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あの桜。誰との桜。【さとゆみの今日もコレカラ/第 157 回】

目黒川の桜は、もう満開を越していた。今年の桜はいつ咲くのだろうと思いながら、せめて爪だけはと桜色にしたのだけれど、その帰り道に川沿いを歩いたらものすごい人で驚いた。

ああもう、こんなに咲いていたんだね、と知る。

桜ほど、記憶を喚起する花はない。区切りのある花だから、死生観と繋がっているのだろう。桜を見るたびに、来年も生きて桜を見ているのかなと考えてしまう。私の命の話だけではなく。

臨月のお腹で見上げた桜。あれは、東日本大震災の年だった。切迫早産の外出禁止がとけて、最初にしたのが選挙に行くことだった。笄小学校に向かう道すがら桜を見上げ、来年はこのお腹の子と見る桜だなと思った。

満開の桜を見ながらお酒を飲もうと話していた日に、雪が降ったこともあった。最初の緊急事態宣言が出る直前だった。大粒の雪の白が、薄紅の花にのしかかり、枝がしなっていた。コロナの年の幕開けだった。

京都は夜の枝垂れ桜。見事にライトアップされた枝垂れ桜とは別に、1本だけとても心を惹かれる大木があって、写真を撮ろうとした瞬間にデジャブに襲われた。昔、ここに来たことがあったと、思い出したのだ。母に連絡を取ると、はたして同じ場所で映した家族写真が出てきた。

賑わう目黒川をのんびりと歩いていたら、いろんな記憶が蘇ってくる。一人で見た桜。二人で見た桜。仲間と見た桜。誰かを想いながら一人で見た桜。

美味しいお酒が飲みたくなって、近くに住む友人を誘った。気前よく付き合ってくれた友人とワイン3杯目になるころには、切ない気持ちは霧消していて、視覚優位な人の記憶と聴覚優位な人の記憶の違いについての興味深い話を聞いていた。

私は映画のフィルムをまわすように、その場の映像を記憶する。何年か後に取り出すときもやはり、映像で取り出す。あの桜、この桜、隣にいた人がシャッターを切ったときの指の形、それを見ていた人の視線の先。

今年はあと何度、桜の木を見上げるだろう。来年は誰と桜を見ているだろ う。そんなことを考えながら家に戻ってきたら、マンションの前の桜の木も満開だった。このベランダから見下ろす桜も、あと幾年。

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どの詩も、こんな感じなのだ。私の記憶がリロードされ、心のひだがゆさぶられる。

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