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あの日あの時この場所で【さとゆみの今日もコレカラ/第499回】

金沢についたら、思ったよりも暖かった。ホテルにチェックインして時計を見ると22時半。3秒だけ迷ったけれど、バッグに本を入れ、ホテルを出た。

新幹線の中で調べたバーにたどり着く。訪れる人を拒むような重い扉を開くと、一瞬、鏡張りの部屋に入ったのかと思った。何本あるのだろう。シングルモルトだけを置くというその店は、端から端までぎっしりとボトルが並んでいて、光に反射してキラキラとしている。

バーカウンターの奥行きが広い。こんなゆったりとしたバー、なかなかなないなと思って、ああここは金沢だと思い出す。

「ものすごい量ですね」とマスターに声をかけると、「なんだかんだと集まってしまいましたねえ。土地だけはありますから」とおっしゃる。考えていたことを読まれたようだ。「出張ですか?」と聞かれた。

アイラのお酒を尋ねると、強くてもよければラフロイグのシングルバッジでおすすめがあると教えてくれる。カスクストレングス、58度。ぜひそれでと伝えると、「最後だったので」と、多めの量を注いでくれた。

ビールは誰かと乾杯するため、ワインは誰かとおしゃべりをするため。

でも、ウィスキーは、自分のために飲むお酒だなと思う。

ひと口含むと、かっと口の中が熱くなる。喉に通す前に、ゆっくりと舌の上でその液体を飼い慣らす。おそるおそるその異物を時間をかけて体に取り込む。ウィスキーの通り道が順に焼けていくから、自分の喉の形がわかる。数分後、その異物は、自分の一部になっている。もうそれは異物ではない。いつも思うけれど、色っぽい体験だなと思う。

今日はいい天気でしたとマスターが言う。

そうだったんですか? と聞くと、石川県は47都道府県で一番雨の日が多い県なんです。

だから地元の人は、曇りだったら「晴れている」と言います。晴れている日は「太陽が出ている」と言います。

アイラ島と同じですね。行ったことがありますと伝えると、僕もスコットランド人から、「金沢とスコットランドは天気が似ている」と言われたことがありますよとマスターが教えてくれた。

バッグの中から、本を取り出す。

金沢に向かう時、そうだ、堀さんの本を持っていこうと思った。昨日、郵便受けに入っていた『父の恋人、母の喉仏』。封をあけると「著者謹呈」とあった。

この一年で一番多くの夜をご一緒した、京都の日本酒サロン「粋」の店主、堀香織さんのデビューエッセイ。彼女がこの本を書いている間に何度もメッセージのやりとりをしていたから、そして何度もこの本についての話を聞いてきたから、それが金沢の物語であることを知っていた。

ページをめくると、ああ土地の匂いがすると思う。

先にこの文章を読んでいたライターの大越さんが、「金沢の雪景色が見えた」と言っていた。堀さんの文章は冬の文章だ、とも。

ここに書かれている出来事は、この土地で起こった出来事なのだなあと、私は彼女の幼少期に思いを馳せる。あの朗らかででもどこか影のある、しかしねじれていない、私が大好きな彼女の人格は、ここで育まれたのだなあと考える。

しばらくページをくったあとに目をあげると、ボトルが並ぶ空間にいた。ああ、そうだ。ここはバーだったと思う。そして、明日の仕事のことを考える。

「ここも揺れましたか?」と聞くと、「震度5強でした」と、マスター。

ただ、幸い、ここのボトルは1本も割れなくて。バッグヤードにあったのが、何本かやられたと言う。

一番高かったのは、67年のスコッチでした。一度も誰かの口に入ることなく、床のシミになってしまいましたねと彼は笑う。

そしてずらりと並ぶボトルの中から、1本を取り出し私の前に置いた。

スペイサイドのキャパドニック22年。ボトルの底部分の分厚いガラスが大きく欠けている。あと少しで割れていただろう。震災を生き延びた1本。すでに3分の2くらいは飲まれている。

「日本人は、こういう酒を傷物といって安く出すだろう? 俺たちは、こういうボトルはラッキーボトルと言って、逆に高く出すんだ」

海外からきたお客さまに、そう言われたことがあると、マスターが話してくれた。

せっかくだからラッキーボトルを飲んでみたかったけれど、2杯目にいくと、疲れが残るだろう。

本を閉じて、お会計をお願いする。

帰りぎわ、ひとつくしゃみが出た。花粉ですか? と聞かれたので、そうだと答える。「明日は黄砂が降るので、マスクを忘れずに。花粉症の人は悪化しやすいです」と言われた。

お礼を言って、店を出る。

入口の重い扉は、帰りは、マスターが開けてくれた。

明日は輪島で取材だ。

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