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『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』で弱さの根っこを見つめたら、強さの呪いから解放された

「あなたが欲しいのは、“強いあなた”ですか? それとも“弱いあなた”ですか?」

濃い霧が立ち込める森で道に迷った私は、泉から現れた女神に問いかけられる。差し出された女神の手元は、霧のせいか、モヤモヤしていてよく見えない。「え?  何? 何を選べばいいの?」と、私は頭を抱える。

『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』を読みながら、そんな童話の一説のような光景が浮かんだ。この本は、「強い」ビジネスパーソンを目指した著者・井上慎平さんが、転職後の重圧やマルチタスクの波に呑まれて鬱を発症し、その後双極性障害の診断を受けるところから始まる。できることが減っていき、彼は「自分は弱くなった」と悲嘆にくれる。その体験を読みながら、過去の自分を思い出した。

新卒でテレビ局にアナウンサーとして就職した私は、「強くなりたい」と願っていた。うっかり犯したミスひとつでも、放送されれば全国に知れ渡り、誰かの怒りや批判を真正面から浴びる日々。社内ではデスクに叱責され、街を歩けば見知らぬ人から批判され、ネットではあることないことを書かれたこともあった。寝る間も惜しんで働き、気を抜いたら置いていかれるような報道の世界で、どんなことを言われても前に進める「強さ」が欲しかった。このころの私なら、女神の問いかけに、迷わず「強い私!」と叫んだだろう。実際、怒鳴られても言い返し、ミスをしても顔を上げ、強く見せることで踏みとどまっていた。

そうやって月日を重ね、番組を作る立場になった。ある日、番組ゲストを決める打ち合わせで「○○さん、使えないんだよねー」と発言した瞬間に、我に返った。自分の声なのに、知らない人の声のように聞こえた。私は、他の誰かに、しかも他者を貶めて強くなったつもりの嫌な奴に、なろうとしていた。「強い」とは程遠かった。

本書で、著者の井上さんは、「強さ」を追い求めてしまった根底に、社会に染み込んだ理想像があると分析する。感情をコントロールし、変化に柔軟に対応し、常に成長を志し、自己責任で問題を処理する……。そんな「理想的なビジネスパーソン像」が無意識のうちに内面化されていたというのだ。

このモデルは、アメリカ的な成果主義や資本主義で成功を勝ち取るために生み出されたスーパーマン的な人物像だ。それが現代の日本社会でも高く評価され、多くの人がその人物像に自分を当てはめようと苦しんでいる。かつての私も、その理想を無意識のうちに内面化し、近づこうともがいていたのかもしれない。しかし、理想を追えば追うほど、実現できない自分を「弱い」と断罪してしまう。「弱さ」は「劣っていること」と同義になり、自分を責める材料になっていく。

女神が現われた森は、「ビジネス」という森だ。その森で、若いころの私は強さが何なのか明確なビジョンも持たないまま、さまよっていた。

30代になり、2人の子を持つ母となった私は、森を歩くことさえままならなくなっていた。下の子には持病があり、入退院を繰り返していた。報道の最前線で働くことは難しくなり、割り当てられた通常業務ですら、子供の体調不良でキャンセルすることが多くなった。看病のため常に寝不足で、パフォーマンスも落ちた。生産性は格段に落ちていた。「いつも申し訳ないですー」と職場で頭を下げながら、少なくなった「できること」と格闘して何年かが過ぎた。

ある年の年度末、いつものように人事考課用の面談シートを上司から渡された。そこには「会社への貢献」や「目標達成」など、自己評価を書く欄が並んでいる。毎年何とかこじつけて「成果らしきもの」を書いていたのに、その年は書けなかった。自分を強く見せ続けることに疲れていたのだ。返された真っ白なシートを見て、上司は「お子さんが大変なのはわかるけど、先を考えて、今、がんばっておかないと」と言った。時間や体力・精神力など自分のリソースは、全部使ってしまっていた。これ以上がんばれない自分はもうダメなんだと情けなくなると同時に、子供のころからの疑問を思い出した。

私はのんびりした子供だった。故郷・静岡の自宅近くに広がるミカン畑で、寝転がって、青空を流れる雲を見るのが好きだった。私は、その瞬間そこにいるだけで満たされ、それを咎める人もいなかった。

それが、中学生になると「良い高校に入るために勉強しなさい」と追い立てられた。高校に入ると「良い大学に入るために」、大学生になると「良い就職ができるように」、社会人になったら「会社に貢献するために」と言われ続けた。未来のために「今」を差し出し続けている感覚があり「この摩耗感は何だろう」と疑問だった。

その答えを、本書は与えてくれた。「現在の手段化」、つまり「未来に役立てるために現在を使う」という意識が、現代人には深く染み込んでいるという。この「前のめりの時間意識」の背景には、「生産性=短時間でより多く成果を出すこと」が是とされる企業社会の規範がある。私たちは、その価値観を無自覚に取り込んで生きている。恐ろしいのは、その支配がプライベートにまで及んでいたことだ。私は、生産性がない自分を「すべてにおいて無価値だ」とジャッジしていた。友人を「生産性」で選ぶことなどないのに、自分だけは狭い価値観で裁いていた。

私はテレビ局を辞め、別の会社で細々と働いた。そこでも「目標達成」や「効率化」が当然のように求められた。強さを追い求めることを止めた私は、仕事でほかの人より抜きんでた生産性を発揮することはできなかった。そして、危うく自分に「弱い」「無価値」のレッテルを貼るところだった。その感覚にはうんざりしていた。「女神様、私は“強いあなた”も“弱いあなた”も、どっちもいりません」……。今年3月、私は契約社員への降格を願い出た。

本書を読み終えたとき、ふとシェイクスピアの戯曲『マクベス』の魔女のセリフが頭に浮かんだ。「きれいはきたない、きたないはきれい。さあ飛ぼう、霧の中、汚れた空を」。16世紀末、宗教改革による価値観の転換を象徴するこの言葉が、現代の私たちにも通じる気がした。「きれい/きたない」「強い/弱い」……人は二項対立的な価値観で割り切れるほど単純ではないし、社会が求める理想像なんて時流によって移ろうものだ。だからこそ、自分の価値は自分で決めると誓ったら、晴れやかな気持ちになった。

濃い霧の中、汚れた空の向こうに、かつて自分が美しいと感じた青空と白い雲が見えるかもしれない。私は自分の全部を抱えて、森の上を飛ぼうと思う。

文 / 青木 キクコ

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