
全身運動としての「書く」【さとゆみの今日もコレカラ/第 326 回】
31年ぶりに10キロ走った。高校の持久走大会以来だ。
4月からランニングを始めコツコツ走ってきたけれど、いつまで経っても長い距離を走れる気がしないと言ったら、優子さんが「じゃあ、一緒に走ろう」と誘ってくれたのだ。
優子さんは、40代になってから走ることを始めた方だ。100キロ超のウルトラマラソンや、山道を走るトレイルランニングをする人で、海外のレースにも参加する。
過去にさとゆみゼミに参加してくれたことがあり、「ゼミの課題より、100キロ走るほうがよっぽど楽だ」という名言を残した方でもある。
いやいやいやいや、100キロ走るのに比べたら全然楽でしょうと私が言ったら「走るのは右足と左足を順番に前に出すだけだから。でも、文章は書いたからといって前に進んでいるとは限らない。文章のほうが難しい」と、これまた名言を残して卒業された。
そういえばゼミの最中、優子さんからこんなことを言われたことがある。
「文章を書くときにはなんか魔法のようなやり方があって、それを教えてもらったら誰でもすらっと書けるようになるのだと思っていた。でも、やっぱり自分で書いて覚えるしかないんだね」
これには、なるほどと思った。優子さん、それはそうですよ。それこそ走るのと同じです。こんなふうに走ればいいですよーとレクチャーを受けたところで、マラソンを走れるようにいはならないでしょう。私はそう答えたけれど、いま振り返るとこの会話には、「書く」の本質がつまっている。
書くことは頭脳労働のように見えるけれど、実のところ、どこまでいっても肉体を使う行為だ。指先だけ、脳だけを使っては書けない。全身運動である。
そして走っているその瞬間だけ頑張ればいいわけではないところも似ている。マラソンを完走する人は、その日だけ走っているわけではなく、そこに至るまでにずっと走っている。
書くも同じだ。書いている1時間、2時間だけを頑張ればいいわけではない。これまでの人生で体験したこと思考したことを燃料にして書くことになる。
4月半ばに走り始めたときは、2分20秒で息が上がって死ぬかと思った。少しずつだけれど、長く走れるようになってきている。ちょっとだけ筋肉もついてきた。文章もそんなふうに目に見える変化があると頑張れるけれど、文章を書く筋肉は脚の筋肉ほどにはわかりやすく育たない。
そんなことを考えながら、小雨降る中、優子さんの背中をおいかけながら皇居を2周。終わったあとは二度と走りたくないと思ったけれど、次の日の朝になったら今日も走りたいと思っていた。こういうところも、似ている。
ーーーーーーー
【この記事をおすすめ】
普通よ。あなた凡人よ。ちょうど真ん中よ。


