『30日de源氏物語』で気づいた平安絵巻の向こう側
源氏物語が気になったのは、春がとっくに過ぎた暑い季節だった。
2024年のNHK大河ドラマは、紫式部を題材にしているとは聞いていた。しかし、元日に能登半島地震で被災しテレビのない避難生活が続いていたので、源氏物語の世界には浸れないと諦めていたのだ。
あるとき震災の情報を入手するために重用していたX(旧Twitter)を見ていると、お気に入りの文芸評論家が『30日de源氏物語』を出したと書いてある。大河ドラマは見られないけれども、学生時代に読んだ源氏物語を思い出してみよう、と考えた。傾いた家からまだ救出はできないけれど、本棚に置いていた田辺聖子訳の文庫本があったはず。いま全訳を読むのは大変だけれども、入門書なら読めるかもしれないと思いこの本を購入した。
本では、光源氏の青年期(1〜33帖)・光源氏の老後(34〜41帖)・光源氏の死後(42〜54帖)と全54帖の大まかな構成や、膨大な登場人物・有名なエピソードが整理されている。しかも学術的ではない平易な言葉で語りかけられていてとっつきやすい。
この本を読みながら、桜の舞い散るシーンが好きだったことを思い出す。
桜が満開の季節に、夕霧(光源氏の子)と柏木(夕霧の親友)が繰り広げる女三宮(光源氏の妻)をめぐる攻防。光源氏の邸宅で、若い貴族があつまり桜吹雪が舞う中、蹴鞠が行われていた。夕霧は、女三宮が父光源氏の妻なので自分のものにすることを諦めたものの、それでも想い続けている。ところが、親友の柏木も彼女に好意を寄せていたからややこしい。あるとき小猫が走り出した拍子に御簾が上がってしまい、柏木は桜色の衣をまとった女三宮の姿を見てしまう。はっきり見たとは書かれていないが、見たに違いないと夕霧は確信する。場面全体が桜に包まれる演出が秀逸だ。このシーンは、この解説書を書いた著者も、最も美しいシーンのひとつであると書いている。源氏物語で偶然に出会って恋が始まる場面はいくつかあれど、これほど猫や桜・男子の蹴鞠など格別の演出が詰め込まれた場面はない。こう著者が力説する様子は、ブログを読んでいるかのような気軽さで書かれており、私もウンウンと思った。
私がドラマの監督だったら、どんなカット割りで撮るか、音楽は何をチョイスするか、走り出す小猫の目線にしたら見える景色が新鮮だろうかと妄想が広がる。初々しい淡さが霞で立ち上がったり、女三宮がまとう香の匂いまで暗示できたりしたらいいなあ。そうだ、俳優は誰を起用しようか。おっと、このくらいにしておく。
読んでいた学生時代にタイムスリップしたようで嬉しかった。印象的なシーンが細切れのピースで思い出されるのも、この物語の魅力だなと私は思う。
しかし、この場面には続きがあることを私は忘れていた。
解説本には、このあとの展開も紹介されている。柏木は女三宮と不義の子(薫)を宿してしまい、光源氏に気付かれる。光源氏も過去に藤壺と不義の帝をもうけてしまった経験があり、柏木を問い詰められず苦悩する。もしかして、桐壺帝も自分の子でないと知っていたのではないか。その後、女三宮は出家、柏木は病で亡くなってしまう。
この本は、源氏物語の印象的な場面をピースごとに楽しむのもよいが、登場人物の感情の深いところまで感じるのが醍醐味だと教えてくれている。
人の過ちは繰り返され、報いを受けることもある。真相を知っていても誰にも言わず、胸に納め墓場まで持って行かなければならないことも。私でなくても身につまされる感情だろう。印象的な場面をつまみ食いで見ていては気付かない視点である。
この本は、全体の構成とあらすじはもちろん、政治や社会の背景と、一般的にはあまり有名ではないエピソードまで網羅的に紹介している。特にこの本の著者が好きだと語るシーンでは、一緒にお茶をしながらおしゃべりしているような錯覚すら覚えた。
源氏物語は、ただでさえ長大な作品だ。現代語訳を読んでいたときは、自分のお気に入りのシーンにたどり着き、少し源氏物語が分かったかもと安心したかったのだと思う。現代語訳を1、2回読んだところで、光源氏の感情を感じとれてはいなかったのに。先に紹介した例では、蹴鞠に興じる美男子達の場面と、柏木が光源氏に酒を飲まされてついには病気で亡くなってしまう場面を、連続はしているがほぼ個別のエピソードとしか捉えていなかった。今なら分かる。光源氏は柏木に寝取られたのがただ悔しくて酒を飲ませたのではない。真実を知っていたかもしれない桐壺帝の思し召しにおののき、因果応報の念にとらわれて、光源氏が柏木に飲ませるだけではなく自身も飲まざるを得なかったのではないか。源氏物語で、光源氏が亡くなる場面が描かれていないのも、なにか意図があるのではないかとすら妄想してしまう。
この本の著者は、源氏物語がただの恋愛長編小説ではないといっている。それもそうだ。もし恋愛要素だけの小説だったら公卿に支持されないし、千年も読み継がれない。学術研究の対象にもならなかっただろう。解説本で指摘されているように、華やかなシーンの裏にあるのは、政治的な駆け引きや家族の絆、平安時代独特の夢や霊・占いなどのスピリチュアル。人間の関係性や業を描いた複雑な作品なのだ。
また、この本では、物語全体や代表的なシーンの解説を押さえた上で、源氏物語には現代的な要素も読み取れると紹介されている。御簾の中にいて会ったこともない女性とLINEを交換するかのように和歌を詠み合う。盛り上がるとマッチングアプリのように会ってみる。現代の私たちから見てもわかるシチュエーションを疑似体験できる、と。千年経っても人は同じようなことをやっているのが面白い。
さて、初回放送から8カ月以上経って、ようやく『光る君へ』を見はじめた。この本を一読しておくと、源氏物語内での描写がそのままドラマの内容と重ねられていたり、公家達が源氏物語を読んで笑っていたりしている理由が少し分かる。例えば、源氏物語の中で宮中が消極的な姫君達の退屈なサロンであると書かれている様子も、そのままドラマの描写に移し替えられていた。
大河ドラマを見るのは無理と思い、入門書を読んで源氏物語の世界だけでも思い出そうとしていた私だったが、状況は一変した。放送を楽しみにテレビに向かい、源氏物語の存在がなぜ道長の耳に届き、どこが一条天皇の心に届いたのかなど、本をめくりながらいろいろ妄想している。YouTubeの動画で時代背景やドラマの考察を見て、予習復習するようにもなった。この本とドラマが私を源氏物語の世界へ誘ってくれたので、落ち込みがちだった日々に彩りのある時間が増えてきたようだ。
文/二角 貴博