
「直会(なおらい)」とは、非日常と日常を繋ぐ言葉 【連載・聖の言葉と俗を生きる/第2回】
キャリアコンサルタントであり、山伏であり、真言宗の僧侶でもある、清乃(きよの)。俗と聖を往復しながら見つけた、人生の「道」を照らす言葉を届けます。
かけもち介護をしている友人がいます。
施設に入っている親族と、在宅の親族。
定期的にそれぞれの顔を見に行き、お世話をする日々なのだとか。
認知症が進むご親族との時間は、なかなかに目まぐるしい。
30年以上前の恋バナを延々としたかと思うと、今現在の話に飛んだ…と思うと実は妄想ワールドだった、なんてことはザラらしく。
友人が帰ろうとすれば、「帰ってしまう瞬間が寂しいから、もう来ないで」とサメザメ泣く、かと思えばとたんに表情がスンと冷め、「どうせこの気持ちも、あなたが帰ってしばらくしたら、忘れてしまうのよね」と、えらく正気なコメントにドキッとさせられたり。
介護未満の生活を送る私としては、考えさせられる話をたくさん聞かせてもらいました。
でも、もっと私の心をとらえたのは、友人のこの一言。
「帰り道、すぐ家に帰る気になれなくてさ、必ずスーパーに寄って帰るのよ。現実にちゃんと戻らなきゃ、と思ってさ」
あの世に近い人たちとの時間を終えた後、自分の日常に着地するための、繋ぎの時間。それが彼女にとっては、スーパー巡りだというのです。
「お値打ち!」「●%割引」とデカデカ描かれた赤や黄色のポップ。
山積みになった砂糖たっぷりのお菓子。
オレンジ色の光に照らされて、「パワーつけましょ!」と手招くコロッケや唐揚げ。 確かにスーパーは、欲に彩られた「The 俗世間」ワールドといえなくもない。
「今夜は何食べようかなー、と思いながら売り場を歩いてから帰ると、まあ、着地できるのよね」と、彼女はつぶやいた。
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「直会(なおらい)」と呼ばれる酒食の席があります。神事やお祭り、修行の後に行われる食事儀礼のことです。原初は、神に供えた品々を飲み食いすることで神の力を身体に蓄え現世に戻る、という「着地儀礼」の意味がありました。語源は「なおりあい」=「元に戻り合う」です。
加えて直会は、祭りや修行という非日常(ハレ)をともにした仲間との日常(ケ)の人間関係を結ぶ場、としても機能してきました。ただの打ち上げではありません。非日常で張り詰めた心身を、ゆるやかに日常へと着地させる儀式なのです。
もちろん、私も例外なく。
山伏修行を終え里に降りると、直会へと流れます。直会では、修行中は避けている魚やお酒もふるまわれます。
介護の帰り道に友人がスーパーに立ち寄るのは、似たところがあるような気がしました。非日常で変性した感覚を、コロッケや唐揚げの並ぶ現実にちゃんと着地させる。食欲という、もっとも原始的な「生きている」感覚に触れることで、彼女の身体は日常生活に実感を持って戻ることができる。直会と役割が一緒だな、と。
なお、かつては修行から俗世に戻るのには「色」も使われていたようで。山伏の師匠から聞いた話によると、庶民に巡礼が広がった江戸時代、山の麓には色街があったそうです。
ちなみに、私が山に入るようになる前、2010年頃はまだ、男性だけの行場(ぎょうば)だと直会で艶っぽい歌を歌って踊るような楽しみ方もあったらしく。私は体験したことがないですけれどね。
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4月から、新しい環境に飛び込んだ人も多いでしょう。緊張の連続だった春を越えて、ゴールデンウィークにパーッと遊んで。そしてまた、日常が戻る。
非日常の後は、日常へのやわらかな着地が必要です。
でも、慌ただしい現代を生きる私たちは、非日常から日常へ、何のクッションもなくいきなり戻ろうとしてしまいます。そして、うまく戻れずに疲れを引きずったり、モチベーションが上がらなかったりする。
そんなときは、「終わり」と「始まり」を繋ぐ、直会の知恵を借りない手はありません。
仕事終わりに必ず寄るカフェ。
家に帰る前のジム。
翌日からの仕事に備えて、休日の夜、一人静かに読む本。
スマホだけを持って、ぷらぷらあてどなく歩く時間。
五感を刺激する、心身が着地できる何かを。
「非日常から日常への橋渡し」がスムーズだと、非日常で得たエネルギーを日常に持ち込むことができます。なお、山伏修行には、山の修行で得たエネルギーを里に降りてからの生活で活かす、という考え方があります。それぞれを地続きとして生きることが必要なのです。
たっぷり休めた方も、ずっとお仕事だった方も(おつかれさまです)。
眩い新緑のように、5月もイキイキいきましょ!
文/渡辺 清乃
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