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「縁結び」の反対は「縁切り」ではなくて。【連載・聖の言葉と俗を生きる/第3回】

キャリアコンサルタントであり、山伏であり、真言宗の僧侶でもある、清乃(きよの)。俗と聖を往復しながら見つけた、人生の「道」を照らす言葉を届けます。

「パートナーと別れた後も、連絡を取る? 取らない?」
と聞かれたら、私は迷わず「取らない派」でした。 引き続き連絡を取れる仲なら、別れる必要なんてないじゃないか。それが長いこと、ベースにあった考え方です。
なお、二度、離婚を経験しているけれど、元夫とは連絡を取っていません。お相手の幸せは願っているけれど、一切会わない。SNSも何も、繋がらない。それが互いへの誠実さを示す別れ方だと思っていたのです。

一方で、昔から「人間関係のお掃除をする」という表現が好きになれませんでした。 掃除される側になった自分を想像すると、のどの奥がキュっと締め付けられる。お掃除の末に捨てられて、黒いゴミ袋から頭だけピョッコリ出す私。「『人』とか『関係』って、そんなにあっさり切れるものなの?」とグジグジ涙をこぼす絵が浮かぶと、笑ってしまうけれど……とっても惨め。自分は「きっぱり切るのが誠実さだ」とか言っているクセに。なんとも身勝手なものです。

振り返れば、人生でたくさんの縁切りを体験してきました。
パートナーに限らず、なんとなく気まずくなって離れた友人や、距離ができてしまったコミュニティ。ビジネス現場でのチーム崩壊も経験しています。
ともに過ごした時間が充実していたほど、笑いあった時間が多いほど、目指したゴールに満ちていた希望が美しいほど、切れた痛みはジクジクと赤黒く残る。それは、切った側でも切られた側でも、あまり変わらないのです。
人生も後半戦、と言える年齢に差しかかり、できるなら、今後の人生で「切る」痛みは経験したくないのだ!
「歩む道が違えば、切れてしまうのは当たり前のこと」というのは頭ではよくわかるけれど、気持ちが追い付かないのだ!
とグジグジいう私の心をふわっと包んでくれる言葉に、実は最近、出会えたのです。

私がお世話になっている山形県出羽三山の山伏修行では、和紙や紐を結んでつくられた「注連(しめ)」を首から下げます。修行者の身を守る結界の象徴で、修行中はずっと身に着けておきます。
その注連を手作りしたくて、「結び」の研究家の方に教えを請いに行ったある日。美しく複雑な結びの作品の数々を見せてもらいながら、こんな話を聞いたのです。

「結びというのはね、解くために結ぶんですよ」

「結び」は、意識しはじめるといろいろなところで見かけることができます。
のし袋の水引や神社の神具や御簾。お守り袋に見られる飾り結びに、相撲の土俵のつり屋根から下がる四色の房。

茶道では、茶入れという器を包む袋の紐を美しく、かつほどきやすく結ぶのだといいます。それは「まだ解かれていない」証明であり、戦国時代などでは「こっそり開封して毒をもられていない」というささやかな封印であったとも。いつか解かれることを前提に、もてなしの気持ちも込めながら、丁寧に結ばれるのです。

——解くために、結ぶ。
その言葉がしばらく、頭の中でくるくると回り続けました。

日本語の「結ぶ(むすぶ)」は、古代の「むすひ(産霊)」という言葉に遡ります。「何かと何かがむすびつくことで、新しい命や力が生まれる」という宇宙の働きを指す言葉で、古事記の冒頭に登場する最初の神々の名前にも、この「むすひ」の音が入っています。「結ぶ」という行為には、ただくっつける以上の意味がある。何かが生まれる、という予感が漂う言葉なのです。

「縁結び」の対義語として、私たちは「縁切り」という言葉を使いますよね。ただし、もともと縁切りは「病気との縁を切る」「悪運を断ち切る」という祈願の言葉だったようです。「縁切り」が今のように「人間関係の断絶」として定着したのは、江戸時代以降という説があります。思ったよりずっと新しい使い方です。
とくに、女性から離婚を申し出るのが難しかった時代において、鎌倉の東慶寺を代表とする「縁切り寺」は救いの場だったとか。

もちろん現代でも、「切る」方がいい縁もあります。その前提で、「縁結び」の反対は、「縁切り」ではない、と私は考えることにしました。「縁ほどき」――縁の形が変わることをイメージして、そう名付けてみたのです。

パートナー、友人、職場の人、親子でさえも。 長い時間をかけて結んだ縁が、切れたように感じることがあります。引越し、転職、病気、死。あるいはただ、時間の流れによって。お互いの人生の過程が進み、理由も言えないまま、気づいたら疎遠になっていた、ということもあります。以前の私はそんなとき、喪失の痛みを感じていました。

でも、今は思う。縁はほどけたのだ、と。切れたのではなく、ほどけた。互いに過ごした時間も、笑いも、涙も、消えてはいない。それぞれが一本の紐に戻って、また別の誰かと、別のものを結んでいる。

私たちは、一本の紐のようなもの。誰かと出会い、結ばれ、何かを生み、またほどけて。切れてしまったら、紐である私はそのたびに、どんどん短くなっていくけれど、切らずにほどけば、長いまま。また、結べる。
これからの人生の、私なりの指針です。

文/渡辺 清乃

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