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「激ヤバ」が作文になるまで。言葉にするには諦めること【連載・欲深くてすみません。/第14回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は原稿を褒められ喜んでいるようですが、それも束の間、また悩み始めて……?

浮かれております。先日インタビューさせていただいた方に、内容を確認してもらおうと原稿を送ったところ、このような返信があった。

「私ひとりではけっして言葉にならないところが、あなたの手で見事に言語化されていて驚きました」

えっへん。やったね。ライター冥利につきるというもの。しかし仕事を終え、気分良く白ワインを2杯、3杯と飲んでいるうちにだんだん私は「あれを褒め言葉として受け取って良いのだろうか」と疑い始めた。話し手ひとりでは言語化できない、むしろ「簡単に言語化したくない」複雑な領域に私が土足で介入し、無理やり言葉の型に押し込んだのではないかと不安になったのである。

他人の言葉を書くとき、いつも薄らとこの不安はつきまとう。言葉を紡ぐ過程に自分が割り込みすぎている(これが行きすぎると、インタビュー原稿ではなく私の創作になってしまうのではないかと恐れる)感覚。

しかし、ライターがインタビューして原稿を書くシチュエーションに限らず、そもそも私たちは日頃から自分ひとりで言葉を紡いでいるのだろうか。

「言葉を紡ぐ」は、言語化を糸紡ぎに喩えた表現だ。綿のかたまりから繊維を数本引き出し、より合わせることによって糸はできあがる。それと同じように、思考のかたまりから言葉の素材をいくつか引き出し、より合わせることによって言葉になるのだとしたら。

案外、無意識のうちに、このプロセスを他者との“共同作業”で行っていることも多いのではないか。

“共同作業”で思い出したのが、知人の娘であるAちゃんとの会話である。

数年前に知人宅を訪れたとき、当時中学生だったAちゃんが、私の仕事内容を聞いて「作文を書けなくて困っている」と話し出した(ライターという仕事柄、こういう相談をよく受ける)。

文化祭についての感想を作文に書いて、提出するのが宿題なのだそうだ。「文化祭、どうだった?」と聞くと、Aちゃんは「激ヤバだった」という。なるほど、激ヤバね。原稿用紙に書くには、たしかにちょっと文字が足りないかな。

雑談をかねて、文化祭当日にどんなことがあったか、Aちゃんにいくつか質問をした。その中で印象的なエピソードがあったので、その場で私がノートを取り出し、一部分書いてみることに。たしかこのような文章であった。

《校門の装飾を担当したのですが、文化祭を終えたあと、つくった飾りや看板を外しているときに自然と涙が出ました》

これを見てオオーッと声をあげるAちゃん。

「ウチの言葉じゃなくて、ちゃんとした言葉になった!」

本人は喜んでいるのだが、私としては「ウチの言葉じゃない」というところが引っかかった。瑞々しい彼女の体験を、無理やり私の言葉に変えてしまったようで悪い気がしたのだ。

慌てて「特にどこが“ウチの言葉じゃない”気がする?」と聞いてみると、「涙が出ました、ってところ」とAちゃん。

え、そこ?

「あれ、ごめん。私が話を聞きながら勘違いしたかも。実際は、涙は出てないんだっけ?」

「ううん。涙出た」

「……でも、文字になると自分の言葉じゃないような感じがするってことかな?」

「うんとね。ウチの中ではいろいろ複雑なんだよね」

「複雑?」

「看板とか風船とかを外してたら、たらーんと涙が垂れてきて、自分でもびっくりした。周りの目が気になって『何泣いてんの、だっさー』って恥ずかしかった。でも、涙が出たら、ホントに文化祭が終わっちゃったんだーと感じて、どんどん泣けてきて。気持ちがいっぱい混ざっていたからどう書けばいいのかわからなかったの。でも泣いたのはホントだから、普通に『涙が出ました』って書けばよかったんだね」

私は立ち上がり「いや、今あなたが言ったことをそのまま書きなよ」と叫んだ。ノートを渡してホレホレ、メモせよ、と迫ると、Aちゃんは素直にメモをした。

しかしAちゃんは「それでもやっぱりこれはウチの言葉じゃないと思う」と言う。はい? たった今、自分の口から出てきた言葉じゃないか。

「うーん、でもやっぱウチひとりじゃ書けなかったから、ちえみさんと一緒につくった感じ」

そうか。じゃあ共同作業だね。そう言うとAちゃんは「この続きを書いてくる〜」と機嫌よく自室に消えていった。

Aちゃんが当初、文化祭での体験を「激ヤバ」としか表現できなかったのは、起きた出来事や生じた感情に気づいていないからではない。むしろいろいろ気づき、感じすぎていて複雑だから言葉にならないのである。

一方、他者である私には、Aちゃんに生じた出来事や感情のすべてが見えるわけではない。見えないくらい細い繊維をかたまりから引き出すのは諦めて「涙が出ました」と目立って見える太い繊維だけを、ピーっと安直に引き出した。

それを見たAちゃんは、「涙が出ました」に別の繊維をより合わせて、より詳しく、自分に起きたことを言葉にした。

あのときの会話を思い返すたび、言語化するとは、考えたことや感じたことを100%伝えるのを諦める作業であるなあと思う。

諦めて、言葉にできる部分だけを引き出す。それらをより合わす。すると、自分の内側にしかないものを、言葉という形で他人に伝えることができる。100%は伝わらないけど、これをしなければ1%も伝わらない。

Aちゃんと私の共同作業とは、つまり私がAちゃんの「諦める」までの工程を手伝ったというわけだ。

こうして考えてみると、ライターが介在していなくても、私たちはしょっちゅう他人との共同作業で言葉を紡いでいるようにも思えてくる。たとえばひとりでパソコンに向かって文章を書いていたとしても「この感情は、一般的には何と呼ぶのだろう?」と考えるだけで、そこに他者が介在する。自分固有の気持ちを自分だけの表現で伝えるのを諦めて、まず広く行き渡っている言葉で表現してみる。その表現を叩き台に、足したり引いたり絡めたりしながら、自分なりの表現にしていく。

ひとりでも、共に紡いでいる。

文/塚田 智恵美

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