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住民一丸で避難したからできた絆。震災をきっかけに生まれ変わる深見町【能登のいま/第15回】

ライターの本間友子です。7月に能登を訪れ、輪島市深見町に移住して10年目のNPO紡ぎ組代表理事・深見町復興協議会代表の佐藤克己さんに話を聞きました。
輪島市深見町58世帯120名は、能登半島地震で最大8日にわたって孤立集落となり、ヘリで約130キロ離れた小松市・粟津温泉に集団避難しました。地域住民を先導し説得した立役者が佐藤克己さんだったと聞いたからです。
震災時、私は、集団避難のニュースを見て「地域の人からすごく慕われているから説得できたのだろう」と思ったのを覚えています。今回の取材で佐藤さんが震災前は住人とほとんど交流がなかったと知り、とても驚きました。佐藤さんがどう深見町の人に声をかけ、集団避難に至ったのか。避難をきっかけに深見町はどのように変わろうとしているのかを聞きました。(執筆/本間 友子)

(9月21日からの大雨で深見町は再び孤立。佐藤さんは避難所にて総勢20名の避難住民・工事関係者へ食事を提供し、現在、孤立は解消して怪我人もなく元気だとご連絡がありました)

1月4日、深見町の人を全員引き連れて避難すると決め、動き出す

「スローライフを早く取り戻すためにどうしたらいいか」

1月1日に被災してからの4日間。佐藤克己さんは車中泊をしながら、ずっとそれだけを考えていた。

初めて訪れた能登。海の青色の深さに見惚れてしまった。写真中央の白い部分が隆起した海岸線

佐藤さんは、能登の美しい自然に一目惚れし、2014年に東京から輪島市深見町に移住。自慢の囲炉裏がある築110年の古民家・深見荘で民泊を営みながら、スローライフを楽しんでいたという。震災当日、一人で深見荘の修理をしていると、ドカーンと下から突き上げるような震度5強の地震が佐藤さんを襲った。

「絶対デカいのが来る!」

そう思い外に飛び出した4分後、震度7の地震がきた。建物は基礎と柱の継ぎ目から土埃が立ち上がり、暴れるように飛び跳ねた。コンクリートは割れ、広い地面がむき出しになる。先ほどまで地面と一体化していたコンクリートが、揺れ動く地面の上で全く別方向に縦横無尽に動きまわっていた。外の流しに溜まった水は揺れ、桶のヘリに当たって勢いがつくと、1メートル近い水柱になった。

「震度7は立っていられないし、何もできないよ。聞こえるのは、遥か向こうの水平線から戦闘機が飛んでくるようなすごい地鳴り。地鳴りに加えて山が崩れる音、岩が転がり木をへし折る音が響くのよ。庭の鶏小屋の屋根、土蔵の壁も、瞬きした瞬間にドサっと落ちた。ものすごい速さで壊れるの」

約2分間に震度7と6弱の地震が起き、揺れはとても長く感じたという。このとき佐藤さんは、地震が原因で隆起した地形の真上にいたのだ。

旧深見小学校の倒れた校名石。地震の強さを物語っている

1日夜、東京の友人から「輪島朝市が燃えている」とLINEが来た。佐藤さんのNPOが運営する店も朝市にあった。心配だし何かしたくても、深見町は既に孤立しどこにも行けない。山越しに炎で赤く染まった空が見え、ヘリがチカチカと電気をつけながら飛ぶ様子を車から眺めていた。その夜、プロパンが「パン!パンッ!」と爆発する音が深見の山まで聞こえていたという。

2日午前中には、中継局の災害用バッテリーも切れ、携帯の電波も無くなった。地震の直後から、電気の供給は停止。深見町は、橋が壊れ車は通れず、複数の土砂崩れで全ての道が塞がれ孤立していた。しかも、住人のほとんどが60代以上で高齢者が多い地域だ。徒歩での移動は困難だった。その人たちの多くは集会所に避難していたので、時々様子を覗きつつ、佐藤さんは今後のことを考え続けた。

4日間考え抜き、出した結論は「深見町の人、全員引き連れて避難しないとダメだ」

この10年、住民たちとはほとんど交流がなかった。自分だけで避難するのは簡単だ。佐藤さんは、足腰も丈夫で車も運転できる。でも一人で避難して、残された70代・80代のお年寄りの誰かがその後、災害関連死で亡くなったり、怪我でもしたら……今までとは境遇が変わる。そこに戻っても、ここの人たちが自分を見る目も違うだろうし、今までと同じスローライフは送れないと思った。一目惚れした深見町に早く戻ってきたい。だから、この人たちと一緒に避難すると決めて動き始めた。

熱い説得が、村の人の心を動かす

被災直後から、東京に帰省していたNPOの仲間と佐藤さんは連絡を取り続けていた。スマホは自分の車で充電できた。電波が入るのは大抵、地滑りしている海岸沿い。LINEは使えず、輪島市内の電波を拾えたときだけショートメールがつながった。身の危険を感じながらつながる場所を探した。

5日、集会所近くの山が崩れた。このままだと集会所も危ない。 NPO仲間経由で県の防災担当部長に自衛隊の救助ヘリを要請し、辛うじて繋がった電話で担当者と打ち合わせをした。数少ない顔見知りだった深見町総区長の山下さんに、「ヘリで全員で避難したい」という自分の考えを伝えた。山下さんに「佐藤さん、みんなが避難するよう、説得してくれないか」と頼まれた。

6日11時。各集落の区長7名、集会所に避難していた人や話を聞きたい人たち約30名が集会所に集まった。余震が続き土砂崩れの危険が迫っていること、ヘリが救助が来ることを誠心誠意伝えたが「お前、嘘だろ!信じらんねぇよ!」「俺は行かねーよ」と言う人もいた。ガラケーは電話が繋がったので、参加者の一人は説明会中に輪島市役所へ電話をし「市の職員は救助のことを知らないって言ってる」と押し問答になる場面もあった。

旧深見小学校の教室の窓から見える土砂崩れの痕。旧深見小学校は元々は避難所だったが、この被害で使用できず近所の集会所が避難所になった

最初に避難に納得したのは、地域の女性たちだった。家族に要介護者がいる者もいた。被災後、トイレは水道が使用できないのでボットン便所。1週間、お風呂も入れていなかった。この生活は男性よりも、女性のほうが辛かったと思う、と佐藤さんはいう。当初、避難に懐疑的な深見町の人たちだったが、徐々に気持ちが変わっていった。必死に説得を続けた。このとき避難すると決めたのは、約3分の1だった。

6日14時。バタバタバタ……プロペラの音が鳴り響き、自衛隊のヘリが到着した。「おお、ほんとに来た!」また少し、みんなの心が動いた。

寝たきりの人や、足腰の悪い人、医療機関に早くかかる必要がある人たちを優先し、1回に6〜9人を乗せ、能登空港までヘリでのピストン輸送は続いた。能登空港で大型ヘリに乗り換え、航空自衛隊小松基地に31世帯60名が搬送された。

小松基地からバスに乗り、夜遅くに2次避難所の粟津温泉に到着。本当は6日に希望者全員を救助したかったが、時間切れだった。山下総区長は、受入先で指揮を取るため1便目で飛び、佐藤さんや他の区長は深見町に残った。

7日は地割れした地面が見えなくなるほどの大雪で、救助活動中止。この日、佐藤さんは、なぜ集団避難したいかを再度、ここの長老と消防団員に伝えた。

もちろん、深見町の人の安全が第一だし、自分がスローライフを早く取り戻したい思いもある。それとは別に、新たな問題点が佐藤さんの耳に入っていた。当時、能登半島には地震によって孤立した地区が複数あった。

「深見地区が一丸となって粟津温泉に避難したら、次は、深見の人みんなが孤立した地区にいる知り合いに連絡をとって説得してほしい」。そう、佐藤さんは長老たちに伝えた。自分の地区に愛着も強く、「離れたくない」と避難に対し頑なな人たちも多い土地柄だ。でも、その人たちに「深見は一致団結したぞ」と示せたら変わるのではないか。その思いは長老に伝わり、一気に流れが動いた。

「避難せにゃ、ダメだろう!」

残っている人を2次避難所に搬送するために、長老と消防団員も一緒になり説得に回った。日頃、頼りにされている2人からの説得効果は絶大で、ペットがいるからと留まることにした4人を除き、ほとんどが避難を決めた。

8日、最後のヘリに長老、消防団員と共に佐藤さんも乗り込んだ。この日27世帯60人が粟津温泉に避難した。

震災はある意味チャンス。深見を稼げる町にしよう

深見町の人たちは、2次避難所でもコミュニティ維持の為に定期的に区長会を開き続けた。佐藤さんは、そこで深見町復興協議会の立ち上げを進言し、代表に就任。4月には、粟津温泉から貸切バスを出し旧深見小学校で「深見町復興まつり春の宴(お花見の会)」を開催した。集団避難してから3ヶ月ぶりに深見町に笑顔と人の賑わいが戻り、みんなが喜んだという。

「深見町内に生業を作ることが復興につながる」

佐藤さんはゴールデンウィーク中の4月28日から5月5日まで、今後、戻ってきた住民が集う拠点を作るために「深見町復興食堂」を旧深見小学校で開催した。地元の飲食店の収益になるよう、炊き出しではなく食堂にしたのもポイントだ。復興に携わる工事関係者だけでなく、ボランティアの人や片付けのために滞在中の住民も集い、とても楽しい場になったという。

現在、佐藤さんは旧深見小学校に拠点を置き、不定期開催の「深見町復興食堂」に加え、「子どもの居場所づくり」プロジェクトを始動。今後は、旧体育館や教室を利用し、巨大ラジコンサーキット場やNゲージの製作、子ども用ミニプール、2階のベランダにはオーシャンビューの露天風呂も作る構想で、この事業はこども家庭庁に採択された。

震災後という非日常の今は、関係人口が増やせるチャンスでもある。旧深見小学校の名物になりつつあるインスタントハウスアートも大学生ボランティアに描いてもらったものだ。今後、現役大学生が5泊6日以上の日程で能登の復興に取り組む『のと復興留学』からも学生の受け入れを予定している。

いつまでも被災地というのではなく、ここを楽しい場所にしたい。大学生の描いたインスタントハウスアートで、住民は喜び、訪れた人の気分も明るくなり、地域全体が元気になった。ボランティアにはそういう生きる力を磨きたい人に来てもらいたいと思っている。

富山大学や金沢大学の学生たちがペイントしたインスタントハウスアート

「この地区は、住人から地域維持に関わる経費を徴収することを『万雑(まんぞう)』っていうんだよ。自分は、ここの人からお金を徴収するのではなく『復興食堂』や他のプロジェクトで収益を得て、深見町全体に還元する『逆万雑』にしましょう!って言ったのよ。老い先短い年寄りからお金取って集落を維持したってしょうがないでしょ」

佐藤さんは震災をきっかけに、ここの人たちと親しくなり、コミュニケーションが取れるようになった。対話が生まれたことで佐藤さん自身も、自分の考えていることをストレートに伝えているという。

移住して10年。ずっと住民たちと距離を感じていたが、今は違う。もう、よそ者を煙たがる深見の人たちはいない。自分たちも2次避難所に行ったことで、よそ者になる経験をしたのだ。長老は言った。

「深見から出て、こんなにいい待遇をみんながしてくれた。逆に、深見町にそういう人たちが来たとき、ここまで俺らはできるのか」

7月中旬、復興食堂の準備のために深見荘に戻ると、バッタリ長老に会った。

「お、佐藤、お前も戻ってきたのか。これで深見の人、全員戻ったな」

何気ないこの一言が、とても嬉しかった。

文/本間 友子

深見町復興食堂インスタグラム → リンク
のと復興留学 → リンク

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