
不登校の子どもが安心できる場所を作りたい。九州初の「学びの多様化学校」はこうしてできた。文部科学省・上田椋也さん
大分県玖珠町(くすまち)。人口14,000人ほどの小さな町に、2024年、九州初の「学びの多様化学校」が誕生した。
当時、玖珠町の不登校の生徒は全体の11%。全国平均を大きく上回っていた。この課題に向き合うべく設立されたのが「くす若草小中学校」だ。
わずか8ヶ月という異例のスピードで開校にこぎつけた立役者の一人が、文部科学省から派遣された上田椋也さん。東京で教育政策に携わっていた20代の官僚は、なぜ大分の小さな町にやってきたのか。東京から大分にUターンした筆者が、校舎を案内してもらいながら話を聞いた。
聞き手/菜津紀
構成/佐藤 友美
「わからない」「知らない」「興味ない」と言う子どもたちの目が輝き始める
上田:まずは学校をご案内しますね。現在の生徒は小・中学生合わせて22名で、そのうち6名は関東や関西からの移住者です。制度上は、不登校の生徒を対象とした学校なんですが、私たちはそうは考えていなくて、「すべての子どもにとっての未来の学校」を目指しています。
1階が小学部で、手前のエリアは教育支援センター「わかくさの広場」という公的なフリースクールのような場所、奥が小学生の教室です。学びの多様化学校では、バラバラの学年の子が一緒に学んでいます。机の配置も自由です。
——時間割を見ると「野遊び」「対話」「自学」「探究」……。見たことのない教科ばかりですね。
上田:学びの多様化学校には、独自の教科を作れる特例があるんです。「野遊び」は自然の中でさまざまな体験をする時間。「対話」は朝と夕方のホームルームで気持ちを話し合ったり、テーマについて語り合ったりする時間。「探究」は自分たちでテーマを決めて学んだり、プロジェクトに取り組んだりする時間です。
壁に掲示しているのが、「探究」で取り組んだ「YASAI(やる気最強行くぞ遊園地)プロジェクト」です。子どもたちが自分で野菜を育てて売って、その売上で遊園地に行こうと目標を立てたんですよ。きっかけは「対話」の時間に出た「野菜を育てて売ってみたい」という希望でした。

まずマインドマップで「何をしなくてはいけないか」を整理して、実態調査をして、どこで売るか、どう宣伝するかを考えて。値段決めも出荷も袋詰めも全部自分たちでやって、道の駅で販売しました。でもやっぱり、プロの野菜と並ぶと売れ残るんですよ。そこからまた考えて、シールを作ったり、キャラクターグッズを添えたり、町役場まで販売に行ったり。最終的に3万円ほど売り上げて、みんなで遊園地にも行けました。
——すごい! 企画から実行、課題解決まで全部自分たちでやっている。
上田:本気になると、学びって勝手に深まるんですよね。
「対話」の時間は基本各クラスでやりますが、全校対話という時間もあります。校則はなくて、何かトラブルがあったときは先生が一方的に叱るのではなく、みんなでどう解決するかを話し合います。問題が起きても、責任追及や犯人探しを目的にしないという文化があって。トラブルも、対話で解決することを学ぶ最高の教材だと思っています。
——この掲示、「何のために生きているのか」について対話していますね。大人でもなかなか考える機会がないのに。

上田:もちろん最初は子どもたちもうまく話せないんです。「わからない」「知らない」「興味ない」の三連発。でも毎日やっていると、少しずつ自分の言葉で話せるようになってくる。対話していると、たとえケンカしても深刻にならないし、いじめにもつながりにくいんです。話し合うことが日常ですから。
2階が中学部です。中学部も教科学習の時間はありますが、前半は講義形式、後半は各自の計画に基づいて進めることが多いです。不登校歴が長くて学習の遅れがある生徒もいるので、一斉授業と個別対応をミックスしています。
——授業の様子を拝見しましたが、先生と生徒の距離がすごく近い印象を受けます。
上田:この学校の先生は、自分たちを「伴走者」と捉えています。教え導く、引っ張っていく人ではなくて、子どもたちと一緒に走る人。自分自身も探究して、新しいことを学んでいく。あくまで主役は子どもたちで、先生はその子たちが安心して自分を出せる場所を支えるサポーターです。
不登校の子どもたちも、実はつながりを求めている
——校内を案内いただいて、みんな楽しそうで……正直、自分が通いたくなりました。
上田:これまで学校にほとんど通えていなかった生徒が、「休みが来るのが嫌なぐらい楽しい!」と言ってくれました。平均登校率も約80%で、多くの生徒が毎日楽しんで通ってくれています。それが何よりの喜びです。
ところで、不登校の原因で一番多い理由って何だと思いますか?
——やっぱり、いじめなどの人間関係ですか?
上田:一位は「無気力・不安」とされています。次いで「生活リズムの乱れ」、三位が「学業不振」、四位が「いじめ関係」。つまり、いじめが原因で不登校になるというシンプルな話ではないんです。
しかも「無気力・不安」は非常に広い概念で、「何が無気力や不安にさせているのか」の背景にはさまざまな要因がある。表に見えている原因はきっかけに過ぎなくて、家庭環境や学校環境、個々の事情が積み重なって不登校につながっています。

——それでは、「不登校」という問題に対して、「学びの多様化学校」はどうあるべきだと思いますか?
上田:「不登校」という言葉のイメージから、人と関わるのが苦手なのだろう。だから、「オンラインで家で勉強させよう」「個別ブースで一人で勉強させよう」という発想になりがちだと思いますが、私は違和感があります。
――なぜですか?
上田:もちろん、個別対応で少しずつ気力を取り戻していくのは必要だと思いますが、それだけでは根本的な解決にはならないと考えています。
不登校を経験した子でも、「誰とも関わりたくない」と本心から思っている子は少ないのではないかと感じています。「関わりたいけど関われない」「誰かとつながっていたいけど、一歩踏み出せない」という矛盾した気持ちを抱えている。
だからこそ、学校で「自分を認めてくれる場」や「安心していられる人間関係」を経験することが必要と考えています。それは、個別の学びからだけでは、得られません。この学校で「対話」や「探究」などの協同の学びを重視するのはそのためです。
実際に、他の学びの多様化学校でも、個別ブースは、あまり使われていないと聞きます。場所はあっても、結局、子どもたちは、友達と集まって一緒に勉強することを選ぶようです。本質的には「誰かとつながりたい」という欲求が、子どもたちの元気の源なんだと思います。
「運転したことのない人が車を作っている」——文部科学省の官僚が教壇に立った理由
——そもそも上田さんは、どうして東京の文部科学省から玖珠町にやってきたんですか。
上田:文部科学省には、年に一人だけ全国の学校に派遣されて教員として研修を受けられる制度があるんです。選ばれた際、私は「東京から一番遠い場所にしてほしい」とお願いしました。
——なぜ遠くを希望されたんですか?
上田:以前、内閣府で地方創生の仕事をしていたときに、地方で面白い教育が生まれていることを知ったからです。都会だと規模が大きすぎて柔軟な取り組みが難しい部分もあるかもしれません。でも地方の小さな町なら、挑戦的なことができるかもしれないと。
それと——実は私、教員免許を持っていないんです。文部科学省って教員免許がなくても入れるんですよ。でも現場に立ったことのない人間が教育政策を作っているって、「運転したことのない人が車を作っている」ようなものじゃないかとずっと思っていて。だから一度は現場に行きたかった。

——それで手を上げて、運よく玖珠町に。
上田:もう「やった!」でしたね。中学校で英語の授業を担当したり、中1の副担任を任せてもらったりして。
ところが研修の途中で、教育委員会の梶原教育長から「不登校の問題があるから、学びの多様化学校を作ってくれないか」とお話をいただいたんです。そこから日中は中学校で教壇に立って、放課後から教育委員会でプロジェクトの業務にあたることになりました。
——それはハードですね。しかも当時、九州には前例がなかった。
上田:そうなんです。しかもプロジェクトを一緒に進めた教育委員会の方々は、地域に長く住んでいて、私よりはるかに経験豊か。私は、文部科学省の人間とはいえ、学校を建てたこともない、まったくの素人ですから。常に「申し訳ないな」と思いながらやってきました。でも皆さん本当に温かくて、「こうしたい」と伝えると快く力を貸してくださって。
教育長も覚悟がすごかった。「これができなきゃ自分は辞める」とまで言って進めてくれた。その熱量に背中を押されました。
——開校に向けて、まず何から始めたんですか。
上田:開校前、校長と決めたのは、「先生たちの”根っこ”を見つめ直すところから始めよう」ということでした。
公立校の先生は県単位で一括採用されて、人事異動でいろんな学校を回っていく仕組みです。「ここで働きたい」と希望して来てくれた先生も一部いましたが、大半は通常の異動で来た方々。当時は大分県にも九州にも「学びの多様化学校」はなかったので、どんな学校なのかも浸透していない状態でした。
だからまず、先生たちと徹底的に対話をしました。相手のことがわからないままだと疑心暗鬼になってしまいます。不安になると、人はつい自分の経験の引き出しから”できること”だけを取り出してしまう。それだと新しい教育スタイルはますます受け入れられない。
でも話していくと、「子どもたちが幸せに成長していってほしい」という思いは全員に共通していました。経験も価値観も違うけれど、ゴールは一緒だったんです。そこから、みんなが目指す方向性がまとまっていったと感じます。
——対話から始まるところが、この学校らしいですね。
上田:まさに「対話に始まり対話に終わる」です。
初年度はぶつかり合いもありました。例えば、新しい教育への強い思いを持って来てくれた若手の先生と、経験があるからこそ慎重に進めたいベテランの先生。そういう価値観の違いはどうしても出てきます。でも1年経つ頃には職員室の雰囲気もかなりまとまってきたと聞いています。
先生たちを”革命分子”として送り出す
——2年目の2025年度に入ってからのミッションは。
上田:学校設置を担った教育委員会が手を放し、先生たち主体で学校づくりを進めていけるようにすることです。私は、教育委員会の参事という立場をいただき、予算や生徒の受け入れ方針、研修、他校との連携など、行政的な後方支援を担っていました。
もう一つ大きなミッションが、まだ学校に来られていない子どもたちをどう支えるか。2024年度末の時点では、玖珠町全体で不登校の子どもは40人。この学校に通えていたのは20人で、残りの20人はまだどこにも通えていなかった。
——それは学校だけでは解決できない領域ですよね。
上田:そうです。不登校の問題は学校の中だけでなく、家庭の事情や貧困などの環境要因が複雑に絡み合っています。学校を変えることで通えるようになる子もいますが、そうじゃない子もたくさんいる。教員が家庭に深く踏み込むのは難しいので、福祉の力が必要です。
でも今の日本では学校と福祉の間に距離がある。そこで「多様な学び支援協議会」を立ち上げて、町内すべての学校の不登校支援担当の先生、社会福祉協議会の担当者、スクールソーシャルワーカー、スクールカウンセラーに同じテーブルについてもらいました。
それまで不登校生徒のリストがきちんと関係者に共有されていなかったんです。まず不登校の生徒を「見える化」するところから始めて、「この子の様子を見に行ってもらえますか」とお願いできる仕組みを作っていきました。
——卒業生のその後は把握されていますか。
上田:去年9人が卒業して、8人が高校に進学、1人が就職しました。入学当初は半分くらいしか進路の具体的な希望がなかったのが、この学校で過ごすうちに進学したい、就職したいという想いが膨らんでいったと聞いています。
ただ正直に言うと、高校に進んだ子の中には、今は少し学校に行きづらくなっている子もいると聞いています。この学校でできていたことが、環境が変わると難しくなってしまう現実もあります。

——それを聞くと、この学校だけ変わっても足りないということですよね。
上田:だからこそ、「学びの多様化学校」を全ての学校で実現する必要があるんです。公立校の先生はローテーションで入れ替わりますから、ここで経験を積んだ先生たちが異動でそれぞれの学校に移っていく。”革命分子”として、他の学校でも、生徒が安心して通えるための実践を進めてもらう。
「あの学校は特殊だから自分たちとは関係ない」。そう思われたら意味がありません。目指すべきは公教育全体の向上です。学びの多様化学校と通常の学校が交流しないと、真の多様な学びの実現にはつながりません。
そこで、2025年から玖珠町では、学校間の交流研修を始めていて、他の学校の先生がこちらに「ワンデーインターン」で来て1日過ごして、元の学校に戻って報告、実践する。逆もあります。こうした循環がないと、本当の意味で教育は変わっていかないと思っています。分断しては意味がない。
——地域の方々はどう関わっているんですか?
上田:地域の人達の協力がすごく大きかったんです。皆さん、自分のことのように捉えてくださいました。開校前、廃校だったこの場所を綺麗にしてくれたんです。校舎のグラウンドがボロボロだったんですけど、学校と地域をつなぐコーディネーターの方が、「やっとの思いで来てくれる子どもたちが落ち込んでしまう。綺麗な校舎で迎えてやらなきゃ」と、町中のいろんな人に声をかけてくれて。
建設会社の人がブルドーザーを持ってきてグラウンドを整備してくれたり、教室の清掃を手伝ってくれたり。全部無償のボランティアです。自分の子どもが不登校じゃなくても、隣の家の子や親戚の子がそうだったりして、なんとかせな、と思ってくださったようです。
音楽室のギターやドラムセットも全部、町の人からの寄付です。先日は町のジャズ演奏家を呼んで体育館で、子どもたちとセッションをしました。プロのボーカルの方も来てくれて。楽器の練習が楽しみで学校に来ている子もいると思います。

——学びの多様化学校を自分たちの町にも作ってほしいと思ったとき、私たちにもできることはあるんでしょうか。
上田:学校を設置するのは教育委員会なので、まずは「こういった学校を作ってほしい」と要望すること。ただ、いきなり教育委員会に行くのもハードルが高いですよね。
おすすめは「学校運営協議会」の活用です。地域住民や保護者などが学校運営に参画し、学校や教育委員会に意見を正式に届けられる仕組みです。保護者や地域委員が参加していることが多いので、まずは身近な委員の方や学校を通じて声を届けるのが現実的なアプローチだと思います。
あとはスクールソーシャルワーカーの存在も重要です。不登校の子の中には、学校や先生とのつながりが途切れてしまっているケースもあります。ソーシャルワーカーは家庭に入って直接子どもや保護者と接して、「こういう学校があるよ」と声をかけてくれる。玖珠町でも、ソーシャルワーカーが家庭に入って丁寧に関係を築いてくれたことで、ものすごく助かりました。
「どこにも”巨悪”なんていないんだよ」
——上田さんのお話を聞いていると、ずっと「ここにいていいんだ」と思える場所を作ろうとしてこられたのだなと感じます。その原点はどこにあるんですか。
上田:小5から中2まで、アメリカの学校に通っていました。印象に残っているのは、違いを認めて個人を尊重する姿勢が、日本に比べて非常に強かったことです。
中学のとき「ジャーナリズム」という選択授業がありました。アメリカは選択授業が豊富で、なんとなくかっこよさそうだと思って選んだら、新聞を作る授業だったんです。でも当時の私は英語がほとんどできなくて。取材に行くことになったのですが、何かしないといけないと思って、父のカメラを持って行って、取材相手が何を言っているかもわからないまま写真だけ撮って帰りました。
新聞作りの課題で、写真だけ提出したのは私だけだったので怒られると思ったら、先生が「リック!」と、私のニックネームを呼んでこう言ってくれたのです。「君の写真は素晴らしい。これを見ると相手がどんな気持ちかよく伝わってくる。これこそがジャーナリズムだよ」と。その時、できないことがあっても、得意なことで認めてもらえるのだと強く感じました。
少年野球でも、チームに15人いたら全員がバッターボックスに立つんです。日本では中1は素振りだけ、中2からようやくボールを持てるという世界ですけど、アメリカでは「試合に出てみないと実力はわからない。全員に平等にトライする権利がある」と。私は15番からスタートして、最終的に4番を任せてもらいました。外国人で言葉もわからない自分にも平等にチャンスをくれた。
——日本に戻って、違いを感じましたか。
上田:日本で野球部に入ったら、ナイキのスパイクを履いていただけで「生意気だ」と言われ、白いグローブは「白はダメ」と。練習も楽しくなくて、野球はやめました。
そういう経験を通じて「多様性を認める」ということを肌で感じることが多かったです。高校では放送部に入ってドキュメンタリーを作り、外国にルーツのある子どもたちの教育問題を取材しました。そこから教育への関心が一気に強くなって、大学で教育学を学んで、文部科学省に入りました。

——なぜ文部科学省を選んだんですか。教育に関わる方法は他にもありますよね。
上田:システムそのものを変えなきゃどうにもならない、と思っていたからです。土俵ごとひっくり返す必要があると。
学生時代の私はすごく生意気で、「文部科学省はけしからん」と本気で思ってたんですよ(笑)。インターンで偉い人に噛みついて、「文部科学省はここを変えたほうがいいと思います」とか、平気で言っていました。完全に正義のヒーロー気取りです。今思うと穴があったら入りたい。
でも当時の上司がこう言ってくれたんです。
「上田くん、どこにも”巨悪”なんていないんだよ」
——巨悪はない……。
上田:そう。私はそれまで「文部科学省の中に悪い人がいて、その人が教育をダメにしている。その人が変われば良くなる」と本気で思っていました。でも入ってみたら全然違った。誰も「今のままでいい」なんて思っていないし、みんな「子どもたちがよくなってほしい」と本気で思ってる。ただ、巨大なシステムの中で、なかなか急に変えるのは難しい部分がある。
よく「誰が悪いんですか? 校長? 教育委員会? 文部科学省?」と聞かれるんですけど、誰も悪くないんです。みんな一生懸命やっている。誰か一人の鶴の一声で変えられるものでもない。長い歴史や慣習を、人と人との関わりの中でみんなで少しずつ動かしていくしかない。それがわかったとき、「巨悪はない」と言った上司の言葉が、すとんと腑に落ちました。
——私もどちらかというと「上の偉い人たちが何もしないから変わらないんでしょ」と思っていたんです。でも今話を聞いて、自分にも責任があるのかもしれないと。
上田:同期を見ていても、昔のいわゆる「エリート官僚」というイメージとは全然違うんですよ。学校でボランティアをしてたとか、NPOをやっていたとか、「教育が好き」「子どもが好き」で入ってきた人たちばかり。発想も柔軟だし、みんな本当にいい人です。
―なんでもかんでも「上まかせ」にしている私たちにも、できることがあるのかもしれないですね。少なくとも、今日取材にきて、学びの多様化学校という存在があることを知りました。先ほどの学校への働きかけも、子どものいる友人たちに伝えていきたいと思います。
上田:国としては学びの多様化学校を全国に300校作る目標を掲げていますが、私は1,000校くらいまで増えたらいいなと思っています。1,000校あれば、教員のローテーションの中でどの先生も一度はこの種の学校を経験する。経験と価値観が循環していくんです。更に、生徒や保護者にとっても、マイナーな選択肢ではなくなる。学びの多様化が公教育全体に広がっていく起爆剤になると思います。
私は「不登校であること」自体が悪いことだとは全く思っていません。大事なのは、それを社会の問題としてどう捉えるか。
いろんなところに足を運んで、少しでも多くの人に「不登校は問題ではない。教育の在り方そのものを、私たちみんなで考える必要があるんだ」とメッセージを届けていけたらと思っています。
執筆/菜津紀
撮影・編集/佐藤 友美
上田 椋也(うえだ りょうや)
1996年静岡県浜松市生まれ。文部科学省職員。小・中学校の5年間をアメリカで過ごし、多様性を包摂する教育に関心を持つ。2019年にオランダにてイエナプランの現地研修を経験し、同年に文部科学省入省。2023年より大分県玖珠町に派遣され、中学校教員として勤務しながら、九州初の公立学びの多様化学校「くす若草小中学校」の設立を推進。2025年の帰任後も、生駒市学びの多様化学校設立準備検討会委員など、全国の市町村で学びの多様化に向けた講演や助言を行っている。
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