
ほっちゃれと雨の日文庫【さとゆみの今日もコレカラ/003】
私が生まれた北海道の知床半島では、8月になると鮭が産卵のために遡上する。川面は重なり合う鮭の背で真っ黒だ。激しく尾をふり急勾配を前進するのだが、1分間に 10 センチも進んでいるだろうか。
久しぶりに帰省しその光景を見たとき、私のお腹の中には子どもがいた。
つくづく人間でよかったと思った。どんなに出産がきつかろうと、この鮭たちよりはマシだろう。
産卵後の鮭は誰からも見向きされない。地元の人たちはボロボロに傷ついたそれらを「ほっちゃれ」と呼ぶ。食べてもマズいから放っておけ、の意味 だ。取り付く島もない言葉。
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幼稚園のとき、お気に入りの物語に出逢った。雨の日文庫という書籍に収録された、米粒が主役の話だ。うろ覚えなのだが、こんな話。
主人公と仲間の米粒たちは、幸せな家庭の幸せな人に食べられることを楽しみにしながら、自分の出番を待っている。
しかし、主人公の米粒がたどり着いたのは貧しい老婆の家だった。このおばあちゃんの栄養になるならと米粒が気を取り直したのも束の間、目が悪い老婆がお米を研いでいるときに、米粒は水で流されてしまう。結局誰の口に入ることもなく、彼は排水溝に消えていく。
読み聞かせをしてくれた母は結末に呆然としていたし、教師の父は「こんな身も蓋もない話をなぜ子ども向けの文庫に?」と憤慨していた。
が、私はこの話が大好きで、繰り返し読んだ。「理不尽」という概念の発見に興奮したのだと思う。そうか、大抵のことは自分の意志と無関係にうまくいかないのだなと、5歳の少女は知った。
それは残念というより、むしろホッとする感覚だった。所詮自分ができることに限りがあるなら、何をやってもそれほど大差ない。好きにやれば良いってことか。そんな感じ。
人間は米粒よりマシだと思った。米よりは自由が効く。少し有利。
私はよく、ポジティブだと言われる。それはきっと、重なり合う鮭と排水溝に流される米粒の映像が脳裏にあるからだ。楽観ではなく悲観が私を軽くする。
今のところ、圧倒的に人間でよかったと思って生きている。


