
大好きだけど愛してない【さとゆみの今日もコレカラ/第 104 回】
自分に扱える言葉は限られている。言葉として認知していても、使える言葉と使えない言葉がある。
たとえば私は恋人に、大好きということはあっても愛しているとは言えたことがない。愛しているという経験を身体が知覚していないので、口に出そうとすると喉の下のあたりで言葉がつまる。私にはまだ扱えないタイプの言葉なのだ。
親に対しても、愛しているは使えない。大切とか大事とかいう言葉の方がしっくりくる。
子どもに対しては、あきらかに恋人や親に抱く感情とは違う感情がある気がする。ひょっとしたらこれが愛しているなのかもしれない。まだよくわからない。もう少しこの感じを味わい他の言葉で代替できないと思ったら、「愛している」が、私の辞書の中で使えるほうの言葉になるのかもしれない。
私にとって、自分の”身体”が経験していない言葉を使うことは、サイズの合わない服を着るくらい難しい。
びっくりしたり驚いたりすることはあるけれど、衝撃を受けることは、あまりない。
感動することはあるけれど、感銘を受けた経験は人生で多分数回しかないと思う。
以前、私の弟を知る人から、「さとゆみさんの弟はさとゆみさんのことを、『信頼できる人だけれど、信用はできない』と言ってました」と聞いたことがある。身体性を伴った説得力のある言葉だなあと思って吹き出してしまった。私も、自分のことを非常に信頼しているが、信用はしていない。
そういえば新年の広告だったろうか。「読売新聞を信じてもいいですか」というコピーがあった。あれは、本当に「信じる」を使ってよい場面だろうか。あるメディアやその信条を「信じる」という行為は、新聞が担ってきた真実の追 求という命題に対して矛盾するのではないかという気がする。言葉を選ぶとしたら、信じるではなく、信頼するではないだろうか。believe と trust は、違う。
かように、言葉はおもしろく、ままならず、手に負えなくて、かなり長年愛している。
(いま、すらっと書いて驚いたけれど、そうかこれが愛しているという感覚なのかもしれない)
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そもそも僕、「赤字を入れる」という表現が好きじゃなくて。「赤」っていうのが嫌ですよね。赤点みたいな、ネガティブな印象がある。少なくとも、自分が 入れる赤字は、なるべく血の通った「赤」として受け取って欲しいなって思っています。


