奥さまは「パートナーさま」? 言葉狩りと想像力【連載・欲深くてすみません。/第12回】
元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、不適切に見えかねない表現を、原稿にそのまま書いて良いのかと悩んでいます。
人間たるもの、何年も同じ仕事を続けていれば、生き物たちの「進化」のように、自分が働く環境に適応するための変化を遂げているに違いない。ではライターを7年続けた私は、この間に一体どんな進化を、と考えてみると、かつてはなかったアラート機能が備わったことに気づく。
30分前から、私はとある会話をどのように原稿に書くかと悩んでいる。
Aさん「これはうちの奥さんに教えてもらったんだ」
Bさん「Aさんの奥さまは物知りですものね」
ライターアラートがピコンピコン鳴る。キケン、キケン、オクサン、オクサマ、キケン。
「奥さん」は、かつて使用人などが、屋敷の奥に住む主人の配偶者を敬い「奥方」と呼んだことに由来している。つまり本来は他者の妻を敬って呼ぶ表現だ。自分の妻に使うのは正しくない。
しかし、2023年を生きるライターとしては、言葉の正しさよりも「奥」の表現のほうが気になる。家の奥にいる人、の由来から「女性は家にいるもの」という考えが連想できるため、「奥さま」の表現そのものに違和感を覚える読者は最近増えていると思う。
本筋でないところで物議を醸す表現は避けたい。まずAさんの「うちの奥さん」は「うちの妻」と書くべきだ。難しいのはBさんの発言で、「Aさんの妻さんは」と言うわけにはいかない。配偶者さん? 今どきに言うとパートナーさん? 不自然すぎる。相手の妻への敬称って他にあったっけ……。
なんてことを考えていると、ふと我に返り虚しくなる。
これはただの言葉狩りではないのか。ジェンダー平等の本質からは、離れていないか。
そもそも読者は本当に「奥さま」に違和感を覚えているのか。
私たちの目は、耳は、時に誰かと同期したつもりになって、ないはずのものを見たり、実在しない人の声を聞いたりすることがある。
*
以前、ある舞台を観劇したときのことである。上演前にこんなアナウンスが流れた。
「本公演では、一部喫煙の場面がございます。使用しておりますものは、人体に無害の茶葉スティックでございます。予めご了承くださいますようお願い申し上げます」
劇中で登場人物がタバコを吸うシーンがあったため、事前にこのような断りがあったのである。しかし、わざわざ言うほどのことだろうか。これを聞いた観劇者は「どこかで喫煙シーンが出てくるんだ」と意識することになるし、該当の場面になったら「おお、これが例の茶葉スティック」と面白おかしく見てしまう。
それでも、ここまで気を回さないとクレームが来る時代なのだろう。なんて世知辛い。ため息をついた瞬間「いや、待てよ」と思った。これは誰のためのアナウンスなのだろうか。
もしアナウンスなしで、喫煙シーンを迎えていたら。ひょっとしたら私はこう思ったかもしれない。
「あれ、偽物のタバコなんだろうけど、本物のタバコと勘違いした人からクレームが来るんじゃないかな。大丈夫かな」
私は嫌じゃないけど、私は何とも思わないけど
「あの人は」「みんなは」「世間は」
大丈夫かな。
自分は傷つきもしないし、不快にも思わない。そんな安全地帯から、傷つく可能性のある人のことを勝手に慮る。クレームを入れるほどのことはしないが、心配する間、少しだけ意識が舞台から逸れる。
傷つく人よりも、クレームを入れる人よりも、「傷ついたりクレームを入れたりする人の心配をする人」のほうが、実際は多いはずだ。「大丈夫かな」ともやもやさせるくらいなら、事前アナウンスをしておいたほうが、集中して観劇してもらえるのでは……と舞台の主催側が考えたかどうかは定かではないが、その可能性に思い至ったとき、私は頭を殴られたような感覚になった。
多様性の時代。一人ひとりの考えや個性を尊重し、さまざまな特徴を持った人たちが共生できる社会へ。それは「自分が想像もしないことで、笑ったり泣いたり怒ったり困ったりする人たちがいる」と受け入れ、尊重することでもある。
想像もつかないけれど、尊重したい。傷つけたくない。
難しい。どうすれば。
いちいち考えるよりも省エネな方法は、問題になったり炎上したりした事例をインプットし、アラートを立てることだ。
タバコ、分煙義務化、受動喫煙の問題、キケン。
奥さま、女性は家にいるもの、ジェンダー差別、キケン。
すると、どんどん考えなくなっていく。実在するかどうかわからない誰かに主語を譲り、聞こえない声に耳を傾け、自分は「大丈夫かな」と心配しながら危ない道を避ける。キケン、キケン。そうやって生きる人が増えれば増えるほど、コンプライアンス対策は過剰になっていく。
それが時代の変化に応じた生き抜き方だというのか。
進化と退化は、たいてい表裏一体の関係にある。泳ぐのに相応しい体を手に入れたペンギンは、飛ぶ能力を失った。危険を察知する力を得るかわりに、自分で考える力を失う。そんな退化、私はしたくない。
だったら、面倒でもいちいち考えるしかないのだ。見聞きしたものをそのまま脳内データボックスに突っ込む前に、私は、いま何を見たのか。私は、誰の声を聞いたのか。私は、それをどう解釈するのか。
腹を括って自分で考えたことのある人にしか、本当の想像力は得られないのではないか。
*
おそらく他人の妻を敬う言葉として「奥さま」に代わる表現が、近々生まれるはずだ。新しい価値観を言葉や習慣に反映していくのは、良いことだと私は思う。
時代は変わる。言葉も変わる。それでも、どの表現を選択するかくらいは、自分の頭で考えていたい。
進化と退化は表裏一体だが、どれだけ環境が変わっても、自分が変化しても、捨ててはいけないこだわりはある。考えてみればペンギンだって、空を飛ぶ力を失ったのではなく、海の中で飛ぶことにしたのかもしれない。
文/塚田 智恵美
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