
『小学校 それは小さな社会』が教えてくれた本当の小学校の姿
日本人の “日本人らしさ” は、いつどのように私たちの中に作られるのでしょうか? 生まれ持ったものなのでしょうか。それとも、成長する過程で学んだものなのでしょうか。
この作品の短編版は2025年3月3日(日本時間)に開催される第97回米国アカデミー賞にノミネートされています。監督の山崎エマさんはドキュメンタリー映像の監督です。ニューヨーク大学を卒業後にそのまま米国で映像制作の世界に入りました。これまで監督した長編映画は2作品とも海外で注目され、今回ついにアカデミー賞にノミネートされています。『小学校 それは小さな社会』は、小学校の中で小学生や先生方を1年間撮影したドキュメンタリー映画です。700時間にわたる撮影を行い、短編版ではこれをなんと約22分半にまとめています。僕はこの作品の長編99分の映画を見てきました。
ドキュメンタリーは東京都の世田谷区立塚戸小学校が撮影場所となっています。おそらく教育委員会にかけあって許可をもらったのだと思いますが、許可をもらうだけでも大変な苦労があっただろうと想像します。自分の子どもが撮影対象の小学校に通っていたとして、この映画の撮影に果たしてOKを出せるのか、僕は自分でも分かりません。
映画は、ある少年が小学校に入学する準備をしているところから始まります。この子と同じ世代の子どもたちが小学校に入学し、段々と小学校での生活が始まります。カメラは1年生を中心に沢山の子どもに満遍なく向けられていきます。
放送室の窓から新1年生を眺めながら「私たちってあんなに小さかったっけ?」と話す、6年生の男女。1年生よりは理路整然とコミュニケーションを取れる6年生ですが、彼らもそれぞれに苦労や葛藤があります。その悩みの種類は、1年生とはやはり違ったものなのでしょうか? 落ち着いて話す6年生の様子は、すでに日本人としての侘び寂びの精神が彼らの中に芽生え始めているようにも見えます。
1年生が入学してすぐにロッカーにランドセルを詰め込むシーンが映ります。ロッカーのサイズが少し小さくて、ぎゅうぎゅうに押し込む生徒たち。縦横の長方形のロッカーに曲線のランドセルがびちっとはめ込まれた状態は、まるで日本の教育を象徴した図のようです。
他にも”規律”という言葉が頭に浮かぶシーンが沢山出てきます。何の能力を高めるのに役立っているのか分からない規律は、自分の小学校時代にもいくつもあったことを思い出します。そのせいか、つい規律を排除する側に回りそうな自分が心の中に生まれてきます。映画のホームページには『私たちは、いつどうやって日本人になったのか?』というサブコピーがあります。海外から日本という国を見た時に、日本人の慎ましさや察する力など、日本人の特性が育まれた1つの要素は、こういった、一見すぐには役に立たなそうな規律の中にあるのだろうか? 規律の要不要に正解はありませんが、映像の中で成長していく子どもたちを見て、一概に不要だとも言えない気持ちが芽生えてきます。
ある男性の先生は朝早く学校に来て、朝日の赤みが残っている時間帯から教室を掃除し、乱れた机をぴしっときれいに揃えてから1日を始めます。時刻は午前6時くらいでしょうか。この時間にお給料は出ているのでしょうか? 誰もいない教室で机を揃えている彼の横顔を見ていると、まるで修行僧のように見えてきます。彼の朝のルーティーンを生徒は見る機会がないけれど、生徒と会話する姿勢からこの先生の礼儀正しさや丁寧さが伝わってきます。生徒と向き合う時の所作を内面から作り上げていく先生のひたむきさは、どこかで教育として生徒の人間形成に役立っているような気もします。
もうじき新1年生を迎える頃、入学生を歓迎する演奏隊のメンバーとして立候補し、校内のオーディションを受けた1年生のあやめさん。オーディションには受かりますが、途中、演奏にとても苦労し、担当の先生も厳しく言うので何度も泣いてしまいます。人によってはこういった先生の対応も厳しすぎると言う人もいるかもしれません。しかし、あやめさんは難しい状況を乗り切り、最後は嬉しそうに担任の先生に抱きつきます。泣くほど悔しい思いをしながらも鍛錬する経験を積めたあやめさんを、僕は羨ましく感じました。そして、先生の厳しくも注意深く言葉を選び、成長を促しながら対話する指導の仕方が素晴らしいと思いました。
僕たち大人のほとんどは、会社で売上や業務効率を上げれば一応は評価してもらえます。学校の先生はどうでしょうか。子どもが泣かなければよいのでしょうか。親から文句を言われなければよいのでしょうか。授業中に騒ぐ子がいなくなればよいのでしょうか。そのどれもが、どこを刺激すればどんな結果が得られるのか、何ひとつ確かなことがないまま先生方は仕事にあたっています。売上や業務効率を上げるだけでも大変な思いをするのに、学校の先生はどれだけ大変なのでしょう?
先生方も自分たちの行った教育や指導が、本当に正しいのかは分からないのかもしれません。全ては手探りの中で生徒と向き合うのです。6年生の卒業が近づいた日、ある先生は最後のあいさつで泣きながら言いました。「僕は、君たちが好きだ」と。その先生は涙のあまり、なかなか言葉を先に進められずにいます。この先生が最後に伝えたことは、君たちを愛しているよということでした。この先何十年と経った時に小学生時代を振り返り、細かいことはあまり覚えていなくても、このことだけを思い出せれば人は前を向いて人生を歩んでいけるのかもしれません。
これだけ感動して涙した映画なのですが、僕はこの映画が沢山の方に見られることに、一抹の不安も感じます。映像を見て、小学校の教育について疑問を感じ違和感を覚えるところも多々あります。しかし先生たちも一生懸命考えながら、現場で毎日、ギリギリの判断を繰り返しながら教育にあたっています。”教育”するという態度そのものは正しいのか? というレベルの疑問も浮かびます。しかし少なくとも毎日子どもたちに触れて対話しながら仕事をされている先生たちより、僕自身は素人です。そんな僕が「このやり方は間違っている」などと安易に意見をして、先生たちの仕事を邪魔してはいけないと感じました。教育に直接関わっていない人でも意見が言えることは良いことだとは思いますが、それによって現場で命を削って頑張ってくださっている先生方に、悲しい形でプレッシャーが加わらないようにと、祈るばかりです。
知らない間に備わっていた日本人の日本人らしさは、毎日丁寧に子どもたちと向き合う先生たちの存在があってのものなのかもしれません。もしこの先生たちがいなかったら、私たちはどんな人間になっていたのでしょう。小学校の教育は完璧ではないかもしれませんが、僕は日本の学校の先生方全員に、まずは感謝したいです。
※短編版の『Instruments of a Beating Heart』はYoutubeで配信されています
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