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じかに見て、聞いて知る、被災地のいまー炊き出しボランティア体験記ー【能登のいま/第9回】

『能登のいま』執筆者である二角さんのライティングゼミ仲間、あさみです。7月20日、ゼミのメンバーが輪島市にあるのと里山空港に続々と集まる頃、私は一人金沢市に向かいました。輪島市や珠洲市などから金沢市内に2次避難をしている方々に向けて行なわれる炊き出しに、お手伝いとして参加させてもらうことにしたからです。この記事では、炊き出しでボランティアの方や被災者の方と直接お話して、私が知ったことや感じたことをお伝えしたいと思います。(執筆/那須 あさみ)

物資や炊き出し、さまざまな形の被災者支援

その日の金沢市は、数時間前までの大雨が嘘のように晴れ渡り、強い日差しが照りつけていました。炊き出しがどんな場所で行なわれているのかよく知らないまま訪れた私は、潮風の吹く金沢港近くにある、湊被災者支援物資センターの様子を見て驚きました。広い倉庫を利用して開設されたセンターでは、ブルーシートがかけられた台の上にまるでお店のようにさまざまな種類の食器が所狭しと並んでいます。他には布団や洋服、バッグや靴などの服飾品、それに家具や家電といった大きなものも。トイレットペーパーやアルコール消毒など、こまごまとした消耗品には「1家族◯個」の札が貼られています。

これらはすべて全国から寄付されたものや、支援金で購入したものです。この支援物資センターは、金沢市のNPO法人「みんなの畑の会」によって運営されています。発災後すぐは市内の別の場所にありましたが、3月に現在の場所に移転しました。支援活動を始めた当初は不用品を持ち込む人も多く、汚れていたり不良品だったりといった理由で支援物資として提供できずに捨てたものは、2トン車3台分にもなったそうです。いまは持ち込まれたものが物資として提供できるかをその場で選別し、使えそうにないものは持ち帰ってもらうようにしているといいます。

被災者は受付でどこから避難してきたかなどの情報を記入したあと、各々必要なものを持ち帰ることができます。この日も、センターが開く10時前から石川ナンバーの車(被災地の能登地方は石川ナンバー。金沢市は金沢ナンバー)が何台か訪れ、オープンと同時に受付を済ませると、被災者の方々が時間をかけてじっくりと日用品などを選んでいました。

そんなセンターの一角で、「かなざわオープンキッチン」のメンバーを中心に炊き出しの準備が進められていました。今回の炊き出しのメニューは、冷やしうどんとおにぎり、かき氷です。「かなざわオープンキッチン」の炊き出しでは、避難中でも栄養価が高く質の良い食事を届けることを目指しています。そのため自然農法で育った野菜や、被災地でとれた魚や山菜、昔ながらの製法で作られた調味料などを積極的に使っているそうです。

被災地の生産者支援も行なっていて、この日のかき氷のシロップのうち1種類は、七尾市のほうじ茶シロップと珠洲市の小豆で作ったあんこの組み合わせでした。この小豆は、珠洲市の農家が生産・収穫したものの、被災したため選別作業などができず行き場をなくしていたものです。その状況を知って、代表の小尾香さんがボランティアを募り、選別作業を行なって販売し、利益を生産者に還元する「農家さん応援プロジェクト」を実施しました。

被災者もボランティアとして活動

私はボランティアスタッフとして、おにぎり作りやメニュー表作り、焼き菓子の販売などを手伝いました。焼き菓子の販売の売上も、避難生活で栄養が偏りがちな被災者の方へ野菜を届ける支援活動に使われるそうです。作業をしながらボランティアの方に話を聞いてみると、福井から参加している方がいました。「福井に住んでいるから能登まではなかなか行けないけれど、金沢なら時間を見つけて来ることができる」と、これまで数回炊き出しに参加したといいます。被災者だけでなく、「何かしたいけど能登は遠くて……」と思っている人にとっても、アクセスしやすい金沢市内で炊き出しを行なうことは、意義のあることなんだなと感じました。

別のボランティアの方はご自身も被災者で、珠洲市から白山市に避難していました。被災者としてセンターを訪れたときに「よかったら一緒にやってみない?」と声をかけられ、週末にボランティアとして参加するようになったそうです。「ご自分のことだけでもたくさんご苦労があるだろうに、ボランティアまでするなんてすごいです。大変じゃないですか?」と聞くと、「自分は白山市で仕事を見つけられて、週末は時間があったから。それに、避難して知り合いがほとんどいなかったから、新しいコミュニティができていろいろな話ができるようになってよかったです」と話していました。そして「あそこで受付をしている方も、避難してきた方ですよ」と教えてくれました。

ボランティアというものは、自分に余裕がないと難しいと思っていた私にとって、被災者の方が生活を建て直しながらボランティアとしても活動していることは驚きでした。でも、この日炊き出しに並んでいた方とも、被災者同士だからこその悩みを話している姿を見て、大変な状況でもボランティアをする理由が少しわかったように感じました。同じような困難を抱えた人と話ができること、そして頼られ、感謝されること。自身が大変なときだからこそ、誰かの力になれることで新たなつながりが生まれ、それが大切な拠り所になるのかもしれません。

非日常が日常の風景になるということ

「おかわりしてもいいですか?」うどんを配っている長机に、小学生ぐらいの男の子を連れたお母さんがやって来て言いました。「もちろん! どの具をのせる?」とスタッフの方に聞かれると、男の子は「これと、これ」と、トッピングを指差して選んでいました。

この日センターを訪れていた方たちは、お母さんと一緒の小さな子どもから、学生、年配のご夫婦、1人で来ているおばあちゃんまで、さまざまな年齢層でした。震災から半年の月日が経ち、当然ですが、見た目には普通の暮らしを送っている人と違いはありません。でも、それぞれにすごく大変な思いやつらい思いをしてきたんだろうな、と思うと、私は何と声をかけるのが正解かわからず、なかなか話しかけられずにいました。

それでも思いきって、1人の女性に「どちらからいらっしゃったのですか?」と声をかけてみました。その方は輪島市で被災して、いまは金沢市内でみなし仮設に入居していました。「家の被害は住めなくなるほどではなかったけれど、職を失ってしまったので輪島に戻るかどうかわからない」と話してくれました。「私はライターをしていて、今日はお手伝いをしながらみなさんにお話を伺わせていただきに来ています」と説明すると、「話を聞いてくださってありがとうございます」と答えてくれたのが、とても印象的でした。この連載で執筆者の二角さんも書かれていたように、被災地の方々はこのまま忘れられるんじゃないかという不安を抱えているからこその、感謝の言葉かもしれない。被災地や被災者がいまどういう状況なのか、自分の目で確かめ、話を聞き、伝えることで、自分も少しでも力になりたいと、改めて思いました。

輪島市の門前町から避難しているという若い男性は、地元に留まりたいというパートナーとは震災後ずっと別居が続いていて、意見もすれ違い、離婚することになった、と話していました。

また別の女性は、珠洲市から避難していて、わが子のように手をかけて育てていた植物の世話のためにたびたび自宅に帰っていると話してくれました。まだ自宅の上下水道は復旧していないけれど、井戸水を使って水やりをしているそうです。でも、もうすぐ自宅を取り壊すことが決まったので、今後はどうすればいいかわからないとつらい心境を語ってくれました。お金や手続きの問題で、仮設住宅への入居申請もできておらず、「悩みは尽きない」と困った顔で笑っていました。

センター前に設置されたテントにぶら下がった風鈴の音を聞きながら、「おいしいね」と顔を見合わせてうどんやおにぎりを食べる姿。「ごちそうさまでした!」とあいさつをしながら見せてくれた笑顔。みなさん元気に明るく振る舞われていましたが、直接お話を聞いてみると、その姿からは想像もできないような苦悩や困難を、それぞれが抱えていることをまざまざと実感しました。

炊き出しの翌日、私は珠洲市と輪島市を訪れました。車を運転していると、隆起しひび割れた道路や、瓦屋根にブルーシートのかかった家屋が目に入ります。半島を北上していくにつれその数は増えていき、倒れた墓石や1階部分がつぶれてしまった家々も、まだそこかしこにありました。最後に足をのばした輪島朝市の、6月からやっと公費解体が進み始めた火災現場では、たくさんのショベルカーの隙間から黒ずんだ地面がのぞいていました。

震災から半年経ってもなお残ったままの、倒壊した建物やがれきの山。この風景が日常となり、やがて見慣れていく、というのはどんな気持ちなのだろう……。その気持ちのせめて一端をすくい上げ、1人でも多くの人に伝えるためにも、また能登を訪れたい。夜の海を照らす満月を眺めながら、そう思った帰り道でした。

文/那須 あさみ

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