必ず意見を言うようにしています。ちょっと細かいことでいえば、塩の振り方がおかしいとか、歩き方がおかしいとかも。

――歩き方?

唐渡:そうです。ほかにも冷蔵庫の閉め方にセンスがないとか。これ、大事なんですよ。調理場では、いろんな事故があるんです。だから、バットを持って振り向いたらあかんとか、必ず進行方向を向いて歩きなさいとか、そんな細かいことまで指導しています。

――そういえば、先日接客くださった方は、「一番しっかり教えてくれる、厳しい店で修行したかったので、リュミエールにきた」とも言っていました。

唐渡:僕自身も、これからも変わり続けなくてはならないと思っています。これまでのやりかたをどんどんアップデートしていかないと、通用しなくなるかもしれない。

――とどまらないんですね。

唐渡:僕、レストランというのは、街を作る重要なツールだと思っているんです。せっかく飲食業を選んだのだから、レストラン業を通じて、大阪のためになりたい。大阪を良くしたいし、大阪の賑わいを作りたい。もっと大げさに言えば、日本のためになりたい。世界のためになりたい。そういう大きい志がないと、小さいことしかできないと思っています。それは、小さい店を一軒やる時から、ずっと思ってきました。だから、僕が知っていることは全部後輩に伝えていきたいし、僕自身も変化し続けていたいのです。(了)


唐渡泰(からと・やすし)
辻学園調理製菓専門学校卒業後、ヌーベェル・キュジーヌの先駆けであり、伝説の名店「ジャン・ムーラン」、キュイジーヌ・ア・ローでミシュラン3つ星を得た「ラ・コート・ドール(現ルレ・ベルナール・ロワゾー)」等数々の名店・ホテルで修業後、2006年大阪・心斎橋に「リュミエール」を開業する。開業1年目に「ザガットサーベイ」でトップランキングを獲得。「ミシュランガイド」では12年連続星を獲得。シェフとして第一線で“野菜の美食”をテーマに自身の料理を追求しながら、レストラン経営、飲食事業のプロデュース、フランス老舗紅茶「ダマンフレール」の輸入を行う。現在10店舗(レストラン6店舗、ティーサロン2店舗、ブーランジェリー2店舗)を展開。「文化芸術観光ネットワーク大阪」企画委員。「クラブ・デュ・タスキドール」理事。著書に『野菜の美食』がある。

撮影/岡森 大輔
執筆協力/山田 陽子
編集/佐藤 友美江角 悠子

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