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幸福度ランキング1位の国で考える、わたしの理想の暮らし方。『ヘルシンキ 生活の練習』

Writer 中谷 柚香

「北欧の暮らし」といえば、自分を大切にしながらていねいに暮らす人々がイメージされる。ムーミン谷で繰り広げられそうな穏やかな生活は、広告会社の営業としてあくせく働くわたしの日常とは縁遠く感じるが、一つの憧れでもある。

本書『ヘルシンキ 生活の練習』は、書店員さんによる選書サービスで届いた1冊だった。わたし自身の人となりが分かるように、人生観や過去の経験などをカルテに細かく記入した上で、今のわたしにふさわしいと思う本を選んでもらった。

初めてタイトルを見た時には、「素敵な北欧の暮らしを真似してみましょう」という趣旨のエッセイだと思った。しかし、本書は決して北欧の理想を語るわけではなく、憧れる前に考えるべきこと・日本で幸福に生きるためのヒントを伝えてくれるものだった。

作者は、京都で生まれて日本国籍を持つ在日コリアンの女性。彼女は幼少期から、韓国風の名前を持つが故に「日本人ではない」ことを前提にした周囲の声に悩まされていた。友人たちが放つ、「なんで日本人にならないの?」「もう日本人と同じだよね!」という言葉は、一見相手を受け入れているようでありながら、作者の前に明確な線引きをしてきた。自分は何者なのか・何人なのか。彼女は、そんなアイデンティティへの疑問や民族意識からの解放を求めて、夫と2人の子どもを連れて、北欧の地へ赴く。

新天地のフィンランドは、世界幸福度ランキングで8年連続1位を獲得している国。そんなフィンランドでの暮らしを通して彼女が体感したことは、日本とフィンランドとでは、物事の捉え方や社会との関わり方がまるで違うということ。

しかし、決して幸福度の高い北欧が優れていると評価するわけではなく、彼女は両者の違いを客観的に分析しながら、ユーモアたっぷりの関西弁でその差を浮き彫りにしていく。

例えば、子どもを保育園に預けるという行為一つをとっても、そのスタンスからして2国間には違いが見られる。

日本では、保育園は親が働いている間に子どもを預かる場、すなわち「保護者のための施設」として捉えられているが、フィンランドでは、子どもが保育・教育を受けるための場、つまり「子どもの権利に紐づいた施設」とされている。

彼女の視点でみれば、労働者のために存在する日本の保育園の方が、“保護者の共同体”という意識が強い。今日はこんなことをがんばったよ!と、子どもの様子を写真やイラストで詳しくお知らせしてもらうなど、保育士一人一人の熱意や情熱を感じる場面が多かったそうだ。

一方のフィンランドは、保育が社会の権利として制度化されているため、朝食・昼食・おやつの3食が与えられるなど手厚いサポート体制は整っているが、いわゆる保育園行事もなければ、保育士とのやりとりも限定的。あくまで、個人がサービスを利用するというスタンスで、保育の質が個々の保育園・保育士に左右されにくいのが特徴だ。

この2国の比較において、幸福度の高さが社会保障の面で評価されるときには、やはりフィンランドに軍配が上がる。さすがNo.1の国の保育園は、設備は充実しているし環境も抜かりない。しかし、どちらの価値観がしっくりくるかと言えば、日本人のわたしはやはり、行事・交流のない保育園よりも、前者のような共同体の中で、仕事熱心な先生に出会えることを求めてしまうかもしれない。

わたし自身は子育ての経験はなく、今は広告仕事において無形商材である「企画」を売っている。営業の立場で10年以上この仕事に従事しているが、その中では常に、わたし自身の介在価値を問われてきた。例えば広告グラフィックであれば、本質的にはデザイナーの手によって生み出されるもので、わたしはあくまで営業としてフロントに立ち、その仲介をしているに過ぎない。しかし、仲介者のディレクション一つで企画のクオリティは変わるし、わたしの立ち振る舞い一つで、次の仕事に繋がるきっかけも作れると、本気で信じている。だからこそ、一緒に仕事をする相手から少しでも信頼してもらえるように、わたし個人の熱意が伝わるようにと、できるだけの工夫・努力をしてきたつもりだ。

しかし、わたしのやり方はわたし個人の人柄や性格に基づくものであって、決して再現性をもって引き継ぎができるものではない。逆に言えば、どれだけリスペクトしている先輩であっても、わたしには、先輩と同じような仕事のやり方は到底真似できない。

無形ビジネスは特に属人的になりやすく、同じ会社の中でも人によって仕事量に偏りが出やすいものだと思う。それはきっと会社(社会)の仕組みが変われば調整できるものかもしれないが、わたしたちには個人の努力を美徳とする価値観が少なからずあり、自分で選んだ好きな仕事だからと、業務の偏りまでも信頼の証として受け入れてしまう傾向があるかもしれない。仕組みの不備も個人のがんばりで乗り越えてしまう、そんな不器用な美徳。

一方、こういう価値観が「努力」と「無理」の境界を曖昧にして、人を疲弊させていくのもまた事実であり、日本でサラリーマンとして働くことはなんて息苦しいのだと、悲観的になってしまう感覚もよくわかる。

がんばることをやめてラクになりたいけれど、一度立ち止まってしまえば、信頼と共に仕事はわたしの手を離れてしまうかもしれない。そんなプレッシャーを感じたときにふと、自分を大切にしながら生きる、絵本のような北欧の暮らしが憧れとして浮かび上がってくる。

彼女もまた、保育士のがんばりによって運営を成り立たせている日本の保育園の現状を、社会の制度に守られたフィンランドと比較しながら指摘する。しかし、それをただ否定的に語るのではなく、フィンランドでは感じられなかった「あたたかさ」という別の評価軸でもって、“保護者の共同体”たる日本の保育園の特徴を多角的に整理する。

あの共同体を、負担に感じる人もいるだろう。でも、あの共同体がなくなったら、寂しいと感じる人もいるんじゃないだろうか。

手放しに羨む必要はなくて、違いを知ることで自国の魅力を再発見すること。自分の幸せのためにはどんな価値観を選び取って、どんな風に生きていくのがベストか。本書はその思考のヒントを与えてくれるのだ。

平成初期に生まれたわたしには、不器用ながらも人情を重んじる価値観が根付いている。誰かの期待に応えるために、多少の無理をしてでも力を尽くすことは、やっぱり尊いことだと思ってしまう。だから、属人的にならない制度を完璧に整えて、効率的な仕事を平等に淡々とやろうとしても、きっとうまくいかない。時には閉塞的で不平等にさえ感じる今の働き方も、意外と性に合っているのかもしれない。

フィンランドに住んでいる人たちの幸福度が高いかどうかなんて、そんなに重要なことだろうか。そうではなく、本当に言いたいことは、「私たちは不幸だ」ということのほうではないだろうか。(中略)フィンランドは、いやフィンランドだけでなく世界のどの国のどの場所も、残念ながら、日本の不幸を語るときの枕詞ではない。住めば都だけれども、どんな都に住んでいたって、隣の芝生は青く見える。

「北欧の暮らし」は素敵な生活の象徴として語られることが多いが、では一体何が理想なのか。はたまたその理想は、本当にわたしが心から求めている姿なのだろうか。

隣の芝生は羨むためじゃなく、違いを認めながら自分の芝生を愛でるために覗いてみるのがいいのかもしれない。幸福度の指標がわたしの中にあり続ければ、幸せに近づくための正しい努力ができるはずだ。

文/中谷 柚香

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