
今、いちばん、したいこと【さとゆみの今日もコレカラ/020】
その日感じたことを綴るよりも、その日起こった出来事を書くよりも、その日をありありと思い出せる記録がある。
家計簿だ。
何を買ったかを眺めていると、どこで誰と会い、何を話したかまでするすると思い出す。
たとえばその日は、春巻の皮、もずく酢、カニカマとあって、コーヒー豆を補充している。ライター仲間が家に遊びにきた日だと気づく。
4歳の女の子と一緒に春巻きを作った。揚げたてが美味しいよと言ったら、彼女は春巻きを運びながら、「お話も楽しいかもしれないけれど、ゆみちゃんが、あたたかいうちに食べてねと言ってるよ」と伝言してくれ、その翻訳力の高さに驚いた。さすが、日本を代表するライターの娘さんと思った日だ。
単語を残しておくだけでもよいのが、文章表現の楽なところだ。
絶世の美女と書けば、誰もがそれぞれの美女を想起してくれる。映像ではこうはいかない。
感動したと書けば、みな自分の感動と照らし合わせてくれる。映像で感動を描くのは至難の業だが、文章では安易に転べる。
家計簿の春巻のように、個々の記憶のトリガーに頼れば、文章はどこまでも適当に書ける。
だけど、ほんとうに豊かな文章は、読者にそれを委ねない。
「春の朝日、最高か!」と書き、それぞれの脳内に浮かぶ一番綺麗な朝日の映像に頼ることもできる。
しかし、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」によって、まぶたの裏に展開する映像の豊潤さよ。
シチュエーションを限定すればするほど、同じ経験をした人はいなくなるはずなのに、それぞれのあけぼのが鮮やかに立ち上がる。清少納言の筆
が、私たちの記憶にあるものと記憶にないものを混ぜこぜにして、今まで見たことのないあけぼのを見せてくれる。
それは、いわば、合作だ。優れた文章は、限定に限定を尽くした表現で、読む人の記憶をかき回し、百人百様の映像を立ち上がらせる。別の日に読むとまた違う感想を抱くのも、文章は書くものと読むものの合作だからだ。
コラボレーション。
したい。

