猫から教わる「ただ、いるだけ」の価値。『猫社会学、はじめます』
初めてペットを飼ったのは、小学3年生の時だ。母が、地元新聞の紙面で「子猫、差し上げます」の募集を見つけて、メスのシャム猫を譲り受けてきた。初めて見た彼女は、洋画に出てきそうなくらい美しい猫だった。瞳は南国の海のように透き通ったブルーで、毛色は銀色に輝いていた。耳と手足、尻尾は濃いチャコールグレーでグッと引き締まって見える。鳴き声から「ミュウ」と名付けた。彼女と暮らしたのは、大学卒業後に家を出るまでの13年間。その5年後に老衰のため亡くなった。
今思い返すと、ミュウは美しくも凶暴な猫だった。
家の中を歩いていると、よく足首に襲いかかってきた。細かく揺れる物体に狩猟本能が刺激されるのか、大笑いしていると、必ずと言っていいほど狙われた。
レスリング選手ばりに前脚で私の足首をホールドし、後ろ脚でふくらはぎをガシガシと蹴ってくる。凶暴さは屋外でも発揮された。鳥や虫、蛇などと戦っては、戦利品を持ち帰ってきた。私や母の悲鳴が上がり、家の中に戦慄が走る。
高校生のとき、猫を飼っていない友人から「猫の何が良いの?」と聞かれたことがある。ミュウは私たち家族から、1点の曇りもなく愛されていた。確かに、彼女の持つ凶暴さをひっくり返すくらいの「愛おしい理由」があるはずなのだ。
そこで、考えつく限りの「愛おしい理由」を並べ立てた。私があぐらをかいて座っていると、太ももの間にすっぽり入ってくる時の、たまらない可愛さ。夜寝ていると布団にもぐりこんできて、私の腕を枕にして、前脚の肉球をほっぺたにくっつけてくる時の、たまらない癒やし。私が親に叱られて泣いていると、膝にそろーりと乗って顔を覗き込んでくる、たまらない心強さ。
しかし「たまらない」の部分をうまく説明できなくて、もどかしかった。
『猫社会学、はじめます』を手に取った理由は、うちの猫の、ふんわりぼんやりした「たまらなさ」をもっとくっきりと理解したいと思ったからだ。編者である赤川学さんは「猫社会学」を、「猫好きの、社会学者による、猫のための社会学」と定義づけている。本書の中で、赤川さんを含めた5人の猫好きの社会学者が、猫カフェや猫島、猫が登場する回の『サザエさん』180作品を研究材料にして「いかに猫が人にとって特別な存在であるか」について、考察している。
中でも印象に残ったのは、出口剛司さん執筆の第5章だ。出口さんの専門は、文明と自然の関係を中心とした研究「批判理論」である。その「批判理論」の観点から、猫という存在についてこう説明している。「猫は、身近な『自然』で、もっとも具体的な『他者』である。猫と毎日向き合うことによって、文明や人間を見つめ直すことができる。猫そのものが『哲学的な存在』である」と。
改めて「自然への向き合い方」と「猫への向き合い方」について、考えてみた。たとえば、急に雨が降ってきたとしても、空に文句を言う人は少ないだろう。責める相手も、対策できるのも自分だけだ。「天気予報をチェックしておけばよかった」もしくは、「今度から折り畳み傘をカバンに入れておこう」などと考えるかもしれない。人間は「自然」を操れないのだ。「猫」に対しても同じことが言えそうだ。
当時、私はミュウと、どう向き合っていただろうか。手首や足首を噛まれた時に、どう考えていたか。「なるほど、野生動物は獲物の『首』を狙うというが、手首・足首とはよく言ったものだな」と、感心していた。そのうち、彼女が噛みたくなるトリガーが分かってきて、対策できるようにもなった。ミュウが戦利品を咥えてリビングに現れた時も、凛とした姿に動物としての有能さを認めていた気がする。怯えて叫ぶこちらのほうが不自然なのだ、とも感じていた(しかし叫ばずにはいられなかった)。あの頃の私は、彼女を「凶暴な猫」ではなく、「自然でありのままの存在」として捉えていたのではないか。
猫はなぜ、たまらなく愛おしいのか。私なりの解を出してみると、「ただ、いてくれるだけでいい」と、思い合える関係でいられるから。
猫は、自然で揺るぎない自発性を持っている。高級猫缶やふわふわクッションを賄賂に差し出そうが、何者にも媚びたりしない。明日の天気のように、人は猫のありのままを受け入れるしかない。では、猫と人とのコミュニケーションは成り立たないのかというと、そんなことはない、と思う。たとえば、猫が「撫でてもいいけど?」というときは、ぎりぎり手を伸ばせば届くところに居る。そっと手を伸ばして撫でると、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らすのが常だ。それより数センチ離れて、私が体を動かさないと触れない距離に居るなら「そばに居たいけど、触ってほしくはない」の意思表示だ。無理に触ろうとすると、サッと逃げてしまう。「ひとりにして」の気分のときは、姿さえ見せない。
よくよく考えると、猫との暮らしは、言葉を超えた、究極の信頼関係を実現しているのかもしれない。私たちは誰かと関わるとき、つい欲張りになって、勝手に期待したり失望したりしてしまう。猫と人の関係は、人と人にも適用できる、理想的なコミュニケーションの形なのではないか。先ほど帰宅した高校生の息子に話しかけたら、プイッと冷たい対応であった。ふとキャットタワーを見上げるとわれ関せずで背中を丸めて寝ている猫がいる。賢者がその背中で、「ただ、いてくれるだけでいい」の哲学を表してくれているようだ。
9年前から、メスの三毛猫が家族に加わった。ありがたいことに、爪も立てない控えめな性格の猫だ。しかしやはり、先猫と同じく「私が決める」の自発性は、強い。暖冬になってきたからか、昨年の冬など2回しか布団に入ってきてくれなかった。これまでも「たまらなく可愛い」と思ってきた彼女だが、本書を読了した今、その瞳と毛並みに威厳に満ちたオーラさえ感じる。今日もまた、「ララ!」と名前を呼んでもあちらを向いたまま寝ているが、尻尾だけは振ってくれる。そうか、それでいいのか。あなたがあなたのままで、そこに居てくれるだけで。
文/横石 愛
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