
神に身を捧げた人間たちの、献身の物語―映画『プラダを着た悪魔2』
5月1日の封切から、2週間の間で2回観た。
良かった映画は何度も観たい。
前回観えていなかったところに目を凝らしたくて、また、あの暗闇の中に座る。
ちなみに、20年前の記憶を呼び起こすべく、前作も観た。前作を観てから2を観て、もう一回前作を観て、2を観る。合計458分、約8時間。観すぎか。
華麗なファッション、登場人物の成長、豪華なカメオ出演者、出版業界の凋落やハラスメントなどの時代性…この映画を語る側面はいくらでもあり、ファンが多いのもうなずける。
一回目を観終わった日、私は胸を張り、カツカツとヒールの音をたてながら大股で映画館を出た。早く仕事をしたい。苦悩しながらも情熱をもって働く彼・彼女たちの姿は心に火をつける。
二回目。
スクリーンに観えたのは、「神に身を捧げ、神に近づく人間の物語」だった。
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私はキャリアを専門とする企業研修講師をしているのだけど、仕事への向き合い方には深度があると思っている。
やるべきだからやる。
やりたいからやる。夢中になる。愛する。
身を捧げる。
そして、憑りつかれる。
深くなるほどに、「自分」の存在は薄くなる。
『プラダを着た悪魔』シリーズのミランダとナイジェルは、献身の人だ。原作タイトルの『悪魔』は、もともとパワハラ上司への揶揄だった。でも、ミランダは悪魔どころか、モードという神に身を捧げた人に見える。その「極めぶりが悪魔的」と言いたくなるほどに。
献身の「献」の字には、「神仏への供物を差し出す」という意味がある。ミランダがモードに捧げているのは、まさに自分自「身」だ。
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【以下、ネタバレを含みます】
アンディはどうか。
志したジャーナリストの道を歩み、20年後、名誉ある賞を取るほどに献身したのはジャーナリズムという神だ。
ネタバレになってしまうけれど、この映画で『ランウェイ』誌が危機に陥ったのを救ったのはアンディ。その際、救済の打ち手の例えとして使われた言葉は「聖杯」。ナイジェルがアンディに言った、「心が清らか、私の秘蔵っ子だ」という言葉は、『アーサー王物語』において、聖杯を掴めるのは「心が清らかな者」だけだというエピソードと重なる。
そのうえで、ミランダはアンディに言う。「(『ランウェイ』を救ったプロセスを通して)本当に救ったのはあなた自身よ」と。献身とは、自分を差し出すこと。その行為が、結果的に自らを救ったのだ、と。
キャリアコンサルタントと同時に、山で修行する行者(山伏)として生きる私の活動のテーマのひとつは、「仕事と人生の意味」を問うプロセスに立ち現れる、「自分を超えた何かへの帰依」だ。
仏教でいう「無我」、ユング心理学でいう「自我を超えた自己との合一」、ポジティブ心理学の祖・セリグマンがWell-beingの核心に置いた「自分を超えた大いなるものへの奉仕」——それぞれにアプローチも世界観も違う。けれど私には、どれも自己中心的な欲望を超えた先にある何かを指し示しているように思える。
神(のようなもの)に身を捧げる。それが結局、自らを救うこととなる。
エミリーはどうだろう。彼女は「ランウェイのアイコンとなる私」が目標だった。だから、ランウェイが揺らぐと自分も揺らいだ。
ただ、人はきっと、最初から何かへの献身などできない。私たちはエミリーを通って、ナイジェルの助けを借りたりしながら、アンディに、ミランダに、なりえるのだ。
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『プラダを着た悪魔』が仕事へ献身する人たちを描いているとするならば、昨年これまた映画館へ2回足を運んだ『国宝』の喜久雄は、「憑かれた人」だ。歌舞伎の神に飲み込まれ、人間から化け物へと変幻した。だから美しく、恐ろしく、観る者に「あんな風には生きられない」と思わせる。
『アーサー王物語』で聖杯を掴んだガラハッドは、その後昇天し、人間界には戻らなかった。でも、アンディは「不完全な人間として」戻ってくる。私たちは、神にはなれない。それでいい、とこの映画は語りかける。
観終わって元気が出る映画と、圧倒される映画の違い。
それは、献身が手を伸ばせる場所にあるからだと思う。
狂気には、おいそれと手が出せない。ただただ圧倒されて、息を呑む。
でも献身なら、私にもできるかもしれない。
自分の信じる何かに、この身を捧げることなら。
文/渡辺 清乃
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