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「わかりたい」情熱の罪、「わからない」諦めの功【連載・欲深くてすみません。/第8回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、取材でつい、相手のことを「わかりたい」と思ってしまう気持ちについて悩んでいます。

「追い求めれば追い求めるほど、大切なものが逃げていくよ」的なことは、J-POPのありがちな歌詞にしょっちゅう出てくるわけだけど、では、追わなければ大切なものが手に入るのかというと、そうでもないのが人生の難しさである。

私自身、追い求めすぎて大切なものを逃し、涙を流したことがある。

取材の話です。

二つの取材の話を書きたい。わかりたくて泣いた取材と、わからなくて泣かなかった取材の話。

その取材相手は、私が長年追いかけてきた憧れの女性だった。彼女が10年にわたって記したブログを、すべて読んだ自信がある。その人に取材する機会を得たのだ。事前準備の段階から、鼻息が荒かった。

ーーわかりたい。

私を突き動かす動力は一点、それだけだった。

彼女の人となりを、本心を、真実を、彼女すら知らない彼女自身を。

彼女の綴る言葉だけでなく、言葉にならなかった逡巡を。

知りたい、ではなくて。

私は、わかりたかった。

当時、ライター4年目だったろうか。これまでの経験はすべて、この瞬間のためにあると思い、事前準備に打ち込んだ。

そして取材が始まる。私は全神経を集中して彼女をわかろうとした。

……あ……れ?

ことに気づいたのは、取材も終盤になってからだった。

何時の間にか、取材相手は何度も言葉に詰まっていた。私も問うべきことを見失い、沈黙してしまう。見かねた編集者さんが穏やかな声で、質問を始めた。

あれだけ聞きたいことを用意してきたのに、何が起きたのか。そのとき部屋の重力がなくなり、私はソファの真上にボワンと浮いた。

家に帰り、録音した音声データを再生してみる。

唖然とした。

「Aとはこういう意味ですよね? もっと具体的に教えてください」

「BとCには矛盾があると思うのですが、その矛盾は、以前書かれていたこの体験が影響しているのではないでしょうか?」

「違うんですか? えっ、なんで違うんですか? だってこう書いていたじゃないですか」

甲高い声の女が、私の敬愛する人を部屋の隅に追い詰めて、言葉で顔や腹を殴っている。

これは暴力だ。決めつけ、思い込み、自分の納得した通りの答えを迫り、相手が首を縦にふるまでその場を動かない。

音声の中で、優しい編集者さんの声が、冷静に、客観的に、間に入ってくださった瞬間、私は耐えられなくなって停止ボタンを押した。

涙が滝のように流れる、という表現があるが、勢いよく泣いても、涙はなかなか滝のようには流れない。下まぶたのところで一定量留まって、ぼとり、ぼとりと小さな塊になって落ちてくる。椿が木からぼとぼと落ちるように、私は泣いた。

なんで私は、敬愛する人を言葉で殴っているんですか。

わかりたかった、それだけなのに。

もう一方の取材の話。取材相手(こちらは男性)のお名前を見た瞬間に「この仕事は、私ではないほうがいいのでは……」と編集者さんに相談した。

「えっ、なんで? このテーマ、興味ない?」

「いや、そういうわけではないのですけど、この方……もちろん著名な方だから、これまでご著書やご発言を何度も目にしているんですが」

「うん」

「私、何度聞いても、この方のおっしゃることが、よくわからないんですよ」

言わんとしていることは、何となくわかる。しかし、私の知識不足、くわえて信条のような思考の土台が、根本的に私とあまりに違うのか、彼のご著書を読んでいても、「なんで?」「どうしてそうなるの?」と理解がまったく追いつかないのである。そんなライターが取材して、事実誤認があったり、お考えと異なる表現をしたりしてはいけませんので、ここは……。

「おーっ! そういう人にこそ、取材してほしいのよ。じゃ、よろしく!」

えーーーー。

旧知の編集者さんに乗せられてうっかり引き受けたものの、はたして取材が始まると、やはり会話がスムーズにいかない。取材相手の癇に障るような質問ばかりしたのか、険悪な雰囲気になった。

ほらー、だから言ったのにぃ、と思いつつ編集者さんをチラ見するも、編集者さんはニコニコ笑ったまま口を開かない。

しかも、お話を聞けば聞くほど、ますますよくわからなくなった。

取材を終えて絶望的な気持ちになり、音声データを再生する。改めて聞くと、その場で体感したよりも案外、場は紛糾しておらず、なんなら穏やかだったので安心した。

しかし、その段になっても、私は彼のお考えがよくわからなかった。

ライターは取材で交わされた言葉を、そのまま文字に起こしているわけではない。口頭で出てきた「あれが、ああなるわけです」のような表現について、前後の文脈、語られた言葉や思考を読み解きながら、「どれが、どうなるわけ」なのか、書き換えていかなければいけない。「わからない」相手の言葉を書くなんて恐ろしすぎる!

ところが原稿を書き始めると、私は不思議な心境になった。

当時住んでいた自宅は、大きな池のある公園の近所だった。その池の前のベンチに、私と、取材相手が、並んで腰掛けているような情景が浮かんだのだ。

私は池の向こうを指さして尋ねる。

「あれは、何ですか?」

取材相手は答える。

「あれは、おばけです」

私には「木」に見えるそれを、彼は「おばけ」と言う。

私にはわからない。おばけなものか。でも「彼にはおばけに見える」。そのことだけが、夕暮れ時の公園の、二人で座るベンチの真ん中に、トンと置かれる。

取材で交わされた会話を、改めてそのような気持ちでとらえ直してみた。いわば、書きながら2回目の取材をしたようなものだ。そして書き上げ、原稿を提出した。

数日後、知らない番号から着信があった。出ると、なんと、あの取材相手ご本人だった。

どうしよう、やっぱり私ではだめだったか。怒っていらっしゃるか。

「原稿読みました」

すみませんでした。

「素晴らしかったです。あの、これだけはどうしても直接伝えたくて……これまでたくさん取材を受けてきたけど、ここまで、理解してもらえた、と感じたことはなかった。僕のことをわかってくれてありがとう」

電話を切った。

妙に泣きたい気持ちになったけど、私は、泣かなかった。むしろ、ちょっと笑っていたと思う。

「わかった」わけではないんですよ。

私たちは多分、ほんのひとときの間、同じベンチに並んで座ったんです。

泣いた取材と、泣かなかった取材の話。この二つの体験を振り返り、

「わかりたいと思う気持ちは独りよがりで、募らせすぎると相手のことが見えなくなります。大事なのはその思いを手放し、ただ、そっと他者に寄り添うことなのです」

などと、まとめる人もいるかもしれない。

でも、私はそうは言いたくないのである。

それでも「わかりたい」と思ってしまう、勝手で、傲慢で、独りよがりな、この“欲”が手放せなくて、私は書く仕事をわざわざ選んで続けているのだから。

それに「ただ寄り添おう」なんて思うほうが、よほど独りよがりで尊大になることもあるだろう。

だから私は、取材に行く前に、あの大きな池のある公園のことを、ぼんやりと考えるようにしている。

夕暮れ時、ほんのわずかな時間でも、誰かと、あのベンチに並んで座れたら。

その情景だけを思って、取材現場の扉を開く。

文/塚田 智恵美

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