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ある日突然、パートから映画館の支配人に。田中亜衣子さんの挑戦【リレー連載・あの人の話が聞きたい/第2回】

CORECOLORメンバーが、いま会いたい人にインタビューするリレー連載「あの人の話が聞きたい」。第2回は、廣瀬 達也さんの「あの人の話が聞きたい」をお届けします。

兵庫県豊岡市にある映画館「豊岡劇場」。2022年に休館を告げられたパート従業員の田中亜衣子さんは、自ら志願して支配人になった。なにが彼女を駆り立てたのか。その後、豊岡劇場はどのように再起を目指しているのか。
休館からの復活時にボランティアとしてお手伝い参加、現在は事務担当スタッフとして劇場運営にも関わっている廣瀬がお話を聞いた。

聞き手/廣瀬 達也

豊岡劇場、突然の「休館」発表

「来週、休館を発表します」

2022年2月末、勤務2年目を迎えたパート従業員の田中亜衣子さん(以下「田中さん」)は豊岡劇場(以下「豊劇」)の支配人から突然告げられた。

コロナの影響などで映画館の経営が厳しいことは理解していた。しかし、なぜ「閉館」ではなく「休館」なのか。支配人からの説明を最後まで聞いたとき、その言葉に込められた気持ちが伝わってきた。
「休館」には、「もし、継いでくれる人がいるなら豊劇を託したい」という支配人の思いが含まれている。その思いに気付いた瞬間、田中さんは叫んでいた。

「私がやります! 豊劇をなくしたくありません!」

田中さんがパート従業員から新しい支配人になることが決まった瞬間だった。

豊劇は1927年(昭和2年)に芝居小屋として始まり、昭和40年代に大小2ホール(それぞれ約200席、約50席規模)の映画館になった。昭和50年代までは立ち見も出るほどの盛況ぶり。しかし、その後は社会的変化の波にさらされた。近隣の町では映画館の閉館が続き、2006年以降、豊劇は兵庫県北部(東京都とほぼ同じ面積)で唯一の映画館になった。そして、2012年(平成24年)に一度閉館をしている。
しかし、豊劇は、2年後に復活する。復活させたのは、「映画館のないまちに住みたくない」と立ち上がった地元の不動産会社の経営者だった。復活した豊劇は徐々に来場者数を増やしていった。しかし、コロナ禍を乗り切ることができず復活から約10年後、2022年8月に豊劇は休館する。

「私は、こっちの人間じゃない」

田中さんの地元は、豊岡市と隣接する京都府北部の京丹後市。京都市からは電車で2時間以上かかる地域である。高校時代は演劇部に入部した。演劇への関心を深めた彼女は高校卒業後、京都市内の大学へ進学する。演劇・映画に造詣が深く、アーツマネジメントを教えている先生のゼミに参加したかったからだ。大学時代は演劇活動に打ち込んだ。そして、打ち込むにつれ、演劇に対する気持ちに変化があらわれた。

「私は『こっち』じゃないな」

『こっち』とは、舞台上で演じる側のことだ。田中さんが自分の居場所と感じたのは演劇の「制作」側だった。具体的には稽古場の確保、出演スタッフなどのサポート、公演の宣伝、お客様対応や劇場との調整といった仕事だ。特にインターンとして、小劇場で制作を経験したことが決定的だった。

「あの小劇場の仕事を通じて、私は『館(やかた)』に出会いました」

このとき、田中さんは劇場のことを「館」と呼んだ。

初めてのお客様、常連のお客様、どちらもあたたかく迎え入れてくれる「館」。「館」には個性がある。個性とは建物の造形ではない。例えば、「この『館』の上演作品は信頼できる」、そんな「館」に対する信頼だ。その信頼は「館」を運営する人に対する信頼でもある。信頼できる「館」の存在に田中さんは魅了された。そして、自分も信頼される「館」の一員になりたいとの思いを強くした。

卒業年次を迎えた田中さんは、知り合いの劇場関係者から誘いを受けていた。「大阪にオープン予定の新しい形態の劇場がある。その劇場に立ち上げメンバーとして参加しないか」というものだった。それは魅力的な誘いであり、その新しさ故に不安も感じさせる誘いでもあった。

当時の田中さんにはもう1つの選択肢、「地元へのUターン」があった。田中さんは悩んだ。そして、選択したのは「地元へのUターン」だった。

「自信がなかったのです」

声のトーンが少し下がった。

大学時代は演劇に打ち込んだ。しかし、好きな現場に没頭するあまり、理論などを含むアーツの全体像を十分に学びきれていないと感じていた。「自分は現場のことしか分かってない。理論の後ろ盾がない」、その自己評価が、田中さんを弱気にさせてしまったのだ。

地元には演劇に関わるような仕事はほとんどなかった。田中さんは、演劇とは無関係のパート業務に就いた。そして、子どもが生まれ、家庭のためにパート業務を続けながら10年が経った。自信がなくて故郷へ帰ってきた後悔が消えない10年間でもあった。

ここを最後の職場にしたい

コロナの影響で勤めていたパートの仕事がなくなったとき、田中さんは、たまたまネットで豊劇のパート募集を見つけた。

豊劇にはUターン後、育児の合間を縫って何度か映画を観に訪れたことがあった。
「これは運命だと思いました。Uターンしてから、豊劇の存在が気になっていました。閉館から復活したことも知り、そこで働きたいと思っていたのです」

芝居小屋から始まり、今は映画館となっている豊劇。そこは田中さんがかつて出会った「館」を感じさせる場所だった。すぐにパートに応募し、採用された。

映画を観るお客様を受け入れる仕事は楽しかった。豊劇は田中さんにとっての新しい居場所になっていた。

「正社員になりたい。ここを最後の職場にしたいと考えていました」

田中さんの「正社員になりたい」思いは実現しなかった。支配人になったのだ。

休館翌月の2022年9月、田中さんは新しい運営組織、一般社団法人「豊岡コミュニティシネマ」を設立した。彼女が目指すのは「みんなでつくる、みんなの豊劇」。翌年3月に復活することを目標にした。

自らが代表理事に就き、他の理事は、私設図書館を運営する医師、近隣の町の美術家、兵庫県立大学の教授など、豊劇を応援してくれる方々にお願いした。

そして、写真撮影、持ち込みイベント等を企画する人たちへの貸館、寄付をしてくれる賛助会員の募集など資金集めを進めた。再開後の運営のため、ボランティアスタッフの募集も行った。

さらに、地域の方々の意見を聞くため、「豊劇の未来を考える会」を複数回開催した。

「豊劇の未来を考える会」で集まった地域の方々からのコメント

2023年3月、苦しみながらも再開資金を集めた田中さんが支配人を務める新しい豊劇がスタートした。

「豊劇の未来を考える会」では、「なくなるのは寂しい」「子どもの頃、親に連れてきてもらった」などの声をもらった。加えて、「地域のハブに」「地域の磁石に」など、映画館にとどまらない豊劇の役割に期待する声も多かった。

田中さんは「学校や塾以外の居場所の選択肢を子どもたちに提供したい」と考えている。同じ思いを共有する理事と協力することにした。そして、2024年、その理事が運営する私設図書館と連携した活動「本と映画 テルル」をスタートさせた。豊劇と私設図書館それぞれが「10代の子どもたち向け開放日」を設けたのだ。この日、子どもたちは、無料でゆっくり映画と読書を楽しむことができる。

豊劇の上映作品選定は田中さんが行っている。喜ばれる作品、知ってもらいたい作品などを考えながらの選定は楽しくも、難しい作業だ。

お客様からは、「知らない映画でも豊劇で上映するなら、おもしろい作品だろうと思える」という声をいただくこともあるそうだ。

かつて彼女が魅了された「信頼できる『館』」、豊劇は少しずつその「館」に近づいている。

映画以外のイベントとしてラグビーワールドカップのパブリックビューイングを実施。

「今までは、歴代の責任者の方々のやってきたことを引き継いだだけ。これからは、次の10年をしっかり運営できる豊劇の環境を整えたいです。そして、地域のさまざまな人の居場所として豊劇を提供したい。映画以外の取り組みも幾つか考えています。劇場の軒下を使ったフリーマーケット、演劇を学んでいる学生がロビーで30分程度の演劇を披露するロビーシアターなどです。地域のみなさまの声を聞きながら一緒に実現していきたいと思っています」(了)

豊岡劇場は現在クラウドファンディングに挑戦中。約10年前、最初の復活時に導入したデジタル映写機の更新時期が近付いている。次の10年に向けた安定した上映環境維持のためにデジタル映写機更新の資金が必要なのだ。クラウドファンディングの期限は2025年2月28日。

「U18みらいチケット」は若い人が500円で映画を観ることのために行う寄付を反映したチケット。2/28まで実施中のクラウドファンディングのリターンにも組み込まれている。



田中 亜衣子(たなか あいこ)

京都府京丹後市出身。京都市内の大学卒業後、京丹後市にUターン。3児の母として子育てと並行し、JRの改札業務、レストラン、第三セクター鉄道のアテンダントなど数々のパートを経験してきた「パートのプロ」。現在は、豊岡劇場の運営組織・一般財団法人「豊岡コミュニティシネマ」の代表理事として豊岡劇場の支配人を務める。

豊岡劇場 兵庫県豊岡市元町10−18

執筆/廣瀬 達也

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