検索
SHARE

大谷翔平さんではない君の、噛むガムの味を伝えるには【連載・欲深くてすみません。/第6回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は著名人と、世間的には名前や実績が知られていない人のインタビュー原稿の違いについて考えています。

子どもの頃、疑問に思った。なぜ、名前がよく知られている人を「有名」、逆に知られていない人を「無名」と表現するのだろう。「知名」と「不知名」ならわかる。名が知られているか、いないか。でも、名前は誰にでも「有る」はずだ。知られていないことと「無い」ことは違う。

近頃、私は著名人(こちらは「いちじるしく名が高い」人、の意)のインタビュー原稿を書く機会が増えている。一方、会社の編集部にいた頃は、“名も無き”一般の小中高生に取材する機会が多かった。

ほとんどが、取材を受けるのは生まれてはじめての子たちばかり。人によっては、話が「嬉しかった」「大変だった」というような一言で終わってしまうこともあった。普段生活していて、自分の経験した具体的なシーンを、まったく接点のない大人に話す機会なんてないだろうから当然だ。あの手この手でお話を聞き出す工夫をした。

相手が小学生で、なかなか具体的なお話を聞くのが難しかったときは、一緒にお絵描きをしながら、相手が描いた「絵」を話の手がかりにし、学校生活やいま夢中になっていることについて聞く、というような手法をとったこともある。

取材慣れしている著名人の方たちの場合、そういう意味での苦労はあまりない。でも山ほど取材を受けている分、「他のメディアでお話されていないエピソードを聞き出すには、どうしたらいいか?」など、別の難しさがある。日々試行錯誤しながら、取材現場に臨んでいる。

では、取材ではなく文章を書くという点についての違いはどうだろう。

著名人と、世間的には名前や実績が知られていない人のインタビュー原稿を書くとき、何が違うか。

自分が無意識に書き分けようとしていることについて、今日は考えてみたい。

たとえば、メジャーリーガーの大谷翔平さんを取材する機会を得たとしよう。取材を通じて、大谷さんがいつも試合中に噛んでいるガムの味や、試合中ガムを噛むことでどのように集中を保っているのか、といったお話を聞くことができたとする。

これをそのまま書けば、原稿は成立する。たとえば書き出しの見出しを、このようにしてみよう。

〈見出し〉大谷翔平さん、集中力が切れてきたらミント味のガムでリフレッシュ

(注:考えるために私がでっち上げた話で、事実ではありません)

野球に詳しくなくても、大谷翔平さんが前例のない投打二刀流に挑戦し圧倒的な成果を残されてきたこと、WBCでの活躍などは大まかに知っているし、ニュースで試合中の映像を見かけたこともあるはずだ。

だから多くの日本人にとって「大谷翔平」という固有名詞には、これまで大谷さんが成し遂げてきた功績や二刀流への挑戦、メディアを通じて見える礼節をわきまえた態度などを勝手に連想させる機能が備わっている。

「大谷翔平」「いつも試合中に噛んでいるガム」と言われれば、なんとなく光景のイメージがつくし、あれほどまでの偉業を達成してきた大谷さんが試合中、集中力を高めるために何を心がけているのだろう、と気になる気持ちも生まれる。

たとえるなら、読者が情報を受け取るための「器」がすでに整っているわけだ。だから、原稿では大谷さんの噛んでいるガムに関する記述をいきなり書きはじめても十分成立する。むしろ原稿の書き出しを「メジャーリーグには大谷翔平さんという野球選手がいて、この人は二刀流に挑戦しています」から始めたら、冗長すぎて誰にも読んでもらえないだろう。むにゃむにゃ回りくどい周辺情報から書き出すよりも、意外性のある情報、みんなが知っているあの人の、実は知られていないような一面をドンッと「器」に差し出さなければ、魅力的な記事にはならない(それはそれですごく難しい)。

一方、この見出しはどうだろう。

〈見出し〉埼玉県在住の高3生・大谷太郎さん、集中力が切れてきたらミント味のガムでリフレッシュ

高校で野球部に所属している、ただし甲子園出場などの目立った功績はない、成績も普通で、一般的な高校生と同じく受験勉強と部活の両立を頑張っている埼玉県在住の高校3年生・大谷太郎さん(仮名)のインタビュー記事。その書き出しの見出しがこれだとしたら。

おそらく、このあとに続く文章を熱心に読み始めるのは、大谷太郎さんの親兄弟と親しい友人くらいのものだろう。私たちは大谷太郎さんのことを知らない。だから大谷太郎さんの噛んでいるガムについて興味がない。

では、大谷太郎さんの言葉は読者にとって、読む価値がひとつもないのかというと、必ずしもそういうわけではない。

大谷太郎さんはいま、受験勉強と部活の両立がうまくいかずに悩んでいる。朝は5時起き。週6日、朝、昼、放課後のハードな練習で、家に帰ると、どうしても疲れて眠ってしまう。それで勉強がなかなか進まず、毎朝起きるたびに「自分はなんて怠惰なんだろう」「自己管理能力がないのでは」と自分を責めてしまう。

最近、学校から家に帰る途中にガムを噛み始めた。ガムを噛めば眠気が覚めて、頭が冴えるだろうと思ったのだ。しかし、肉体の疲労にはなかなか抗えない。募る苛立ち。大谷太郎さんはガムの味がなくなるまでギシギシとガムを噛み続け、ミント味だったガムは、家に着くと血のにじむような鉄の味になっている。

――これくらいの解像度で大谷太郎という人間が見えてくると、ようやく話を聞いてみようかな、という気持ちが生まれてくる。たとえば、いま実際に部活と勉強の両立に苦しんでいる受験生にとっては共感することもあるだろうし、大谷太郎さんがこの状況をどのように乗り越えるのだろう、何か自分にとってのヒントが得られるかも、と続きを読む原動力が湧くかもしれない。

場合によっては、あまりにも凄すぎて遠い存在の大谷翔平さんよりも、身近で共感できる大谷太郎さんの話を聞きたい、と思う人だっているだろう。

「大谷太郎」という固有名詞は(彼の親や友達を除いて)人の名前であること以上の情報をもたらさない。だから、その分、読者が情報を受け取るための「器」を、文章の中で整えなければいけない。いわば初めて内容を知る映画の予告編のように、大谷太郎という人物の置かれた状況や生活シーンの映像を、読者の頭の中に映し出す必要がある。

ただし、言うは易く行うは難し。これを書くのがめちゃくちゃ難しい。事細かに状況を説明すればいいというわけではなく、簡潔に映像を立ち上げて、主題に入りやすい状態をつくらなければいけない。

そこまで名が知られていない人たちのインタビュー原稿を書いていると、就活中の大学生のとき、先輩から言われた言葉を思い出す。

リーマンショック中の就職氷河期。たいした実績もなければ、人様に誇れる価値など自分に見当たらないと悩んだ私は、エントリーシートでモリモリと話を盛り、自分を大きな存在に見せるように努力していた。そんな努力を人事は秒で見抜く。気持ちいいくらいに落ち続けた。

あるとき酔っ払って、大学の先輩に「甲子園出場、って書くだけでエントリーシートが通るのなら、野球部のマネージャーでもやっておけばよかったですよ」と冗談を言った。すると先輩が「なんで甲子園出場、って書くだけでエントリーシートが通ると思う?」と私に問うた。

「知りませんよ、そんなことは。私は内定が欲しいんですよぉおおぉ」と高田馬場の居酒屋で吠える私に、先輩は説明した。

「甲子園」を、多くの人が知っている。その学生のことをまったく知らない人事でも「甲子園」という固有名詞を見るだけで、そこに出場したということは、それなりのハードな練習や難関を越えてきたのだろうとすぐにイメージができる。

でも、たとえば見たことも聞いたこともない名前のサークルで、新歓担当を経験した、という文字がエントリーシートに書かれているだけでは、読んでいる人事にはそれがどんな体験だったのか想像ができない。

しかし、「自分には価値があると思わせなければいけない」とアピールに必死な学生は、人事の頭の中でまだ映像が立ち上がっていないことに気づかず、そこから一生懸命「新入生に入部してもらうためにサークル内のコミュニケーションを促進し、イベントを企画しました」などの抽象的な話を綴る。規模も状況もいまいちわからない、ふんわりとした話を延々聞かされた人事が「うむ、この学生ならうちの会社で活躍できそうだ」と思うことは、ない。

つまり、これはそもそも、どちらの体験により価値があるか、の話ですらないのだ。「甲子園に出場」という言葉よりも、「なんちゃらサークルで新歓担当」という言葉のほうが、脳内に投影できる映像や情報の量が圧倒的に少ないというだけのこと。それを補う情報がないから伝わらない。伝わらないから落とされる。どちらが会社に入って活躍できるかは、実際はわからない。

「『簡単にはその魅力が伝わらない』ことと『価値がない』ことは違う。自分に価値があるかどうかで悩むな。その時間があったら、伝わるための情報の質を考えろ。伝わるように書け。お前はもうちょっと伝える努力をしろよ」

――あのとき先輩から聞いた言葉は、その後内定し、会社に入って、そして辞めて、書くことを仕事にするようになった今、別の響きを持って私に届いている。「知られていない」ことと「無い」ことは違う。簡単には伝わらない人の言葉や、体験も、読者に届けられる書き手になりたいと思う。

文/塚田 智恵美

【この記事もおすすめ】

writer