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エンタメは摂取するもの?「タイパこそ正義」の僕がスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』を観て思い出したこと

子どものころ、ドラゴンボールカードを友だちと見せ合いっこしていた。「ほら! 俺はたくさんカードをもってるんだぜ。キラ(キラキラ光っているやつ)もこんなにある。すごいだろ!」と。

懐かしい思い出……と思いきや、38歳になった今でも同じことをしていた。

先日noteに「今月はこんな映画やドラマを鑑賞した。これほどエンタメを摂取したのは久しぶり」と書いた。ライターの僕にとって、今話題になっている作品を観ることは企画のタネになったり取材時のネタになったりする。だから、とにかくたくさんの作品を観ることが大事だと勘違いしていた。

映画やドラマのタイトルをつらつら並べて悦に浸る。「みんな見て! 今月はこんなにたくさんの作品を観たよ! すごいでしょ?」と、ドラゴンボールカードを友だちに見せびらかしているときと同じことをしていた。

あぁ38歳にもなってなんて恥ずかしいことをしていたんだ……と気づかせてくれたのは、まさかの歌舞伎だった。

昨夏に歌舞伎『新・水滸伝』を観た。人生初の歌舞伎。とにかくたくさんの作品を見よう! と、今思うとズレた意気込みをもっていた僕は、歌舞伎を観て「なんか長いな」と思ってしまった。休憩時間を含めて上演時間は3時間5分。独特の言い回しや見得を切るシーンなど、たっぷり時間をかけて表現する。それらを含めて「なんか長いな」と思ったのだ。

それから数か月後、『スーパー歌舞伎 ヤマトタケル』を観た。休憩時間を含めて4時間15分の演目。前回よりさらに長い。それでも観に行きたいと思った。

知人に誘われたから、という理由もあるのだが、それよりも前回の『新・水滸伝』を観て感じた懐かしさを味わいたかったのだ。期待通り『ヤマトタケル』を観たときにも同じ感情を抱いた。

こんなシーンがあった。

ヤマトタケル一行が、味方だと思っていた人に裏切られてしまう。草むらにおびき寄せられ、火をつけられる。燃え広がらないように剣で草むらを斬る。そして火打石で別の火を起こす。敵の火を飲み込もうとしたのだ。そんな闘いを、旗をもった役者が表現していた。

このシーンを観ているとき、僕はこんなことを考えていた。

なぜ人が火を演じたのだろう? 臨場感が生まれるからだろうか。

なぜ旗で火を表現したのだろう? ゆらゆらとした動きが火に近いからだろうか。

なぜ演者はアクロバティックな動きをしていたのだろう? 火が生き物のように動いているさまを表現しているのだろうか。

10分ほどのシーンだったと思うが頭の中で実にいろいろと考えた。演目中にここまで考えられるのは歌舞伎ならではの魅力だな、と思った。小説だと3行で終わる場面を歌舞伎なら10分間じっくり観せることもある。だから作品を観ながら色々なことを考えられるのだ。

そこでわかった。

僕はこの時間が好きなのだと。

素晴らしいエンタメを観て、じっくり考えるという時間が。

僕は社会人になるまで、本好きの母親の影響でよく小説を読んでいた。生まれてはじめて読んだ長編小説は『十五少年漂流記』。十五人の少年が無人島に漂流して、何とか力を合わせて生き残ろうとする話。その本を読みながら母親にこんな質問をした。「(亀を捕まえて食べるシーンがあったので)亀って美味しいの? 食べられるの?」「無人島ってほんとにあるの?」「なんでこの二人は喧嘩してるの?」と。

当時は親にあれこれ聞いていたが、中学生になってからは自分ひとりで考える時間が増え、大学生になってからは考えたあとにmixiで発信までしていた。たとえば、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んで「この作品は何を伝えたかったのか」を考察してみたり、東野圭吾の『秘密』を読んで巻末に書いてあった解説を「これは違う」と批評したり。お前だれやねん! とつっこまれるほど偉そうに書いていたので、今となれば恥ずかしい限りだが、その頃からコンテンツを観て、考えを深め、誰かに伝えることが好きだったように思う。

僕にとって、歌舞伎は小説と似ている。読み返したり、本を閉じて何時間もゆっくり考えたりはできないが、たっぷりと「間」をとってくれるので作品を観ているときに思考をめぐらせる時間が長い。だから歌舞伎に懐かしさを覚えたのだ。小説を読んで親を質問攻めしていた小学生時代や、偉そうに考察を書いていた大学生時代など、エンタメを“摂取” するのではなく “味わっていた” 頃を思い出して。

もうnoteに「鑑賞したエンタメ」をずらずら並べるのはやめよう。その代わり、昔のように作品を観て何を感じたかを自分なりに考え、できるだけ発信しよう。だってそれが、昔の僕にはできたはずなのだから。

文/中村 昌弘

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