娘を信用する。そう決めた時、嘘のバリアは決壊した。『ぼくらは嘘でつながっている。』(リレー連載2日目)
日々言葉と向き合っている書き手の4人が、浅生鴨氏の最新作『ぼくらは嘘でつながっている。』(ダイヤモンド社)を読みました。言葉を大切にしたい「書き手」だからこそ、この本を読んで、モヤったこと、疑問に思ったこと、発見したことを、4日連続でお届けします。(本日は2日目です)
人生で初めて「嘘をつかれた」ときの記憶はあるだろうか。
私ははっきりと覚えている。
些細だが、いまの思考に影響する、ある種トラウマになっている。
小学2年生の私は、仲の良かったAちゃんと放課後遊ぶ約束をしていた。下校時、「Aちゃんは体調不良で今日は遊べなくなった」とBちゃんが伝えに来た。なのでその日は誰とも遊ばなかった。
翌日登校すると、昨日はAちゃんとBちゃんが一緒に遊んだらしいことがわかった。私がそれを察したことに気づいたのか、「そんなこともあるよね」とBちゃんは謎のフォローを入れてきた。
Aちゃんとは喧嘩をしたわけでもないし、私が一方的に傷つけたわけでもなさそうだった。私と遊んでもつまらないから、私を嫌いだから嘘をついたんだ、と思った。「人は嫌いな人に嘘をつく」と思い込むようになった。
それ以降も、今も覚えている嘘がいくつかある。非喫煙者であると言っていた彼は、本当はずっと喫煙していた。慕っていた先輩が、実は私が早く退職するよう仕向けていた。
嘘をつかれるたびに、相手にとって自分は本心を言うに値しない、信用できない人間だったと言われているようで悲しくなった。次第に嘘をつく人、つきそうな人を避けるようになった。
「信用して欲しい人に嘘はつかない」
「嘘をつかないほうが人に信用してもらえる」
「嘘をついたっていいことはない」
「いつか嘘は自分に返ってくる」。
こんなことを公言し、嘘つきが寄ってこないよう、バリアも張った。でも最近、長年築いてきた嘘つきバリアの限界に気づいた。娘を出産し、私はどんな親でありたいかを考えるようになってからだった。
いくつかの理想のなかに、「娘を信用する親である」を掲げた。
しかし、娘に嘘をつかれたらどうする? 母に嘘をつかない娘なんていないのでは?
そう考えると、「娘は母に嘘をつくものだ」という考えを受け入れている自分ことにも気づいた。
嘘つきバリアを張ったままだと娘を信用できない母になってしまう。娘を信用すると決めるならば、嘘つきバリアを見直さなくてはいけない。
娘が嘘をつくような年頃になるまでに、嘘に対して認識を改めなくては。トラウマを払拭しなくてはいけない。
そんなことを考えているとき、浅生鴨さんの『ぼくらは嘘でつながっている。』という本に出会った。
タイトルの次に書いてあることはこうだ。「あなたは嘘つきである。けれどもまだそれを知らない。」私も嘘をつく側か。この本で嘘つきバリアは覆るかもしれない。
期待を胸に読み進めていくが、嘘が嫌い、ということに気付かされるばかりだった。嘘をつくための言い訳が並んでいるように感じてしまい、なかなか読み進められなかった。
読みきるのに時間がかかってしまったものの、ひとつわかったことがある。「私は嘘をつかないし、私の周りに嘘つきはいない」という嘘つきバリア自体が、嘘だったということだ。
思考から生まれる個人のバイアスさえも「嘘」と表現されるその本と同じくらい、私自身も嘘を幅広く捉えてしまっていたと気付いた。
嘘つきバリアで作った私の世界にも、嘘をつかない人なんていなかった。
本当はずっと嘘つきバリアが苦しかった。バリアの内側にいる人みんなが嘘をつくことに、とっくに気付いていた。そんな広義の意味での嘘にも「この人も私に嘘をつく人なのか」と過剰に反応し、どんどん人を信じられなくなっていた。
大切な人がつく些細な嘘が真実かどうかなんて、本当はどっちでもよかったのに。嘘つきは排除しなくてはいけないと思い込み、不必要に、勝手に傷ついてきてしまった。優しい嘘があることも本当はずっと知っていた。両親が私を守るためについてくれた嘘もあっただろう。友達が私のためについたてくれた嘘もあっただろう。
私が「嘘」と決めつけ否定してきたことのなかには、真実が含まれていることも何度もあった。この本のおかげで私の「嘘」の幅はぐっと狭くなった。
さて、私はこうやって書いていくことで「嘘つきバリアは解けた」と自分に嘘をつくことにした。
いつかの娘の嘘への準備は、少しくらいできただろうか。著者にならうなら、「すこしくらいできた」と自分に嘘をついてもいいんだろう。
文/いちのせ れい