
「スケールの大きな国際人を育てたい!」野球で世界16カ国を巡った国際スカウト・色川冬馬さんの挑戦【リレー連載・あの人の話が聞きたい/第7回】
9月19日、初の書籍 『たったひとりの独立リーグ野球改革』(亜紀書房)を上梓した色川さん。これが異色の経歴なのだ。キャリアの皮切りは北米からスタート。野球選手として海外4球団を渡り歩いた。その後、東アジアでナショナルチームの監督を歴任。独立リーグのゼネラルマネジャー(以下GM)を経て、現在はメジャーリーグの国際スカウトを務める。色川さんは、まだ35歳。なぜ、こんなにもアグレッシブな生き方を選べるのか。話を聞いた。
聞き手/相内 洋輔
自分を突き動かしてくれる「目標」から行動を設定
世界16カ国を渡り歩いた「国際派の野球人」がいる。メジャーリーグ球団「ミルウォーキー・ブルワーズ」で国際スカウトを務める色川冬馬さんだ。大学生まで日本で野球をした後、海外リーグに活躍の機会を求めた。
挑戦の始まりは16年前。憧れのメジャーリーグを目指し、仙台大学に在籍しながらアメリカでのトライアウトに参加した。当時は「Excuse me」くらいしか話せなかったそうだが、3年目の選考で合格。以降、北米4カ国のプロ・アマ球団でプレーした。
23歳で選手を引退した翌年からは、イラン、パキスタン、香港でナショナルチームの代表監督を歴任。全チームで国際大会の最高順位を塗り替えた。ナショナルチームの監督を3カ国で務めた日本人は彼が初めて。
イランでの監督就任は波乱のスタートだった。就任は確定だと聞いて準備を進めたのに、実際はそうではなく、担当者の思いだけが先走っていたと判明した。
「人生がガラリと変わるかもしれない。それくらいの期待感があったので、本当にがっかりしました。それでも、お世話になった方々には監督になりますと伝えていたし、そう簡単には引けませんでした」
現地に行って直接交渉するしかない。片道の航空券を手にイランへ向かった。
しかし、なかなか事態は好転しない。協会の責任者には、自分の存在すら認識されていなかった。用意された寮に滞在しているだけではダメだと悟った色川さんは、まだ野球がメジャーではない当地で野球教室を開催すると決め、イラン国内を20都市ほど飛び回った。ペルシャ語で手書きした、野球の説明書を抱えて。
「国際大会で勝ち抜くためには人材の底上げや発掘が欠かせないと考えたからです。当時のイランの野球人口は多く見積もっても500人程度。フットサル場を借りて参加者を待っていたら、フィールドに現れたのはたった一人だった日もありました。野球を教えるだけではなく、自分という人間が何を目指してここに来たのか、イランのためにどんなサポートが出来るのかを、行く先々で関係者に伝え続けました」
その指導力や熱意が認められ、正式に監督として採用された。

世界を歴訪後、日本の若手選手に「海外への登竜門」を提供
ユニークなのは球歴だけではない。代表的なプロジェクトは、『アジアンブリーズ』と名づけた3週間のアメリカ遠征。「日本の若手プレイヤーに海外移籍のきっかけを提供したい」と、2019年に活動を始めた。主な対象者は、プロ野球12球団を戦力外となり所属先を探す選手や、独立リーグからステップアップを目指す選手だ。
「私は20代前半までに4つの海外球団でプレーできました。その経験が現在のキャリアにつながっています。だから日本の若者にも、もっと海外に挑戦してほしかったんです。世界を見渡せば、活躍できる場所が必ずありますから」
遠征先は早春のアリゾナ州。メジャーリーグ傘下の球団はもとより、メキシコ、韓国などの球団にも人気のキャンプ地だ。理想的な気候を求め、世界中からプロチームが集まる。
色川さんはこうしたチームと入念に交渉し、毎年15試合ほどの対戦をプロデュースしている。参加選手25名のプレーを、各球団の編成担当にチェックしてもらうためだ。
旗上げ初年度は、「ロサンゼルス・ドジャース」の若手と対戦する機会に恵まれた。リーグ優勝25回を誇る、米国屈指の名門球団である。
当日はデーブ・ロバーツ現監督など、著名な関係者が何人も観戦に訪れた。他の取材で訪米していたドジャースOBの斎藤隆さん、千葉ロッテマリーンズで活躍した黒木知宏さんも、噂を聞き駆けつけてくれた。
「グラウンドでは未来のメジャーリーガーと、這い上がりたい日本の若者が真剣勝負をしている。スタンドでは編成スタッフが各選手のプレーを吟味している。その光景を見て、野球人として胸が熱くなりました。日本の選手がアメリカで試合し、スカウトに視てもらえる機会なんてありませんでしたから」

19歳で単身渡米。費用を「クラウドファンディング」で調達
万感の思いがこみ上げたのは、色川さん自身がトライアウトで様々な苦労を味わったからだ。初選考に挑んだのは19歳の時。意気込みとは裏腹に、短距離走で太ももの裏を肉離れしてしまった。日本に戻る以外の選択肢がなかった。
悔しさを胸に翌年も渡米。体調は万全だったが、合格は勝ち取れなかった。参加費を払ったのに、スカウトが誰一人として姿を見せない日もあった。それでも、一度定めた意志は揺るがなかった。
再び帰国した色川さんは、どうしたら練習を疎かにしない形で渡航費を集められるかを検討。T シャツなどの個人グッズを自作し、地元仙台市の財界人に、支援をお願いして回った。言わば「手売りのクラウドファンディング」だ。まっすぐな姿勢が気に入られ、遥かに年上の経営者たちが、何人もサポーターになってくれたと言う。
こうして3度目の挑戦を敢行、ようやくプロチームからオファーをもらえた経緯がある。だから、日本の若者が参加しやすい「新しいトライアウト」を提供できたことが感慨深かった。しかも、4人の選手が、北米やメキシコ、オランダなどの球団と契約を結べた。
実績が評判となり、以降の5年間で国内外の219選手がプログラムに参加。うち42人が新天地へと羽ばたいた。マイナー契約ではあるものの、メジャーリーグ球団に入団した日本人選手もいる。
独立リーグ所属チームのGMに就任し「選手育成の手腕」を発揮
アジアンブリーズを始動させた翌年。色川さんはルートインBCリーグ「茨城アストロプラネッツ」のGMを任された。興行や編成など、球団運営の根幹を司る要職だ。30歳での就任は異例。
日本には、NPB(日本野球機構)に属さないプロ野球リーグが複数存在する。それらを総称して「独立リーグ」と言う。同球団が所属するルートインBCリーグは、その中でも最大規模。チーム数、観客動員数などでトップの存在だ。
各球団のGMや監督は、WBC元日本代表のレギュラーや、人気球団の元4番バッターなど、球史を彩るスターたちが数多く務めてきた。比べると、色川さんはかなり若い。それにも関わらず、在任した4年間で、7人もの選手をプロ野球12球団へと送り出せた。
独立リーグの在籍選手の多くは、このステップアップを目標としている。ただ、ドラフトは狭き門。「独立リーガー100人のうち、1人にチャンスがあるかどうか」だ。茨城アストロプラネッツの所属選手が40人弱であることを考えれば、4年間で7人のプロ入りは快挙。秘訣は育成メソッドにある。
「アストロプラネッツでは、プロ入りに必要な筋力や球速などの目標数値を、選手ごとに設定します。そして、期日から逆算してトレーニングを組み、検証と改善を繰り返すんです」
指導法をスタッフ一丸で確立し、ブレずにやり抜いたことが成果につながった。
球団の新監督を公募し「NHK職員」を招聘
また、任期中にチームの「新監督」を公募。意表を突く人選が話題を呼んだ。99人の応募者の中から、NHKで番組ディレクターを務めていた伊藤悠一さんを抜擢したのだ。伊藤さんにはプロ選手としての経験もなければ、野球を指導した実績もなかった。常識を覆す試み。
「勝算はありました。TVのディレクターは番組の目的を達成するため、出演者やカメラマン、音響や照明などの各セクションを方向づけ、それぞれの能力を引き出します。そのノウハウはきっと監督業にも転用できる。足りない知識は専門のコーチ陣が補えます」
伊藤さんは『クローズアップ現代』や『プロフェッショナル 仕事の流儀』などの番組制作に携わってきた、30代中盤の働き盛り。質問の受け答えが圧倒的にスマートだったこと、マネジメント能力に長けていたことが採用の決め手だった。もしビジネスパーソンが成果を出せれば、閉じがちな野球界にも、もっと外部の知見を取り込めると考えた。

ただ、残念ながら期待したほどの戦績はあげられなかった。試合の流れは1球ごとに変わる。その変化に対応しきれず、判断が後手に回ってしまうケースが多かった。
「実はけっこう叩かれまして……、なかなか辛かったです。伊藤監督にも大変な思いをさせてしまいました。ですが、社会に変革を起こすためには、リスクを受け入れ挑戦する必要があります。私の命は、まだこの世界に存在していない取り組みを創るために使いたい。今後も新規性の高い施策や、良いインパクトが生まれる活動を手がけていきたいです」
プロ12球団のGM職を目指し「メジャーリーグのスカウト」へ転身
色川さんには目指す頂がある。「プロ野球12球団いずれかのチームでGMに就任する」ことだ。
「海外で過ごした経験から『世界全体に良い影響を与えられる、スケールの大きな国際人を育てたい』と考えるようになりました。スポーツという分野から、国際社会における日本のプレゼンスを高めたいと思っています。そのためにこの目標を掲げました」
プロ野球12球団のGMになるのは並大抵のことではない。主には親会社の重役か、王貞治さん、落合博満さんなど、球界のレジェンドが就いてきたポジションである。このどちらでもない人間が座を射止めるには、相応の証明が求められる。だから、数年の歳月をかけて、壮大な目標へ向かうためのマインドセットを練り上げた。
腹を括った以上、立ち止まっている時間はない。重要なのは、目指す地点の解像度を高め、いつまでに何を習得する必要があるかを細分化し、高速でPDCAを回し続けること。
「自分の現在地と目標までの距離が分かれば、時間の使い方が変わり、生き方そのものが変わる。指導した選手にはこう伝え続けてきたので、私も行動で示すと決めました」
2025年3月。「どうすれば道が開けるか」を考え抜いた色川さんは、メジャーリーグ球団「ミルウォーキー・ブルワーズ」の国際スカウトに転身した。
「メジャーの興行思想と手法を身につける。それらを日本流にアレンジし、球界の発展に貢献する。これができるようになれば、アンダードッグな自分にもチャンスがあるはずだ」と見立てた。
メジャーリーグはエンターテインメントの頂点である。市場規模はざっと日本の9倍。1兆8,800億円もの売り上げを誇る。そのダイナミックさと緻密さを兼ね備えた、「興行の真髄」を学び尽くす決意だ。(了)

色川 冬馬(いろかわ とうま)
1990年生まれ。宮城県仙台市出身。仙台大学に在学中に、メジャーリーグを目指し単身渡米。アメリカやメキシコなど4つの海外球団でプレーした。選手引退後は、アジア諸国で代表監督を歴任。茨城アストロプラネッツのゼネラルマネジャーを経て、2025年からはミルウォーキー・ブルワーズの国際担当スカウトを務める。アジアンブリーズCEO / 群馬ダイヤモンドペガサス会長付特別補佐。2025年9月19日に初の著書『たったひとりの独立リーグ野球改革』(亜紀書房)を上梓。
執筆/相内 洋輔
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