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「アルバイト辞めました」に400いいね。3歳から追い続けた、指揮者になる夢【リレー連載・あの人の話が聞きたい/第3回】

関西を中心に、フリーの指揮者として活動する木下麻由加さん。現在38歳になる彼女が「指揮者になる」と心に決めたのは、3歳のときだった。以来、夢の実現に向けて迷わず突き進み続けた木下さんだが、その道のりは決して平坦ではなかったという。

聞き手/中道 侑希

袴に脇差で指揮台へ。地元に貢献するニューイヤーコンサート

和歌山県橋本市にある、サカイキャニング産業文化会館。2025年1月、この会館の大ホールで橋本市祝祭管弦楽団によるニューイヤーコンサートが行われていた。

舞台袖から登場したのは、着物と袴を着て、脇差を持った女性。指揮台に立つと、手にした脇差で指揮を振り始めた。ホールには大河ドラマ「真田丸」のメインテーマが響き渡る。

(撮影:Mizuki Nada)

彼女は木下麻由加さん。橋本市出身の指揮者だ。

「指揮者として活動を始めたとき、いつかは地元に音楽で貢献したいと思っていました。ですので、橋本市から声がかかったときは本当に嬉しかったですね」

このニューイヤーコンサートは、今年で5回目を迎えた。プログラムの選定から演出、出演者の調整に至るまで、コンサートに関するすべてを木下さんが一人で手掛けている。今回のプログラムや演出も、「真田丸ゆかりの地だから」と木下さんが企画したものだ。評判は高く、リピーターとして毎年来場する地元市民で会場はいっぱいになっている。

いまではニューイヤーコンサート以外にも、全国各地の演奏会で指揮を振る木下さん。さらに3つの大学オーケストラの常任指揮者や高校の特別非常勤講師としても活動するなど、活躍の場は多岐に渡る。

しかし2014年にフリーの指揮者として活動を始めた当初は、指揮者一本では食べていけず、自宅近くの空港でアルバイトをしていたという。最初は空港内の飲食店。徐々に指揮者の仕事が増えてからは、早朝だけ働けるようにと飛行機のバルク室に荷物を手作業で積み込む仕事に変えた。朝は空港で荷物を積み込み、日中は指揮者として活動する日々が何年も続いた。

「指揮者だけで生計を立てられるようになったのは、いまから2年前。2023年に入ってからですね。Facebookに『アルバイトを辞めました』と投稿したら400件を超える『いいね』がついて驚きました」と笑う。

当時、木下さんは36歳。指揮者一本で生活できるようになるまで、どのような道のりを歩んできたのだろうか。

気づいたときには「夢は指揮者」

「母から聞いた話になりますが……」

そう言って教えてくれたのは、3歳のころに母に連れていってもらったオーケストラのファミリーコンサートでの出来事だった。

「指揮者が出てきて指揮を振り始めると、私も座席に立って指揮者の真似を始めたらしいんです。おそらく、オーケストラの前に立って一人だけ違う動きをしている人が面白くて、興味を持ったのでしょうね」

その年の七夕の短冊に書いた願いは、「しきしゃになりたい」。幼稚園の卒園制作、小学校の卒業文集にも「将来の夢は指揮者」と書いた。卒業文集には「22歳で指揮者になり、27歳で自分のオーケストラを持ち、32〜47歳で世界を回って、その後は引退してセカンドライフを送る」と具体的な人生設計まで記したという。

その夢を叶えるべく、大学は音楽理論や指揮法を学べる神戸大学発達科学部(現・国際人間科学部)へ進学。同時に神戸大学交響楽団に所属し、2回生のときに学生指揮者となった。着実に指揮者への道を進んでいた木下さん。しかしその矢先、思いもよらない壁が立ちはだかる。

■誤解を解くため、パソコン片手にデンマークへ乗り込んだ

「私は大学で音楽の専門教育を受けました!」

2012年2月、木下さんは単身デンマークにいた。場所は王立音楽アカデミー。指揮者になるため、大学卒業後は留学してさらに専門的な音楽教育を受けようと決めていた。

しかし、2011年に受けた王立音楽アカデミーの入学試験は不合格。アカデミー側から伝えられた理由は「あなたは入学に必要な音楽教育の履修が済んでいないから」だった。木下さんは大学時代、音楽理論や指揮法など専門的な音楽教育を受けており、履修証明も提出していたにも関わらず。

「神戸大学の授業名が独特だったんです。たとえば作曲の授業は『音楽言語論』なので、英語にすると『music language』となる。この名称では、作曲を学んだことがアカデミー側に伝わらなかったんです」

抗議をしようにも、その年の入試はすでに終了してしまった。しかし納得できなかった木下さんは、翌年の2012年の入試受付開始にあわせてアカデミーにアポをとり、単身デンマークに向かった。自分は入学要件を満たしていると、直接説明するためだ。

「前年の反省を踏まえ、履修証明には授業内容の説明をつけました。それを持ってアカデミーに行き、その場で一つ一つ説明したんです」

さらに、指揮のビデオ審査用のDVDを提出する必要があったため、万が一再生できなかったら困るからと日本から自分のパソコンを持参。「これで見てください!」と、パソコンごとその場に置いて立ち去ったという。

その行動力が功を奏したのか、無事にデンマーク王立音楽アカデミーの合格をつかみ取る。2年半の学びを経て、2014年に帰国。その後、指揮者とアルバイトの兼業生活を9年間続けたのは先述の通りだ。

「指揮力」と「指導力」。指揮者として求められる役割を意識する

現在、仕事の依頼のほとんどは口コミか紹介経由だという。一度仕事を依頼された楽団から、その後は毎年声がかかることも少なくない。依頼を受ける際に意識しているのは、「その場で求められる自分の役割を全力で果たすこと」だと話す。

「たとえば、プロの楽団とアマチュアの楽団では、指揮者に求められる役割がまるで違うんです。プロであれば『指揮力』、アマチュアでは『指導力』が求められます」

プロの楽団での指揮は、いわば音楽家vs音楽家の闘いだという。限られたリハーサル時間の中で、「私はこんな音楽をつくりたい」という意思を、言葉で細かく説明せず指揮棒を通して伝える「指揮力」が求められる。

一方アマチュアで求められるのは、「どうすれば良い音楽になるか」「どのような表現が適切か」を伝える「指導力」。ときには具体的な弦楽器の弓の動かし方や表現方法などのテクニックも伝えるため、レッスン的な要素もある。

自分の役割を全うし、相手の期待に応える。そのために何か準備していることはあるかと聞くと、「指揮をする曲のスコア(総譜)を読むだけです」と言う。

どんな人が所属している楽団なのか、楽団の雰囲気はどうか……そうした、個人の主観に左右されるような情報はあえて入れないという。事前に調べたとしても、実際に現場に行ったらまったく状況が違う場合もあるためだ。先入観を持たず、ただ目の前の奏者や音楽と向き合う。それが木下さんの指揮者としての姿勢だ。

「私が準備するのは、どうすれば私に指揮を依頼してくれた人たちと一緒に良い音楽がつくれるかを考えること。それだけです」

とはいえ、何も情報がないので初めての現場はドキドキしますけれどね、と木下さんは笑った。

目指すのは、あのとき経験した「究極の瞬間」

幼いころに抱いた指揮者としての夢を追い続け、見事に叶えた木下さん。これからのキャリアをどう考えているのだろうか。

「最終的には、第二の故郷であるデンマークと日本を行き来しながら音楽活動ができたらいいなと思います」

そう話す木下さんにはもう一つ、心に抱く思いがあった。大学時代に経験した「究極の瞬間」の再現だ。

「大学の練習場で交響曲の一節を指揮していたとき、すべての奏者の音がぴたっと重なり合う瞬間があったんです。そのとき、まるで体が急に海の中に沈んだような感覚があって。息ができなくなるような、音に飲まれる感覚。まさに『究極の瞬間』でした」

指揮者として活動を始めて11年。これまでプロを含めて数多くの楽団を指揮してきたが、まだあのような瞬間には出会えていない。だからこそ、いまの仲間たちと一緒にもう一度あの瞬間を迎えたいと願っている。

「欲張らず、目の前の音楽に誠実でいる。その積み重ねでいまの私があります。きっと今後も同じように音楽と向き合い続けていけば、その先でまたあの瞬間にたどり着けるのではないかと思っています」(了)

撮影・執筆/中道 侑希

(撮影:Ayane Shindo)

木下 麻由加(きのした まゆか)

1986年生まれ。和歌山県橋本市出身。神戸大学発達科学部人間表現学科卒業。卒業後はデンマーク王立音楽アカデミーに留学。帰国後、フリーの指揮者として活動を開始する。第14回橋本市文化功労賞受賞。現在は関西を拠点に、大学オーケストラの常任指揮や高校での指導、全国のプロ・アマチュア楽団での指揮を精力的に行っている。推しはデンマークを代表する作曲家・ニールセン。

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