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自分に関係ない、すぐ役に立つわけでもない。遠くの誰かの話が、なぜ心に響くのか【連載・欲深くてすみません。/第43回】

フリーランス11年目を迎えたライター・編集者のちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、自分には関係のないはずの話を読みたくなることについて考えています。

自分の興味や好みの外にある情報が、どんどん目に入らなくなっていく昨今。私に関係のある情報は、もはや検索するまでもなくアルゴリズムによって勝手に表示されるし、具体的な困りごとならAIに聞けばかなりのところまで解決できる。

今すぐ役立つ情報を手に入れるのには、ものすごく便利な時代になったなあ、と思う。

ただ、ふしぎなのは「自分に関係のある話」だけに囲まれていると、息苦しくなることだ。必要なものが必要なだけ届くのだから、満足してもよさそうなのに、むしろ、自分とはまるで異なる境遇にいる人の話を聞きたいと思ってしまう。

自分に関わりのないはずの話を、すぐに役立つわけでもない話を、なぜ求めるのだろう。

そう考えたとき、思い出す取材がある。

とある女性著名人のエッセイを読み終えた朝、懇意にしている編集者に「この方を取材したい」とメッセージを送った。

自身の人生について、赤裸々に語られた一冊だった。中でも私が強く心を動かされたのは、不妊治療について書かれた箇所である。このことを、より深く聞きたいと思った。

企画というほどでもないメッセージには「媒体読者の関心が高いテーマ」「女性の生き方を考える」などとそれらしい言葉を並べたが、実際は、そうしたマーケティング思考からは遠く離れたところに私の衝動はあった。

企画会議に通り、取材を打診し、先方からも快諾の返事をもらったところで、はたと立ち止まった。詳細の質問項目を練り始めたものの、どうにも違和感がある。

というのも、私は不妊治療の当事者ではない。

その経験はないし、実のところ将来的に子どもを望んでいるわけでもないので、不妊治療に関する情報が欲しいと思ったことはないのだ。

では、何を聞きたいのだ、私は。

取材対象者についてリサーチするよりも先に「自分への取材」が必要だった。私はなぜ、自分には「関係のない」はずの文章に、こんなに強く突き動かされているのだろう。これまで不妊治療の記事を熱心に読んだり、検索したりしたことはなかったはずだが?

記憶を遡った。そして、自覚せずに自分がやっていたことに気づいた。

以前、ニュースサイトのトップページで、不妊治療の体験談記事について見かけたときのことである。私は記事の本文には目を通さずに、当たり前のようにコメント欄を開いた。

ある言葉を探していた。必ずあるはずだ。

そして、共感や思いやりのコメントたちの中に、仄暗く不気味な雰囲気を漂わせている、それらを見つけた。

「子どもを産みたいなら、どうしてもっと早くから準備しなかったんですか?」
「みんな先のことを考えて20代のうちから動き出しているのに、考えが甘すぎる」

必ずこういう類のコメントをする人がいる。タイムリミットのある妊娠・出産の話題に対しては顕著だが、それだけではない。キャリアのこと、お金のこと、結婚やパートナーのこと。人生のあらゆる選択に対して「なぜ、もっと前から準備しておかなかったのか」「あとで後悔してもしらないぞ」と、まるで鬼の首をとったかのように現実を突きつける言葉がある。

私はそういう“悪意”を、いつも無意識に探していた。わざわざ探して、見つけて、勝手に傷ついていた。

なぜだ?

なぜ、わざわざそんなことを?

他人が非難され勝手に裁かれているのを見て、自分の中にある「裁かれたくない恐怖」を確かめようとでもしていたのだろうか。

人生は一方通行で、あとから大事なことに気づいても、時間を巻き戻して、もとに戻ることはできない。肉体、選択、人間関係、何だってそうだ。

私にもある。人から見たら大したことのない、でも自分にとっては取り返しのつかない選択の誤りが。そのときの最善を尽くしてきただけなのに、物事の善し悪しや優先順位を考えるものさしが突然ひっくり返り、価値観が丸ごと変わってしまう。そういう瞬間が、人生にはある。

それでも二度と時間を取り戻すことはできない。そして、過去の選択をあとから裁かれる。このことに、私は強く反応しているのではないか。

なぜ、本を読んで「取材したい」と強く思ったのか、何に突き動かされたのか、自分を取材して気づいた。私は著者の文章の中に「二度と戻らない時間と、それを受け入れられずにいた逡巡」を読み取ったのである。

取材準備の過程で、自分が何に反応しているかを言語化できた。そしてそれは、 自分の中に眠る、説明のつかない恐れを見つけることでもあった。

取材当日。時間も半分が過ぎたころに、私はこの個人的でとりとめのない思いを取材相手に話した。

「記事のコメント欄をわざわざ開いて、自分が傷つく言葉を探しているんです」

「あとから強く望んでも、二度と戻ってこない時間がある。それを突きつける言葉に対して、なぜかひどく動揺してしまうんです」

饒舌に話していた相手の表情が変わり、うーん、と考え込んだあと、しばらく無言が続いた。

そのあとの時間で、取材相手は自身の経験を、葛藤を、話してくれた。それはもはや、不妊治療の話だけにはとどまらなかった。その人固有の経験から発せられる言葉の数々は、独特の熱を帯びていた。

取材後、しばらく近くの公園のベンチに座っていた。都心の公園なのに、なぜか、ざあ、ざあと波が行き来する音が聞こえてくるような気がした。今思えば、それは単に自分の鼓動だったような気がする。

その人が見てきた景色を、私が同じように見ることはないだろう。私たちの事情は、あまりにも違いすぎる。

でも、その人の経験に対して「わかります」「私もそうなんです」と言えない私が、違いの中で「自分にも通じる何か」「自分に響き、跳ね返る何か」を探り当てたから、ああいう取材になったのだ。

このときの私の問いと、相手からの回答は原稿に書いたが、あまり情緒的になりすぎるのもどうかと思って端的にまとめるよう心がけた。ただ、それでよかったのか、今でも疑問が残る。私があの場で感じたことは、本来なら「端的に」まとめられるようなものではなかった気がする。

私たちはみな、それぞれ異なる世界を生きている。だけど、あるときその人生が少しだけ交差したり、接続したり、響き合ったりすることがある。

それはときどき遠くにいる思いがけない相手との間で、起きる。

人それぞれの悩みに対し、その人専用の情報を届けることは、これからますます容易になるだろう。でも、文章を読むことの面白さは、それだけではない。

「私向け」ではないはずの話の中に、思いがけず自分を見つける。
だから、面白いのだ。

自分とはまったく異なる人生に触れて、全部ではなくてほんの一部、自分に通じる何かに気づく。私はそういう瞬間が好きだし、たぶん、欲深いけどそういう原稿を書きたいのだと思う。

文/塚田 智恵美

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