発災6日後に営業再開したホテルルートイン輪島。避難者やスタッフ、本部との団結で乗り越えた【能登のいま/第13回】
CORECOLORメンバーが能登を訪問し、そこで感じたことを書くリレー連載「能登のいま」。今回は、ホテルへの取材機会が多いライターの笹間聖子が、輪島市にあるホテルルートイン輪島を取材しました。
私がホテルルートイン輪島に取材させていただきたいと思ったのは、震度6強の激しい揺れに見舞われた輪島にありながら、発災後1週間で営業を再開されたと聞いたからです。ホテル自体も、働くスタッフの方々も被災されたなかで、なぜそんなにも短期間で再開できたのか。ライフラインの課題をどう乗り越えたのか。そして、発災時に何が起き、どのように行動されたのか。支配人の中島健太さんに伺いました。(執筆/笹間 聖子)
なにも提供できなくても、“泊まるだけでいい”と満室に
「水も食料も厳しい状況です。お風呂も朝食もありません。それでもよければどうぞお泊まりください」
震度6強という地震に見舞われ、多数の家・建物が倒壊した輪島で、ホテルルートイン輪島が営業を再開したのは1月7日のことだ。それ以前から「なんとか宿泊できないか」と問い合わせは殺到していた。
だが、この時点では、ほとんどのライフラインは復旧していなかった。宿泊者に提供できるのは、長野の本部から運搬された飲料水と、同じく運ばれてきた、わずかな食料で作る簡易朝食くらい。しかも、ホテル本館120室は傾いて安全が確保できず、使用が難しい。そこで、なんとか東館102室の営業再開を目指し奮闘した。
なぜ、そうまでして再開を目指したのか。理由は、「災害発生時は、復興に携わる方や医療関係者がいち早く泊まれる場所を提供すること」という同ホテルグループの信念にあったそうだ。過去には、熊本地震や東日本大震災でもいち早く営業を再開して、復興関係者の宿泊所として機能した。そして、ここ輪島でも、「泊まれるだけでもありがたい」と医療支援、報道、インフラ復旧のために訪れた人々が押し寄せ、連日満室が続いたという。
津波と火災、どちらが迫っても避難しなければ
それから遡ることわずか6日前。元旦の16時10分に能登半島地震は起きた。支配人の中島健太さんは事務所にいたが、長く激しい横揺れに、ただ壁にしがみついて耐えることしかできなかったという。
揺れが収まってすぐに館内を足早に回り、数十人のゲストと、4人のスタッフの無事を確認。中島さんがいた事務所は物が散乱して大変なことになっていたが、ロビーは普段から物が少ないため大きな被害はなかった。客室では家具や什器備品の転倒が一部あったが、柱が折れたり、ガラスが割れるような被害はなく安堵した。だが、外に出て愕然とする。地面の激しい隆起と液状化現象で、中島さんのいたホテル本館が傾いていたのだ。駐車場の入口も隆起してとても入れない状態。マンホールは、1メートル以上盛り上がっていた。加えて、水道や温泉水の配管も故障していた。
しかし、ショックを受けている場合ではなかった。幸い、隣接する東館は無事だ。ゲストの安全確保を最優先した中島さんは、本館にいた数十人のゲストに声をかけ、東館の2~3階に誘導する。同時に、東館4~7階廊下に、避難者の受け入れをはじめた。ホテルが、「津波避難場所」に指定されていたからだ。発災直後、能登全域には大津波警報が発令されていた。
その一方で、17時23分には、わずか50メートル先の観光スポット「朝市通り」で激しい火災が起きる。「津波と火災、どちらが迫っても館内にいる人を避難させなければならない」。そう決意して中島さんは、夜中に何度も様子を見たという。
結果的に、津波は来なかった。地震による地殻変動で輪島近海の海岸が約2メートル隆起し、これが自然の防波堤として機能したのだ。火災は、深夜1、2時に火の粉が飛んできて避難を覚悟したが、朝方に風向きが海へと変わり、燃え移りを逃れた。
話し合い、譲り合って、子供や高齢者を客室へ
発災当日、避難者は100人もいなかったが、翌日から、頻繁に起こる余震に不安を覚えた人が次々にやってきた。合計130名ほど受け入れたところで満杯になってしまい、別の避難所を案内することに。廊下に加えて客室も開放していたが、避難者同士が譲り合って、子供や高齢者のいる家庭が客室に入れるようにしていたそうだ。
「お互いに励まし合い、感謝し合っている姿があちこちで見られました。水や食べ物を置き、『どうぞ』と分け与えていた方もいます。避難という異常事態を乗り越えられたのは、このような協力と温かさがあったからだと思います」と中島さんは話す。
ライフラインについては、電気は1日の夕方には復旧したが、水道は止まっていた。そのため1階の大浴場に湧く天然の温泉水をバケツやポリタンクで汲み、「トイレを流す用」などの生活用水に。その運搬も、スタッフと避難者が協力して行なっていたそうだ。食料については、1日は、売店用にホテルでストックしていた飲料水やお菓子を配布。2日には、長野県にあるホテル本部から、食べ物、飲み物、ドライシャンプー、簡易トイレなどが「トラックに積めるだけ積んで」届けられたため、食料と水は避難者に毎日2回配布。シャンプーや簡易トイレは状況を聞いて可能な限り配布した。さらに3日目からは、輪島市からも飲料水が届いたという。
給水所から受水槽へ。水の運搬を朝から晩まで
ホテル再開への道のりはどのように進んだのだろうか。2日の10時に津波警報が解除された後は、復興関係者の宿泊受け入れに向けて、輪島市との協議がはじまった。「今すぐ出ていってくださいなんて絶対に言いません」と、避難者とも時間をかけて話し合った結果、5日夕方、ほぼ全ての避難者が輪島中学校避難所へ移動した。
そこからはまず館内を清掃。7日からは「泊まるだけ」の営業を再開し、その傍らでライフラインの復旧を急ピッチで進めた。実はルートイングループには、建物の設計やメンテナンスを請け負うルートイン開発という企業がある。8日にはそのスタッフが訪れ、受水槽や灯油タンクの傾きを復旧する工事を完了。10日からは、同社が持つ給水車両が給水所へ出向き、ホテルの受水槽に水を運搬する作業を朝から晩まで行い、生活用水を確保した。中島さんは、「弊社の施設部隊が身体的な疲労と闘いながらも毎日運搬を続けてくれたおかげです」と振り返る。運搬は、水道が復旧する2月頃まで行われていた。
大浴場も8日から再開した。水は出ないものの、温泉に「ただ浸かるだけ」なら可能に。傾いてしまった本館に女性用大浴場があるため、1日ごとに男女入れ替えで入ってもらったそうだ。また同時期、ホテル前の道路や敷地内の隆起も、ルートイン開発が輪島市と協力して、応急処置ながら修繕した。
さらに、宿泊者受け入れに必要な飲料水や食料、ホテル備品については、長野の本部から運搬された。ホテルのリネンや一部の食材については、取引先企業の協力で50キロ以上離れたホテルルートイン七尾駅東まで配達してもらい、そこから自社の車両で運んだものもあった。
ホテル勤務の正社員は、避難も兼ねてほぼ全員がホテルに寝泊まり。パート、アルバイトスタッフは個々の選択に任せたが、建物の危険性を調べる「応急危険度判定」で「要注意」を表す黄色の紙が貼られた家から通ってくるメンバーもいた。家が全壊したために、金沢や小松に避難し、避難先のグループホテルに働き手として受け入れてもらった人もいたそうだ。
こうした多くの支援と、「災害時は、いち早く宿泊施設を提供する形で復興に寄与する」という同ホテルグループの信念があって、震災6日後からの営業再開が可能になったのだ。
これらの経験を踏まえて中島さんは、「災害の備えとして最も重要なのは、いざというときに水や救援物資、備品を運んでもらったり、修理にきてもらえる体制づくりなのだと痛感しました。水や食料の備蓄も必要ですが、翌々日には公的支援が届きましたので、ひとまずは3日分を備えておくのがよいのではないでしょうか」と語る。
どれだけ復興に時間がかかっても、手厚い支援や報道を続けてほしい
この取材を行なったのは、震災から約半年が経った時期だ。ホテル本館の復旧は来年になりそうだが、東館は、ほぼ通常通りに営業ができるまでになった。「山崩れや建物倒壊で分断していた道路も徐々につながり、ゴールデンウィークには元通りの朝食メニューを提供できるようになりました。今は近隣の八百屋さんが復活していて、新鮮な食材も購入できます」と中島さん。
ホテル近隣の復興については、ようやく、被災した建物の解体が進んできている状況だ。だが、倒壊の危険があり避難している人の家の整理など、まだ課題は残っている。輪島市から被災者に向けて、「ボランティアに作業を依頼しませんか」という案内が頻繁に送られているそうだ。宿泊客は、仮設住宅の建設や取り壊しに従事する人が増えた。ボランティアに訪れた人や、近隣住民が片付けと手続きのために宿泊することもあるという。
中島さんは、白山市に妻子を残した単身赴任で、震災から5月まで、ずっとホテルに寝泊まりしていたという。震災直後は余震も多く、目まぐるしく状況が変化して緊張の連続だったというが、共に働くスタッフや避難者と団結し、本部の応援に元気をもらうことで、激動の半年を乗り越えてきた。「これから奥能登地域に新しい建物が立ち、新しい街作りが進んでいくためには、時間がかかります。どれだけ時間がかかっても、手厚い支援や報道がなくならないことが、未来につながると思っています」。
文/笹間 聖子
【この記事もおすすめ】