検索
SHARE

好きを見つけたいだけなのに、負け続けて怖い。『好きな食べ物がみつからない』

この数年、「好き」という言葉がとても苦手になった。というか、「好きってなんだ?」の迷路から抜けられない。「好きなものはなんですか?」。わたし調べによると天気の話題と同じくらいライトに繰り出される質問に対して、「わ……わからない!!!!!! あなたは!?」とオタオタしてしまう。そもそも好きなものってなんだよ。範囲が広すぎるよ。せめてジャンルを指定してくれよ。

好きアレルギーを拗らせ、もはや「好きって感情が、最近わかないんだよね」と流し目しながら生きていこうと思い始めた頃、鎌倉駅前にある個人書店で、平置きされている本と目があった。タイトルは『好きな食べ物がみつからない』。表紙はイラストで、カラフルに描かれた女の子がポップにテンパっていた。

 「いや、食べ物ならわかるだろう」。小さく鼻をフンと鳴らし、右隣の本に目線を動かした瞬間、思った。「え、なんだっけ?」。数十秒だが考えてみた。思いつかない。タベモノ……? そういえば、20代の時は餃子と言っていた気がするが、最近は言わなくなったな。学生の頃母が作った餃子を50個食べ切った実績もあるし、外食が増えてからはお気に入りのお店探しにも余念がなかった。それと比べると、最近は好きだからというより、作るのが楽だからという理由により冷凍餃子しか食べていない。大学生の頃は、タイ料理が好きになって、パクチーハラスメントをしまくっていた。高校生の頃は、この学校で一番リプトンのマスカットティーを飲んでいると公言していたし、中学生の頃は森永の牛乳プリンが好きで熱心に絵柄の違うフタを収集していたほどだ。それに対して、今は。

そそっと左に目線を戻し、本を手に取ってみる。分厚い。まじか、タイトルから察するに「好きな食べ物は何か」のテーマで、この分量書いてあるのか? そんなに辿り着くのが難しい質問なのだろうか。ちょっと怯んだが、ここで手放したらまた好きなもの迷路から抜けられない気がして、買ってみた。

本書は、筆者の古賀及子さんが自身の好きな食べ物に辿り着くまでの120日をまとめたエッセイである。書き手が違えば「色々検討した結果、私の好きな食べ物は〇〇です」くらいでも終われそうな話題が、四六版287ページにまとめられている。

あまりにも真剣に、時には憧れの人の好きな食べ物を分析しながら、自分の思い出やルーツを振り返りながら、「好きな食べ物」を探していく。辿り着けそう、と思うたびその有力候補と真っ向から向き合い、「本当に好きなのか」を確かめる。暫定解が自分のキャラクター性とあっているのかなど実証実験をしながら、最後の決め手を追い求めて日本全国を飛び回る。そしてやっぱり違う、となる。最初こそ「オーバーな!」と思いながら読み進めていた。でもいつの間にか「私の場合は…」と同じ沼にハマっていた。

この本を読み進めるうちに、なぜ「好き」という言葉が苦手になったのかに気がついた。好きかもしれない候補を出すたびに、いつも負けてしまうからだ。たとえば、「それをもっと好きな誰か」に負ける。食べる頻度から焼肉や寿司を考えてみたが、部位やお店などこだわりどころが多すぎるゆえ、もっと詳しい人がいると思ってしまい、簡単に好きと言えない。肉だと言いたいならば、「バーベキューの本場テキサスのブリスケット」くらい、身近に体験した人がいなさそうな変わり種にするしかないとすら思う。いや、私も食べたことないわ。

そしてもう1つ、「好きと言えた過去の自分」に負ける。餃子が好きと言えなくなったのは、過去の私よりも餃子にまつわるエピソードが少なくなったからだ。こんなていたらくでは、あの頃の私に面と向かって「まだ好きだよ」と言えない。タイ料理に対して初めて食べた時ほどの情熱はもうないし、リプトンよりスタバを飲んでいる。そして私は牛乳プリンのフタを、食べ始めるより前に、ゴミ箱に捨てる人間になってしまったのだ。

後者がより厄介だ。ちょっとやそっとの刺激では「好き」レベルに達しない気がして、もはや日本にはもう無い気すらして、行ったことのないどこかにいかないと無理な気がしてきた。もしかして、私はもうあの頃のドキドキを越えられないのかもしれない。そんな不安がもこもこと沸き上がっていく。これか、だから「好き」を探すのが怖かったのか。あの頃と比べて、平々凡々に命の時間を見送っているように感じられてしまうから。言うて食べ物の話だよ。もっとピュアに心がおもむく対象へ、君が好きだと叫べたらいいのに!

と、このようにまんまと「好きな食べ物がみつからない」の作者とともに、好きな食べ物は何か? の問いの深さにずぶずぶとハマっていくのだが……。いかにして、筆者(と私)がこの沼から抜け出し、自分の好きな食べ物を見出すのか、ぜひ本を読んで一緒に体験して欲しい。

私は、この本を読み終わるのが怖かった。だから、残りの30ページは、旅先の海辺で読んだ。非日常の環境で読めば、結局何も見つからない自分がいたとしてもショックが和らぐかもしれない。その選択が、功をそうした! 寄せる波で砂利がカラカラと音を立てる、そんな空間で、あと少し読みきれなかった本を読む。しあわせ、という感情が沸き上がってきた。     

「なんだか、20代の頃はたくさん働くことが価値だし仕事に追われることが幸せだと思っていたけど、今の自分はもう違うんだなあ」。あお、みどり、あおいみどり、所々色合いの違う面を見ながら……はっ! と気がついた。

好きな食べ物も、同じじゃないか!? 無いわけじゃない。わたし今、好きが変わる大きなタイミングにいるだけなんだ。なぜ無いと勘違いしていたのか、それはあの頃と同じ質量じゃないと好きじゃない、と思い込んでいたからだ。そうだったかあ〜〜!!! というか、思ったより過去に縛られるタイプなんだ、私。また今から、今の自分が好きな食べ物を見つけていけばいいんだよな。そして、今後も変わっていいんだよな。最後のページにさしかかった時、読む前のような「好き」への恐怖は薄らいでいた。ああ、よかった。この本を読んで。この場所に持ってきて。

おかげさまで、好きな食べ物以上に大切なものが見つかりました。

文/飯室 佐世子

【この記事もおすすめ】

writer