
心に白旗を揚げた日、子どもとようやく目が合った 『想像の上をいくアウトプットを引き出す 編集者のフィードバック』
バタンッ!
4歳の息子が、トイレに立てこもった。
「ぜぇぇったい、いかないんだから!」
扉の向こうから響く絶叫に、私は大きなため息をつき、膝から崩れそうになるのをこらえた。やってしまった。私の負けだ。
この日、息子が楽しみにしていた習い事があった。準備万端だったのに、出かける直前、気づけば彼が工作に没頭していた。予想外の展開に焦りながら、「出かけるよ」と声をかけると、「いかない!」と返ってくる。「あと5分ね」と譲歩したが、この日はその延長でもだめだった。 子の言いなりでは、親としての威厳にかかわると反射的に思った私は、すぐさまモードを切り替えた。イソップ寓話の『北風と太陽』の、心をほぐす「太陽」から、すべてを力ずくで解決しようとする「北風」へ。そんな私の口から出るのは、子どもの心を冷え込ませるだけの「正論」ばかりだ。自分でやると決めたのに。お月謝も払っているのに。それでも動かず、抱きかかえようとすると、彼はその手をすり抜け、脱兎のごとくトイレへ駆け込んだ。
戸を閉めるやいなや、自分にとってどれだけ工作が大事か、懸命に訴え始めた。ドアの前に立ち尽くすしかなかった私は、息子の気持ちをただただ聞いた。「せっかくお気に入りを作っているのに! そのことをお話ししようとしているのに! 最後まで聞いて!」息子の言い分ももっともで、ぐうの音も出ない。状況に過剰に反応し、「どうやって連れていくか勝負」を勝手に始めたのは私だ。そう気づいて、私は、北風モードを完全にオフにした。武装解除だ。私の心持ちの変化が伝わったのか、はたまた、言い尽くしたのか、声が止み、一拍おいて静かに戸が開いた。穏やかな目でこちらを見つめる息子が、くったくなく「いこっか」と言う。こちらが改めて伝えずとも、出発時間であることはもう伝わっていた。
*
トイレのドアが閉まった時、私の頭にすぐさま浮かんだのが『想像の上をいくアウトプットを引き出す 編集者のフィードバック』の教えだった。著者の佐渡島さんは、「伝える時こそ、聞く」の大切さを説く。話し手の伝えたい内容が「伝わる」ためには、聞き手側の心の準備が大切だという。聞き手の中で反論が生まれたら、その先はもう聞く耳を持たない。だからこそ、伝える前に、伝える相手の胸の内を洗いざらい聞く。そうして初めて聞き手の「耳が開く」のだそうだ。私が途中で試みた「武装解除」も、「伝わる」ための必須要素。それらが功を奏した。
また本書は、「感想」によって作家の能動的な気づきや変化を引き出す編集者の姿勢を描いている。著者は、正解のない分野では、正論やアドバイスではなく、感想を伝えることが効果的だという。感想なら、上下になりがちな関係性を水平に保ち続けられるのだ。この関わり方は、会社、学校、家庭など、人を育てる場面のどこにでも生かせる。私も、子育てを始めて以来、ずっと抱えていた悩みの解決の糸口を本書に見出した。教育現場に10年間いた私にとっての悩み。それは、本書で示される姿勢を、「先生」としては生徒にできたのに、「母」として、子どもにできない点だ。 何が違うのか。
解決のヒントは、「感想」をうまく機能させるという「雑談」にあった。私は雑談が何より苦手で、特に四六時中、顔を合わせている家族と、何を話題にしたらいいか分からなかった。
雑談がうまくいくかどうかは、「相手をどうほぐすか」ではない。「自分がどれだけ心を開けるか」にかかっている。
この言葉が、教員の頃の私と、母としての私の差を明確にした。何を話すか以前の問題だった。母としての私は、親としての威厳を保とうと必死で、母が子に心を開くなど、考えたことすらなかった。何をこんなにも守ろうとしているのか。こう問うたとき、真っ先に思い浮かんだのは、今の息子と同じ、4歳の私だった。当時、「いい子」にならないと居場所がないと思っていた。その頃の私に語りかけるように、「もういい子にならなくて大丈夫」と言うと、つーっと涙が頬をつたった。「いい子」の地続きに、「いい母」があり、力みすぎていたのかもしれない。そう気づいたら、著者が述べる、「些細なことを面白がる」という雑談のコツが心に響いてきた。
そんなある日、息子が摘んできたタンポポを洗面所に飾ると、部屋が暗いので、花が閉じた。「寝ちゃったんじゃない?」という息子に「え、夜だと思ったのかなぁ?」と聞くと「疲れてたんだよ」などと言う。部屋が明るくなるとまた花が開くので、タンポポを見ては、2人でとりとめもない会話を重ねた。このような雑談が、たびたび、我が家にも生まれるようになった。そして、その間は息子と横並びになれている気がする。
著者は、自分の理想を知り、その一点を目指して、推敲し続けられる作家が一流だという。私も、子どもの主体性を引き出せる母でありたい。また、自分の目指す母像に向かって、日々、自分の在り方、育てる力を更新していきたい。
文/下川 真喜子
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