30年分の友情が一瞬の抱擁に込められた「イチロー選抜 対 高校野球女子選抜」
プロ野球選手を退いたイチローさんは、なぜ変わらず野球をやっているのだろう。
イチローさんはプロを退いた後にアマチュア野球チームの「KOBE CHIBEN」を結成した。そして、そのチームと高校生の女子選抜チームとの試合を継続的に組んでいる。生で見るイチローさんのプレーからはきっと刺激をもらえるはずだと思い、友人を誘って見に行った。
高校女子選抜チームとの試合は4回目になるが、3回目の参加になる松坂大輔さんと、更に20年ぶりに東京ドームに立つ松井秀喜さんは初参加となる。僕は友人とバラバラの席でやっと取れたチケットを手に、東京ドームに向かった。
試合開始1時間前に席に着き、ゆったりと腰をかけて球場を見ていたら、すぐにKOBE CHIBENチームの面々が出てきた。投球練習の開始だ。遠くからでもすぐにわかる、イチローさん。走る足がなめらかな曲線を描く。僕にとっては同じ東京ドームでマリナーズ時代の彼を見たとき以来、実に12年ぶりの生・イチローさんだ。高校時代の恋人に再会したかのように胸がぱかっと開いた感覚があった。彼は外野のエリアで長距離のキャッチボールをしている。遠くても少しライナー気味に投げるボールの軌道から、変わらない強肩ぶりを感じる。何球目かで飛んできたボールを得意の背面キャッチをして見せてくれた。わぁっと歓声が上がる。僕は無意識に微笑んでいる自分に気付き、少し恥ずかしくなった。練習風景からエンターテインメントとして見せてくれる振る舞いは、選手時代と変わらない。
他の選手たちは、お互いに近づくと笑顔で会話を交わし、軽い会釈でもよさそうなところを、深く頭を下げてお辞儀をする。ペナントレースとは無関係な試合にも関わらずキビキビと練習をし、緊張感がしっかりとある。まるで甲子園の高校生を見ているようだ。対する女子選抜チームは「今日ここに立てていることが嬉しい!」という気持ちが顔中から溢れ出るような表情で守備練習をしている。一つ一つの動きを丁寧にこなす壮年期の選手たちと、笑顔あふれる高校生。どちらの世代にとっても、野球は自分たちが “生きている” という実感を感じられる場所なのかもしれない。年齢に関係なく何かに打ち込むということがこんなにも清々しいものなのだと思えただけでも、今日ここに来てよかった。
イチローさんがピッチャーとしてマウンドに立つ。KOBE CHIBENが後攻なのは毎回恒例のようだ。始まってすぐに驚くべき展開になった。1回表、女子選抜チームのヒットが重なり、3点も入ってしまった。去年までKOBE CHIBENが連続で勝利していたので、今年は何か異変が起きているのか? と少し心配になった。
その裏、イチローさんを先頭に攻撃が始まった。ピッチャーの方に向かってバットを縦に持って構えるルーティーンは、選手時代と全く変わらない。プロ選手時代と遜色ないように思えるほど、彼が打席に立ってから1塁に走っていく間の時間だけ、シーズン中のメジャーリーグの試合を見ているようだ。他の選手もヒットを打ち、イニングが終わると5点も返していた。2回表。センター(外野)だった松井さんがサードに変更になった。攻撃の走塁時に足をかばっている様子が見えたので、おそらく足を痛めたのだ。少し心配になりながらサードで構える松井さんを見ていた。サード、松井。僕が知る限り、プロになってからの松井さんは外野の守備でしか見たことがなかったので、これはこれで貴重だ。
2回以降は女子選抜チームを0点に抑えながら、KOBE CHIBENは4回まで1点ずつ獲得し、点差がついた。やはり強い。6回裏の後の攻守交代の時間、習志野高等学校吹奏楽部による少し長めの演奏が始まった。KOBE CHIBENの応援隊だ。イチローさんは投球練習の手を止めて、体ごとぐるっと演奏隊の方を向き、動きを止め、演奏を聞いている。その姿は、「聞いていますよ」というイチローさんのメッセージのようだ。外野席で演奏する演奏隊の皆にも、彼が真正面に構えて自分たちを見つめる姿が見えているだろう。自分が高校時代にこんな体験をしていたら、人生が変わっていたかもしれないと思った。
8回裏、6打席目の松井さん。怪我をした足では、長打は期待できない。しかし、何かを待つ雰囲気がドーム内を包んでいるような気がした。何球目かでボールがカチッとバットに当たった。その瞬間は少し大きめのヒットなのかと思い、ほぉーと思いながら打球を目で追った。あまりスピードのある打球には思えなかったのだが、打球は段々と小さくなり、スーッと縦の線を描いてスタンドに入った。「ん…? これは、ホームランか……?」と少しの間、状況が掴めずにいた。僕の耳には最初、周りの観客の声があまり入ってこなかった。わーっという声がだんだんと大きくなって、あ、これはホームランなんだと気づいた。球場中の観客と選手がこの瞬間を待ちわびていたことが、大歓声のビリビリとした振動から伝わってきた。ゴジラ・松井が、帰ってきたのだ。松井さんは足をかばいながらゆっくりと走塁している。物理的な距離で言うと100m以上離れた場所にいる僕の胸が、なぜこんなに温かく感じるのか、不思議だった。「これで頑張れよ、明日からも」と、松井さんが這いつくばって僕のところにやってきて、ボロボロの手紙を手のひらにひたっと乗せてくれたような、そんな感じがした。松井さんがダイヤモンドを一周し終わり、ベンチに戻ってイチローさんと抱き合う様子が見えた。ほんの一瞬のその抱擁に、30年以上の時間を経て詰め込まれた2人の関係性や感謝、尊敬、そして友情、全てが濃縮されて喜びとなって弾けているように見えた。本当に美しかった。
試合後のドーム内は、まだ夕方だったこともあり直ぐに空っぽになることはなく、のんびりとグラウンドを見つめる観客がインタビューに答える選手たちをあたたかく見守っていた。試合は終わり、この後は決められたプログラムは残っていない。しかし大切な時間を選手・観客問わず一緒に共有しているようなこのドーム内の空気が、僕は好きだと感じていた。
メジャーリーグでは試合後のヒーローインタビューはあまり行われないので、イチローさんがヒーローインタビューに答えている光景も珍しい。イチローさんは少し笑みを浮かべながら、前のめりに質問に答える。
「一緒に食事しに行って会うこともできるのですが、そういうことではないのです。ヒデキ・マツイとは選手として再会したかった」と答えるイチローさん。グラウンドで投げて打つイチローさんの姿がやけに若く見える理由は、選手として観客や旧友と向かい合っていたいという気持ちが見えるからなのだなと思った。松井さんのホームランについて「人のプレーを見て涙が出たのは初めてかもしれない」とイチローさんは語った。きっと松井さんのあのホームランから、このドーム内にいる皆が何かを受け取ったのだ。イチローさんが舞台を作り、その上に松井さんが大きなプレゼントを置いた。2人の友情と信頼、そして尊敬を、あくまで選手としての振る舞いの中で見せてくれたことが、僕たちへ贈られた最もあたたかく、大きなプレゼントだった。その横で、部活の後輩が先輩を見つめるように佇む松坂大輔さんの姿もあたたかい。また来年も必ず見に来たい。
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