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ちゃんめい

その嫉妬は誰のもの? 『ダイヤモンドの功罪』は決して他人事じゃない【連載・あちらのお客さまからマンガです/第12回】

「行きつけの飲み屋でマンガを熱読し、声をかけてきた人にはもれなく激アツでマンガを勧めてしまう」という、ちゃんめい。そんなちゃんめいが、今一番読んでほしい! と激推しするマンガをお届け。今回は、年末の風物詩『このマンガがすごい!2024』でオトコ編第1位に輝いた『ダイヤモンドの功罪』について語ります。

あけましておめでとうございます。2024年の幕が上がりましたが、みなさま『このマンガがすごい!2024』はご覧になられましたか? 不定期刊行を経て、2008年より宝島社から毎年12月に刊行されている本誌。各界のマンガ好きが本気でその年の「一番すごい!」と思う漫画を選ぶという内容で、今回は平井大橋先生の『ダイヤモンドの功罪』がオトコ編1位、大白小蟹先生の『うみべのストーブ』がオンナ編1位に選ばれました。

この連載の冒頭でもお伝えしている通り、私は常日頃から面白いマンガと出会ったら、友人や家族、職場の上司まで、とにかく自分の周囲の人たちに布教してしまうのですが。『ダイヤモンドの功罪』は昨年一番布教した作品であり、かつ布教した人たちから「めっちゃ面白かった!」という言葉とともにアツい感想をもらった作品でした。なかでも、小~中学生のお子さんを持つ方からの支持率が高く、さらにほとんどの方が読み終わったあとに「子を持つ親として考えさせられるわ」と言っていたところが印象的でした。なぜみんなそんなことを言ったのか? それは『ダイヤモンドの功罪』のあらすじを知るとなんとなく察せるもしれません。

“ダイヤモンド”級の才能を持った少年の“功罪”

本作の主人公は綾瀬川次郎。彼は一目見ただけで、どんなスポーツでも難なくこなしてしまうし、人並み以上、いや天才的な結果を残すダイヤモンド級の運動の才を持つ少年です。さぞや輝かしいアスリート人生を歩むのかと思いきや、次郎の願いはただ一つ、ただみんなで楽しくスポーツをしたいということ。

でも、そんな願いも虚しく「なんでコーチはアイツのこと特別扱いするの?」「あんな強い奴いたら練習するのが馬鹿らしい」「もう辞める!」など、その天才的な才能を羨み、妬む周囲の声によって、次郎はどこへ行っても孤高の存在になってしまうのです。水泳、テニス、体操……様々な運動クラブを転々とする日々でしたが、ある日「楽しい」がモットーの弱小少年野球チーム・バンビーズを見つけ入団します。勝利にこだわらず、ただみんなで楽しく野球を謳歌する毎日。オレの居場所は“野球”だったんだ! と、充実した日々を送る次郎ですが、彼のダイヤモンド級の才能は次第に全てを崩壊させていくのです。

きっかけは、ある日の練習中に次郎が投げた変化球。誰も教えていない変化球を軽々と披露する彼を見たコーチは、その末恐ろしすぎる才能に目の色を変え、U-12日本代表の選考会に勝手に申し込みます。さらには、そんな次郎の才能はそれぞれの子どもたちの親御さんの耳にまで入り「なんであの子ばっかり!」と次第に彼を非難するように。こうして親の態度やチーム内の空気を察した子どもたちは思うのです。「楽しい」がモットーのバンビーズは、次郎の入団によって崩壊していった……アイツさえいなければと。

みんなが「子を持つ親として考えさせられるわ」と言う理由

なぜ自分はいつも周囲から疎まれるのか、孤独になるのか? 次郎は去ってゆく仲間の背中を見て心を傷めるのですが、彼にはその理由がどうしたってわからないのです。だって、周りが天才だと崇め恐れる次郎の才能は彼にとっては全部当たり前のことだから。誰かを言葉で傷つけたりすることもなく、自分は至って普通にしているだけなのに、みんなが勝手に嫉妬して変わっていく……。

そんな“ダイヤモンド”の才能を持ってしまった少年の“功罪”を描いた本作。このマンガのすごい! ところは、野球漫画に欠かせないと思っていた、友情・努力・勝利といった少年漫画にありがちな三要素を全て吹っ飛ばしたところ。野球などスポーツがテーマの作品においては重要になるであろう勝敗よりも、才能について痛いほどに突き詰められているのです。

さらに、次郎のような天賦の才を持つ子どもと対峙したとき、周囲に求められる振る舞いとは? 反対に自分の子どもが次郎だったら? と。野球漫画なのに、「どうすればみんな幸せになれるのだろう」と正解のない問いに考えを巡らせ、誰かと語りたくなる作品でもあります。本作を読んで、「子を持つ親として考えさせられるわ」と言っていた人たちは、まさにココが刺さったようでした。

でもまぁ、次郎のような天才に出会うことはそうないし、ましてや自分こそが次郎だった! なんて方は少ないかもしれません。だから、この物語に100%共感する方はあまりいないかもしれないけれど、他人に嫉妬心を燃やしてしまう、あるいは他人に嫉妬されて悲しい仕打ちを受けたことがある……そんな嫉妬に関する苦い記憶は誰もが身に覚えがあるのではないでしょうか。

その嫉妬は誰のものなのか? 蘇る苦い記憶とその正体

思い返せば、私が人生で初めて嫉妬という感情を抱いたのは小学1年生の頃でした。相手は3歳上の姉。幼い頃から元気で愛想が良くて、はつらつとしていた姉は私にとって自慢の存在でしたが、“小学校”という同じフィールドに立たされた時、私の中で少しずつ何かが狂い始めました。

これは姉がなまじ優秀だったからかもしれませんが、「なぜあなたにはできないのか?」と当時の姉と比較して母親から叱責されたり、姉を知っている先生から「お姉さんはしっかりしていたのにね」など、どこに行っても姉と比較される日々が始まりました。今ではめちゃくちゃ姉と仲が良い私ですが、この経験のせいで10〜20代の時は正直姉の存在が邪魔で仕方がなかったし、人生で何かを選択するときは「これならお姉ちゃんよりも上に立てる」が軸となっていました。姉はいつだって私に優しくて、私の成功や幸せを誰よりも喜んでくれたのに、私は人生の大半ずっと姉に嫉妬していたのです。

『ダイヤモンドの功罪』を読んでいるとなぜかそんな私の苦い記憶がじんわりと蘇ってしまう……。それは、次郎の才能に惚れ込むコーチや嫉妬する親から何かを感じ取っては、態度を変えていく同級生たちに自分の姿を重ねてしまうからです。そんな当時の私と彼らに問いたいのは「その嫉妬は誰のものなのか?」ということ。

例えば、野球でレギュラーメンバーになりたい、でも次郎には勝てない、悔しい!……これはすごくヘルシーな嫉妬だと思うのです。だって嫉妬の始まりが自分軸だし、そういった嫉妬は結局のところ自分が努力するための良質なエネルギーになると思うのです。一方で、私や次郎の同級生のように外野から受け取った、ざらっとしたというか、心がくすんでいくようなこのなんとも言えない感情。これによって相手へ抱いた嫉妬って、結局のところ“私の嫉妬”じゃないのです。第三者によって植え付けられた、なんて歪な嫉妬なのだろうと、『ダイヤモンドの功罪』を読んでハッとどころかゾッとしてしまいました。

そういえば「子を持つ親として考えさせられるわ」と言っていたみんなは、もしも自分の子供が次郎だったら、あるいは近くに次郎みたいな子供がいたらどうするんだろうか? この私の気づきと共に、新年会で大いに語ってみたい。

文/ちゃんめい

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