完成させるべきか、否か。「ガウディとサグラダ・ファミリア展」で発見する「未完」の意味
完成させるべきか、否か。「ガウディとサグラダ・ファミリア展」で発見する「未完」の意味
「140年未完の建築」。サグラダ・ファミリアの最大のキャッチコピーだ。1世紀以上建築を進めてもなお完成しない。そのことに人々はロマンを感じる。
一方で、設計者であるアントニ・ガウディの没後100年となる2026年に完成する、と数年前に発表された際には、世界中のメディアが報道し話題となった。
未完の「世界遺産」と、「世界一高い聖堂」となる完成後。いったいどちらのサグラダ・ファミリアが建築物として存在意義があるのか。
東京・竹橋にある東京国立近代美術館で今夏開催中の展覧会「ガウディとサグラダ・ファミリア展」。混み合う会場を巡りながら、私の脳内に浮かび上がった問いと答えを見つめたいと思う。
まず、建築家ガウディ自身の思惑はどうだったか。
サグラダ・ファミリア聖堂があるスペイン・バルセロナ周辺の教区には、古くから大聖堂が建てられていた。
しかし富裕層向けの大聖堂とは別に、労働者階級の市民のための教会を建てよう、と寄付が集まりサグラダ・ファミリアの建築が計画され、ガウディは建築中のサグラダ・ファミリア聖堂の2代目主任建築家に就任する。
サグラダ・ファミリアは、建物の正面となる「ファサード」が3面に設計された特徴のある建物だ。そのうち、唯一ガウディが存命中に完成近くまで作り上げた「降誕のファサード」にある柱の付け根にはカメの彫刻が彫られていて、「この建築はゆっくり進む」の意味が込められているという。
さらに、残されたガウディの言葉で、「私のクライアント(神)はお急ぎではない」とあり、そもそも自分の代で完成させる意思がないどころか、「完成」自体をさほど重要だと思っていなかった節さえある。展覧会の前半では、建築の経緯がわかる複数の写真展示と解説を読むことができる。
しかし、いま、この現代だからこそ完成させるべき、という見方もできる。ガウディの死後、スペイン内戦によってサグラダ・ファミリアの設計図や完成予想模型のほとんどが消失した。わずかに残った資料によると、現在完成間近のイエスの塔の先端には十字架が掲げられ、その十字架は縦横から複数のライトが当てられる。どの方向からサグラダ・ファミリアを眺んでも、ライトに照らされた輝く十字が見えるようにすることをガウディは求めたという。
さらに彼は、サグラダ・ファミリア自体が巨大な楽器になるように構想を練っていた。塔のいくつかは鐘楼で、電気仕掛けで聖堂内の鍵盤楽器で操作できるようにする。鐘楼のゴツゴツした壁面には穴がいくつも空けられ、奏でられた音が街に響き渡ることを意図して設計されている。
だが当時の技術力では、光柱の十字架も鍵盤で演奏可能な鐘も、実現させるのは難しかった。ガウディは構想の実現を未来に託した。その意志を継いだ者たちは、現代の最新技術を用いて試作を重ねている。
ところで、未完のサグラダ・ファミリアは、教会としての役割を果たせているだろうか。
個人的な思い出を話したい。建築に興味を持つようになった子どもの頃から私が好きなのはフランク・ロイド・ライトやル・コルビュジエが設計したモダン建築だった。ガウディ建築を認識してはいたものの、他のモダン建築では見たことがないほどカラフルなタイルで装飾され、動物や植物のモチーフが多用された“独創的”な作品は、私が好むスタイリッシュな建築とは明らかに違っている。正直、ずっと好きになれなかった。
その見方が一変したのは、2018年の秋。たまたま旅行でバルセロナを訪れて、まあせっかくなので、くらいのテンションでサグラダ・ファミリアを見に行った。そして、聖堂内部に立った時の、あの感覚を、私は生涯忘れない。
あ。神が、いる。
涙が出ていた。
宗教に対しての敬意はあるものの、特定の宗派の信者ではないし、今まで御守りすら持ち歩いたことがないくらい「神さま」や「仏さま」にさほど心を寄せた経験のない私が、このときはこの世の全ての「神聖さ」を浴びているような不思議な感覚で満たされていた。
頭上の遥か遠くの天井の丸い穴から太陽の柔らかい光が降り注ぎ、東西の窓にはめられたステンドグラスが、室内をオレンジや黄色やみどりや青や赤に照らしている。3人が手を繋いでやっと囲めるほどの太さの柱は地面からやや斜めに天井へ伸び、途中で枝分かれする。ガウディが森に見立てて設計した聖堂内部は、光にあふれた森そのものだった。私は目を見開いて天井を見上げ、クルクルと何度も回転した。この光を、空間を、感動を、心に焼き付けるために。大自然を前にした時、その景色の前では自分の存在はなんてちっぽけだろうと感じることがあるが、まさにその感覚だ。人間の手で作られた建築に対してそう感じられることは多くない。「未完」であっても、サグラダ・ファミリアは人の心に神を感じさせる建築だ。
「神を感じること」は自分の内面を見つめることで、それは教会という建築に求められる要素だと私は信じている。展覧会の目玉となる展示物の一つが、1/25(25分の1)スケールの聖堂内一部の模型だ。私は模型をじっと見つめながら、あの時の感動を思い出していた。
ガウディに惹き込まれた心で、サグラダ・ファミリアの細部を観察していくと、それまで「好きになれない」と思っていた部分が、ガウディ建築を理解していなかったせいだとがわかってきた。
たとえば、“独創的”だと思っていた動植物モチーフの装飾は自然界への礼賛で、サグラダ・ファミリアの歪に見えていたシルエットはバルセロナにある聖なる岩山「モンセラ」に着想を得ていること、カラフルなタイル装飾はガウディが生まれ生涯を過ごしたスペイン・カタルーニャの伝統的な防水工法であったことなど。
「人間は創造しない。人間は発見し、そこから出発する」とはガウディの言葉だ。ほかにもガウディが建築家として大切にしていた「歴史」、「自然」、「幾何学」の3要素についての解説を、当時の出版書籍やガウディが取り組んだ模型を通して展覧会で見ることができた。
ガウディは「神の建築家」と呼ばれている。その呼び名は単純に「神のように偉大だ」という意味ではなく、「どうしたらこの建築で人々を救えるか」、「どうしたら神に捧げるに相応しい建築になるか」を追求し続けたことによる。その強い意志を感じるからこそ、およそ140年の間、建築に関わった何千人、何万人もの職人や技術者が最高の仕事で建築を受け継いできた。彼らは完成を夢見て進んだに違いない。
ただ、私自身はサグラダ・ファミリアが未完のままでもいいと思っている。その時代の最高の技術で建築を進めることが「祈り」の行為に思えるからだ。未完である現段階のサグラダ・ファミリアはすでに訪れる人を神聖な気持ちに導いてくれている。私がそうだったように。
「2026年に完成する」はずだったサグラダ・ファミリアは、コロナ禍の影響で工事が遅れ、現在は最も高い「イエスの塔」の2026年完成を目指している。
職人や技術者たち、そしてそれを見守る私たちの祈りの時間は、まだもう少し、続く。
文/ささき りょーこ
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