
耳なし芳一の恐怖【さとゆみの今日もコレカラ/第305回】
耳なし芳一の話をしたい。
25年前のことだ。
その日私は、新宿の雑踏の中で声をかけられた。ちょうど今ごろの季節だ
ったと思う。
「あれ、テレビマンユニオンの子?この間、会社で見かけたよ」
顔をあげると、顔の綺麗な30代後半と思われる男性がいた。
私は春にテレビ制作会社に就職したばかりで、その日は撮影に必要な備品を買い出すために新宿にいて、かれこれ20時だし荷物も重いし電車乗るの嫌だな、タクシー使ったら経費で落ちるかななどと考えていたところだった。
新人だから、毎日のように名刺交換している。どこでお会いした人だったか……。忙しく脳内検索していると、その人は自分のほうから名を名乗り「今日、このあとテレビマンユニオンの○○さんと飲むんだよ。一緒にどう?」と言われた。
私はその世界に疎いのだが、その人は紅白歌合戦にも出たことのあるバンドのドラマーだという。私でさえそのバンドの名前と代表曲を何曲か知っていた。
突然話しかけられた私が、先輩のお知り合い、しかも芸能人に失礼があってはならないとあたふたしているうちに、その人は「いま、おたくの会社の子とばったり会って。その子も誘ったけど、いいよね」と、先輩に電話をしていた。
「○○さん、1時間くらい遅れるみたいだから、ちょっと時間潰して待ってよう」と言われ、素直についていった先はカラオケだった。
どうしてテレビの業界に?どの番組についてるの?田舎はどこ?ご家族は?なんて質問をされ、私は面接を受けているような心持ちで真面目に答えた。あとで、お前のところの新人、感じ悪かったぞと言われないように。そればかり考えていた。
ひとしきりおしゃべりしたところで、私たちは曲を入れ何曲か歌った。当たり前だけど、めちゃくちゃ歌が上手く、リクエストしたら紅白でも演奏した曲を歌ってくれ、それはボーカルの人が歌うその曲とはまた違った雰囲気で、すごく色っぽくてカッコよくて、ぽーっとなった。プロってすごい。
先輩は、なかなかこない。「遅いですねえ」と私が言ったら、その人が「そうだ、俺、手相が見れるんだよ」と言い出して、私の手をみはじめた。それまで楽しい雰囲気だったのだが、手相を見始めてから彼の顔はどんどん険しくなっていった。そして、突然「お母さんは、元気?」と言われる。「はい、元気ですけれど」と答えると、「ゆみちゃん、大変だ。お母さん、今年命に関わる大病をするよ」と真剣な声で言ってくる。私はびっくりして、「え?何の病気ですか?」と聞くと、その人は何かを探し当てるかのように私の手を両手で挟んで目を閉じた。
「脳じゃないな……これは、心臓……かな」。そう言われて、ドキッとする。「俺、そういうの、見えちゃうんだよね」と言う。
どうすればいいのですか?と聞くと、その人はお祓いをしたほうがいいと言う。それは神社に行くとか?と聞いたら、それもいいけど、ある程度までなら僕もお祓いできるからやってあげようか?と言われる。お願いしますと答えると、その人は「体にお経を書くんだよね」と言う。
お経……?
ぽかんとした私に、そう、お経。筆で、体にお経を書くの。でも、ここじゃできないから、場所を変えないとだね。
そう言って、彼は伝票を持ってお会計に立とうとした。
体にお経……?
体にお経……?
いやいやいやいやいやいやいやいや!
それ絶対おかしいやつやん!!!!!!!
お前は耳なし芳一か!!!!!!
「あ、大丈夫です」と私がいうと、彼は驚いたように「大丈夫って?」と聞いてくる。いや、お経大丈夫ですというと、「お母さん、キミのせいで死んでもいいの?」と畳み掛けてくる。いや、でも……と下を向いていると「キミさあ、この業界で僕の言うことに逆らって、明日から仕事できると思わないほうがいいよ」と凄まれた。そして、そういう業界なんだよ。キミの先輩だってわかってるから、今、僕とキミを一緒に飲ませてるわけでしょと言う。
彼は、私の腕をつかんで、カラオケを出ようとする。私は脳をフル回転させた。
外に出て、彼がホテルを予約しようとしたのだろうか、私の腕を離してケータイに手を伸ばした瞬間、私史上ありったけの全速力で、逃げた。紙袋に入っていた荷物は重かったけれど、でも、人通りの多い方に走って逃げて、サラリーマンの集団につっこんで「すみません、助けてください」と叫んだ。その人は途中まで追いかけてきていたけれど、諦めたみたいだった。
怖くて怖くて、タクシーに乗ったあと、ガタガタと震えがきた。
少し落ち着いてきたら、先輩の仕事相手を振り切って逃げるなんて、私はなんてことをしたのだろう。会社に迷惑をかけることになったらどうしよう。就職したばかりなのに、この業界を干されたら、クビになったら私はどうやって生きていこうと怖くなった。
それで、当時の私たちの指導先輩であった、是枝裕和さんのケータイに電話をかけた。是枝さんはひとしきり話を聞いてくれたあと、「それ、多分、本人じゃないと思うよ」と言った。「いやでも、その人、私がテレビマンユニオンの人間だって知ってたんですよ。社長の名前も、プロデューサーの名前も出していました」と言って、ハッとした。私、テレビマンユニオンとイマジカの紙袋を持って歩いていた。私のバカ!名札をつけて歩いているようなもんじゃないか!それに、社長もプロデューサーも有名人で、よくメディアに出ている。知っている人がいても不思議じゃない。
是枝さんは、こうも言った。「たとえ本人だったとしても、うちの社員をクビにしたり業界から干したりできないから。タモリさんでもさんまさんでも、そんなことできないから」と言われ、ああそうなんだ。タモリさんでも制作会社の社員をクビにすることはできないんだ……と、なんだか肩の力がどっと抜けた。 「怖かったと思うけれど、この先何かあるとは思えないから。無事だったなら、今日は家に帰ってゆっくり寝て。明日また、詳しく聞くね」
そう言われ、私は弟と一緒に住む家に帰った。
次の日、私は副社長にことの顛末を報告し、通常業務に戻った。
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先日、ある女性がX(旧Twitter)で、個人投資家の男性に「愛人になったら投資してあげる」と言われたという内容のポストをしていた。
そのポストに対して、うちの業界にそんな男がいるはずないとか、そんなことをしていたらすぐに噂になって業界にいられなくなるはずだ、この女の話は本当かなどと書いている男性がいて、この話を思い出した。
このポストの件の真偽は私にはわからないけれど、その後の人生においても、耳なし芳一野郎は、いろんな場所にいた。この人と揉めて大丈夫だろうかと思うこともあったし、そういう脅され方をしたこともある。後輩から相談を受けたことも何度もある。
私は逃げることができたから、その件を先輩に相談できた。でも、タクシーの中で「私のほうが悪かったのかもしれない」「干されるかもしれない」とガタガタ震えていた私のように、声に出せない人もいるかもしれない。
おかしいのは、あなたではなく、耳なし芳一のほうです。
おかしいと思ったら、一人で抱え込まずに、信頼できる人に相談してね。
✳︎「今日もコレカラ」は毎朝7時に更新し、24時間で消滅します。今日もこれから良い一日を。


