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「夫婦の看取りの物語」がペンの力で医療制度を変えるまで-『透析を止めた日』ノンフィクション作家・堀川惠子

ある一冊の本が医療制度を変えることとなった。『透析を止めた日』は、テレビ局出身でノンフィクション作家・堀川惠子さんが夫・林新さん(元NHKプロデューサー)の壮絶な最期を記録した作品だ。出版直後から入手困難となり、医療系ノンフィクションとして異例の12刷を重ねるなど大きな反響を呼んでいる。透析医療で長年見過ごされてきた「緩和ケアの欠如」という問題に切り込み、わずか数カ月で議論を加速させた。今年6月の診療報酬改定で、透析を中止した患者も緩和ケア病棟に入院できるようになる。
ドキュメンタリー・ノンフィクションの世界に長く身を置き、これまで数々の賞を受賞してきた堀川さんが、制度を変えることを明確な目的として書き上げた本作品。いったい、どのように生まれ、どのように人々の心を動かしたのか。
その執筆の裏側には、夫の死に対して7年間も自らを責め続けてきた一人の「遺族」としての深い悲嘆があった。

聞き手/市橋 かほる
編集/佐藤 友美

「どう死ねばよいか分からない」透析患者の終末期

——出版直後から大きな反響を呼んでいましたね。

堀川:すぐに売り切れ、しばらく入手困難になりました。そんな状況にもかかわらず、私のもとには昼夜問わず感想のメールや手紙が次々と届いてきたんです。最初の波は、透析現場に関わる看護師の方々からでした。透析患者が緩和ケアを受けられず、苦痛の中で亡くなっていく。そうした最期を日々見てきた人たちから「よくぞ声を上げてくれた」という声とともに、現場の状況に対する怒りの声が寄せられました。

――怒り、ですか?

堀川:はい。「もっと痛みを和らげる手段はあったはずだ」といった、十分なケアが行き届かない現状に対する怒りです。透析看護は専門性が高く、精神的な負担も大きい。そうした環境の中で、心を病んで現場を離れていく看護師も少なくないと後から聞きました。
次に届いたのが、患者家族やご遺族の声です。透析に限らず、看取りの問題としてもどんどん反響が広がっていきました。印象的だったのは、この本についての感想はほとんどなかったこと。9割以上が、自分たちがどんなにつらかったかという体験談だったのです。「なぜ自分たちがあんな状況に置かれたのかようやく分かった」と答え合わせをするように読んでくれる人も多かった。
人を看取るということ自体、経験したことがない人がほとんどです。だから、どうしたらよかったのか分からないし、自分の体験が特殊なことなのか、それとも我慢すべきことだったのか。それさえも分からない。この本を読んだことで、そうした人たちが抱えてきた思いがあふれ出たのかもしれません。

——そもそも透析医療の何が問題だったのでしょうか。

堀川:ひとことで言えば「どう死ねばよいか分からない」ということです。
血液透析(以下、透析)とは、機能が低下した腎臓に代わって血液を浄化する治療です。週3回、1回4時間以上、体から血液を取り出して機械でろ過し、また体に戻します。
透析をすれば生きられる患者さんは大勢います。でも、問題は透析の「出口」だったんです。
透析の終末期には、身体や気持ちの苦しさを和らげる医療が用意されていなかった。緩和ケア病棟への移行も、がん患者やHIV患者が対象で、透析患者は移ることができませんでした。

堀川:私の夫は多発性嚢胞腎を発症し、38歳で透析を始めました。腎移植を経て59歳で再び透析生活に入りましたが、その1年3カ月後に亡くなりました。
最期の期間は、透析そのものが強い痛みを伴い、透析以外の時間もほぼ寝たきりとなりました。それでも、透析を続けなければならない。止めれば、尿毒素が体中に回り、溺れるような苦しみの中で死を迎える。生きるための透析が、透析のために生かされる。そんな状況だったのです。

——透析患者の終末期に関しては、ウェブにも書籍にもまったくといっていいほど情報がなかったと書かれていました。

堀川:私は長年ノンフィクションの分野で仕事をしているので、リサーチは仕事の一部です。その私でも、透析患者の終末期に関する情報を手に入れることはできませんでした。だから、透析を続けたとき、止めたとき、それぞれどんなことが起こるのか、どんな医療的な処置を受けられるのか、まったく分からないままだったのです。
一方、透析クリニックの医師は、患者の容体が悪くなれば大きな病院に送ればいい。送られてきた病院の医師は、ICUで24時間透析を回せるところまで回し続ける。医療側も患者にどう最期を迎えさせるかという看取りを引き受ける構造になっていませんでした。

政治が動き、制度が変わる

——そのような状況から一転、今年6月の診療報酬改定で透析患者も緩和ケアが受けられることになります。

堀川:保険診療による緩和ケアの対象が腎不全にも拡大されます。この改定により、終末期の透析患者も緩和ケア病棟への入院加算がつき、痛みを和らげる適切なケアを受けられます。日本の透析患者は約34万人。現在、その多くが高齢化しており、年間約1割の人が亡くなっています。これからは夫のような苦しみを経験する人が減っていくことを願っています。

——本が出版されてからわずか1年半。どんな動きがあったのでしょうか。

堀川:2025年1月上旬、出版から約1カ月半経った頃のことです。私の携帯に1本の電話が入ったんです。前外務大臣の上川陽子さんからでした。「本を読ませていただき、透析医療に極めて改善すべき点があることがよく分かった」とおっしゃり、さらに「これは日本透析医学会、日本腎臓学会、日本緩和医療学会の3つの学会にまたがる案件。これこそ政治がやらなければならない仕事です。堀川さん、一緒に頑張りましょう」と続けられたのです。

——直接、連絡が?

堀川:実はその前月、別件で上川さんにお会いする機会があり、出版したばかりの本を渡していたんです。でも、多忙でおそらく読んでもらえないだろうと思っていました。私は過去に政治部記者の経験もあり、正直、政治にはあまり期待もしていなかった。着信があったときもピンときませんでした。
ところが、その2週間後。上川さんに呼ばれ議員会館に行くと、厚労省の担当者の方が並んでいる。そして「次回の診療報酬改定で透析患者が緩和ケアを受けられるよう、6月の骨太の方針に盛り込むことを目指します」と宣言された。厚労省の方々も緊張した面持ちでしたし、私も目が落ちるかと思うほどびっくりしました。

——半年にも満たない短い期間、すごいスピードですね。

堀川:診療報酬改定は2年に一度。通常は2年前から準備を進めます。それをたった半年足らずで診療報酬改定に影響を与える「骨太の方針」にねじ込んで実現させるという。普通に考えたら無茶ですよ。
でも、上川さん自身が呼びかけ人となり、勉強会が月1、2回という急ピッチで開かれ、5月末には厚労相に提言を提出。これを受けて、「骨太の方針」に加わったのです。「こんなスピードは異例中の異例。見たことがない」と関係者が口々に驚いていました。

——なぜそんなことが実現できたのでしょう。

堀川:一つは、医療現場からのニーズがすでにあったことです。私が取材を始めたのは2019年。「夫の最期の苦しみは甘受しなければならないものだったのか」。それを確かめたくて透析医学会のセミナーや分科会に足を運んでいると、会場のあちこちで医師や看護師から「このままではだめだ、緩和ケアをやりましょう」と声が上がっていました。2000年代初めから緩和ケアの必要性を論文や講演で繰り返し訴えている医師もいた。だから私は、「これから透析医療は変わっていくんだ」と安堵したんです。ところが、何年経っても状況は同じままだった。
そこに、2023年、透析医学会の場で座長から「透析患者に緩和ケアは時期尚早」という趣旨の発言があったんです。これだけ現場で声が上がっているのに、制度にはつながらない。その現実を突きつけられた思いでした。
政治は、そうした現場の声を受け止める形で動いたのだと思います。上川さんは強い意志を持って常に議論を牽引していった。反対する声もありましたが、「私はやると言ったことはやる」と、一度もひるまずに突き進まれました。国光あやのさんという、元厚労省技官だった議員も強くサポートして下さいました。本気で政策を動かそうとする政治家のリーダーシップを目の当たりにすることになりました。
現場の声がようやく表に出て、動き出した。この本は、その最後の一押しになれたのだと思っています。

「制度を変えるために書く」という設計

——本を書くと決めたのはいつだったのですか。

堀川:「誰かが書かなければ、永遠に変わらない」。そう腹をくくったのは、先ほどの学会で時期尚早の発言を聞いたときです。書く目的は明確です。緩和ケアを腎不全にも広げてもらえるように制度を変えること。そのためには多くの人に読まれ、動いてもらう本にしなければなりません。自分がどう書きたいかよりも、確実に届くことを第一に考えました。
私の本はこれまで分厚いものがほとんどでしたが、それでは読まれない。だから、ページ数は300ページ以内におさめる。手に取りやすい価格にする。透析患者の方が透析中でも片手で読める軽さにする。内容だけでなくそうした届け方も含めて設計しました。
何よりも自分に問うたのは、この本を社会に届け切るという覚悟です。出版して終わりではなく、社会に届くまで育てる。そのために私自身が前に出ると決め、表紙に顔写真も出しました。これまでは作家は前に出ず、作品に語らせるべきだと考えてきましたが、この本はどんな人が書いたのかが見えた方が読者に届くと思ったのです。これまでとは異なるアプローチで取り組む必要がありました。

——終末期の様子や医師とのやり取りが、胸が苦しくなるほど具体的に描かれていて、大きな衝撃を受けました。

堀川:この本は二部構成です。第一部は夫の闘病記録、第二部は透析医療の問題点を指摘した取材ルポ。私の本丸はもちろん第二部です。でも、いきなり医療の話から入っても、読者は腑に落ちてくれない。第一部をどれだけ心に残るものにするか。これが肝になると思います。
これまでドキュメンタリーを作ってきた経験から、良い作品になる条件は二つあると感じてます。一つは主人公が経験した一番つらいことが逃げずに描かれていることです。正直、当時のことをもう一度、こと細かに掘り起こす作業はしたくありませんでした。カルテを読もうとするだけで金縛りにあったように息が苦しくなるんです。それでも、作家として書くと決めた。ただ、夫の最期を赤裸々に書いていますが、同時に、読者が読める感覚まで緩めてもいるんです。
たとえば、終末期の夫の足の壊疽については、最初はその見た目や臭いを2ページ半以上にわたって書いていました。でも、読み返して「これは読めない」と思ったんです。最終的にはすべて削除し、「肉が腐るような強烈な臭いが室内に漂い始めた」という一行だけにしています。

——あの一行は、強く印象に残っています。

堀川:もう一つの条件は、主人公のことを好きになってもらうことです。私が夫を愛したように、読者にも夫を好きになってもらう必要がありました。そのために、医療とは直接関係ないエピソードもたくさん挟みこんでいます。NHKプロデューサーだった夫と番組作りの中で交わしたツーショット写真をめぐるやり取りのこと、結婚生活のちょっとしたあれこれ、彼の野武士のような頑固な姿。私が夫に伴走したように、読者の皆さんにも夫に伴走してもらいたいと考えました。そうすることで、夫の最期の決断に至るひとつひとつの言葉の重みが伝わるのではないかと思ったのです。
でも、夫の物語を書くつもりでいたのに、書きはじめてすぐ気づいたんです。「しまった、これは私の本だ」って。

——夫の物語ではなく、私の本だというのは?

堀川:ドキュメンタリーを制作する感覚でいうと、私が夫に向けてカメラを回し、撮れたインタビューを編集する。そんなイメージで書けばいいと思っていたんです。でも、そうじゃなかった。書こうとしたら、夫に聞けていなかったことがたくさんあって書けないんです。私が書かなきゃいけなかったのは「夫」ではなくて、あくまで「私が見た夫」だった。つまり、「私の物語」なんだと。

——「私の物語」として書くことに迷いはなかったですか。

堀川:むしろ、私が見たままを書けばいいんだと気づいたとき、少し気持ちが楽になりました。終末期の現場って、本当に苦しいんですよ。経験上、一対一の関係でどれだけ理解し合っていても、いえ、お互いに理解し合っていればいるほど、言葉が減っていく。「これを言ったら傷つくかもしれない」「死を連想させてしまうかもしれない」。重い沈黙の時間が続いていたんです。だから確かめられていないことが多くて、夫の物語として書けるはずがないんです。書いたらそれは嘘になる。だから私の責任で私が見た夫を書こうと。

——信頼する親友の方の「(病院の現状を考えると)緩和ケアができないのは仕方ない」という言葉も印象的でした。あの言葉で本の流れが変わったように感じました。

堀川:私にとっても強く印象に残っている言葉です。夫が亡くなった後、主治医への不信感を漏らしたら、彼女から「仕方ない。医師は忙しいし、緩和ケアは片手間にできるものではない」と言われました。同意してもらえるとばかり思っていたので、はっとしました。あの言葉をきっかけに、医師個人が悪いという話ではなく、そうならざるを得ない医師側の事情があったという構造の問題に目を向けられた。
テレビ局時代からずっと考えてきたのは、物事を見るとき「どこに三脚を立てるか」ということでした。事実は一つでも、どこにカメラを据えるかで見える景色は変わり、解釈も問題提起も違ってくる。
透析中、患者はベッドに横たわって医師を見上げています。一方、医師は上から患者を見下ろしている。どうしたって見えていた景色は違うものだったはずです。
でもこの本は、医療従事者の方々にも受け入れてもらわなければなりません。なぜなら、たとえ制度を変えられたとしても、現場が動かなければ意味がない。仏を作って魂を入れないのと同じになってしまうからです。
だからあの言葉は、私自身にとっても大きな転換点でしたが、本を構成する上でも重要な役割を果たしてくれたと思っています。

——より大勢に届けるためにテレビのドキュメンタリー番組として世に出すことは考えなかったのでしょうか?

堀川:映像は一瞬です。これまでドキュメンタリー番組を作って話題になったり、評価していただくこともありました。でも半年もすれば、忘れられる。それが映像やテレビの宿命だと感じています。法制度を変えるにはもっと時間をかけてじわじわと届けていく必要がある。それができるのは本しかないと思ったのです。

徹底的に傷つけられた側に立つ

——私の母も透析患者です。本を読んで「こんなにも透析のつらさを分かってくれる人がいるのか」と驚いていました。どうしてここまで当事者の気持ちに迫ることができるのでしょうか。

堀川:そんな風に感じてもらえたのなら嬉しいです。透析に関する知識は全くなく、夫の透析について行ったのが始まりです。そしたら、針が太いとは聞いていたけど、通常の針の倍以上、しかも長さは4センチですよ。それが2本。実際に見たときは卒倒しそうになりました。
透析の機械であるダイアライザーを回しはじめたら、血液が外に出ているカテーテルの中をピーと赤く染めて、返血して戻って来る。「ああ、透析とはこういう医療なのか」と、そこで初めて胸に落ちました。
夫と同じように片腕を固定してソファに横になってみたこともありました。でも4時間もじっとできないんです。トイレに行きたくなるし、途中で用事をしてしまう。だから患者の気持ちは完全には分かってはいない。でも、分かろうとする努力はしていたんだと思います。

——取材でも同じようにされるのですか。

堀川:これは私の生き方といえるかもしれません。苦しんでいる人たちはその苦しみを言葉にできないものです。言葉にすれば、それを自分で認めてしまうことになる。だから見ないふりをしながら生きている。夫も、最初の頃は透析がしんどいとは口にしませんでした。慢性疾患なので病と闘うというより、病と共に少しずつ何かを諦めながら過ごす日々でした。苦しいはずなのに苦しいと言えない苦しみ。それが透析患者の苦しみなのだと思ったのを覚えています。
透析に限らず、私の取材相手の多くはそういう思いを抱えていることが多いです。私は出来る限りの自分のベストを尽くして、ぐちゃぐちゃに傷つけられたように感じている人の側に立ちたいと思う。だから、取材のときも相手と一緒にドロドロの沼の中に落ちよう、一緒に苦しもう。そんな風に思っています。

——堀川さんとお話をしていると、思わず自分の話を聞いてほしくなる感覚があります。相手との関係をどのように築いているのでしょうか。

堀川:ドキュメンタリーの現場では、ただ話を聞くだけではありませんでした。カメラを据え、ライトをガンガンに当てた状態で「あなたの一番つらかったことを話してください」と向き合う状況を作らないといけない。相手によっては「この1回だけ」といった緊迫した局面もでてきます。情を合わせるだけでなく、勝負の場を作り、語ってもらう。そんな信頼関係を築くためには、人間力が試される。そうした経験を積み重ねてきた自負はあります。
でも同時に、どんな作品でも、世の中に出すときには、常に恐さがあります。相手を傷つけてしまわないか、間違ったことを伝えていないか、と。大きな間違いは絶対にしません。でも、際どいギリギリの取材の中では、本人すら本心かどうか分かっていないこともあるはずなんです。人を相手にする仕事において、自信満々でいられたことは一度もありません。

事実に「文脈ごと」語らせる。違和感を見過ごさない

——今回の本に限らず、大きな間違いを避け、相手を傷つけないために、どのようなことを意識されてるのでしょうか?

堀川:なるべく事実に語らせることです。自分がまとめた文章ではなく、実際に語られた言葉、そのときの風景。そこから行間を感じてもらうことが本にはできる。だから、起きたことを忠実に書くことを意識しています。
大事なことの99パーセントは、すでに世の中に出ているんです。誰でもいつでも調べられる状態になっています。ただ、気づかれていないだけ。そうした捨て置かれてきた事実を集めてつなぐことです。三脚を立てたら、そのバラバラの事実が一つの物語として紡がれ、今まで見過ごしてきた問題が浮かび上がってくる。そんな体験を私はしょっちゅうしてきました。「今あるものを見過ごしていないか」。私たち取材者は、常にそう問い続ける必要があるのだと思います。
今回の本で扱った透析医療の問題もまさにそうでした。透析患者の緩和ケアだって、これまで議論もされていて、論文も出ていた。ただ、十分に光が当たっていなかっただけ。決して私が新しく見つけたものではありません。

——ともすれば取材側が自分に都合よく事実を取捨選択してつなげてしまうこともありそうです。どう回避すればよいでしょうか。

堀川:それは取材者が最も気をつけるべきことです。特に「こうあってほしい」という希望のストーリーがあればあるほど、慎重にならなければなりません。実はテレビ局の記者時代、汚職事件の容疑者として目を付けていた人がいました。すると、その人に違いないという材料ばかり集まってくるんです。スクープ合戦の中で、どこの社がその情報を出すか競い合っていました。直前でそれが間違っていることが分かったからよかったのですが、もしあのまま放送していたらどうなっていたか。その恐怖が今もずっと心の中に残っています。
だから、私は小さな違和感を見逃さないようにしています。たとえば、「あれ? この人は実は嫌な人かも」「おや? この資料と違うデータをどこかで見たぞ」。そうした違和感です。
そして、事実を引用するときは、一部の言葉だけを切り取るのではなく、必ず文脈を丸ごと理解したうえで引用しています。緩和ケアの必要性を訴える論文も、その論文が書かれた時代背景や、著者である医師が論文を書くに至った背景などを理解していなければ、本来の意味は見えてきません。
結局、それは取材に尽きます。書いた人に直接あたる。発言した人に直接会いにいく。それを怠らずに丁寧にやれば大きな間違いは回避できます。

——事実を紡いで世に問う。堀川さんの強い信念を感じます。

堀川:私はそれしかできないんです。私にとって仕事は呼吸と同じ。大学を卒業後、テレビ局に入社してたちまち、報道記者として働く楽しみを知った。何の資格も持たないただの一人の人間が、ある日突然、社会の問題と向き合って、自分で調べて、名刺一つであらゆる人物に会いにいける。
現場に放り込まれたら、否が応でも努力しないと要求には追いつけません。でも、やればやるだけ良いものを作れるようになる。仲間が増えて、応援団ができる。自分の限界を超えるような転機が連続してやってくる。この興奮はあの頃から今日まで変わらず感じています。

社会は動いた。でも止まっていた時間があった

――堀川さんの文章は静かに事実を積み重ねているのに、読み進めるほど夫の林さんへの溢れる愛情が伝わってくることにも心が打たれました。改めて林さんはどんな存在だったのでしょうか。

堀川:私、仕事より大切だと思える存在は、生涯現れないだろうって思っていたんです。どんな人と結婚してもきっと仕事を優先してしまう。だから、仕事一本で生きていこうと思っていた。ところが、そうでない人に出会った。私にとって夫は、仕事の師匠であり、メンターであり、時に父であり、兄であり、弟であり、友人だった。いろんな表情を持つ人でした。

——林さんを見送られてから、書籍を出版し、制度の見直しにもつながりました。今、どう振り返られますか。

堀川:多くの人に読んでもらい、制度変更も実現できました。でももう一つ、私の中に残ったテーマがあります。それは、グリーフケアです。
夫が亡くなってから7年間、自分自身がどんな精神状態で生きてきたのか、はっきり思い出せないんです。夫の闘病記録はずっと取っていましたが、葬儀の日を最後にやめています。そこから自分のことも、真っ白なノートのまま。まるで時間が止まっていたような。
実は昨年末、体調を崩して初めて入院しました。この7年間、自分のために料理ができなくなっていて、その不摂生からか栄養失調になっていたことが分かりました。
以前は食事制限のある夫のために、栄養を考えて365日3食欠かさず料理をしていました。3年前からは父の介護も始まって、両親のためにも作っています。でもなぜか、自分のためには料理ができなかった。

——自分のために料理ができない?

堀川:夫を苦しませたまま逝かせてしまった。私はそう自分を責め続けていたんです。自分を許せず、自分が楽になってはいけない、自分が美味しいものを食べてはいけないと思い込んでいたのだと思います。実際、真夏の40度を超えている日でも空調を使うことを禁じて、車の中で意識を失いそうになったこともありました。ずっと自分を罰していた。そんな自虐に近い状態でした。
でも、まさか私がそんな状態だとは誰も気づきません。人に会えば普通に振る舞えたし、外食もできていた。外からは分からないんです。自分でも、料理ができないのは、「一人分を作るのは面倒だから」。そんな風に軽く思っていただけでした。

——気づかないうちにそれほど追い込まれていたんですね。

堀川:親しい人を亡くす悲嘆の中でも、伴侶を失うことは最もストレスが大きいと言われています。血のつながりもない、縁もゆかりもなかった人と人生を共にするということ。それがどれだけ尊いことなのか。その関係が失われることの大きさを私は思い知らされました。伴侶に先立たれて後を追うように亡くなる人がいると言われますが、こういうことなんだと身をもって感じた気がします。私のように無意識のまま苦しみ続けている人は、今もたくさんいることでしょう。何かのきっかけで元の生活に戻れる人もいれば、きっと、戻れないままの人もいる。
入院中、無機質な個室のベッドに横たわって、ぽつんとひとり、点滴を受けていました。夫と同じ目線になったとき、ふと思ったんです。
「もし、ここに夫がいたら」って。
きっと夫は何かしてくれるわけではないけれど、ああだこうだと好き勝手言っていただろうなあ。「ああ、それは幸せなことだよなあ」と。
何かができるかどうかでなく、そばにいること自体に大きな意味がある。もしかしたら夫も私の存在を同じように感じてくれていたのかもしれない。そのとき初めて、自分を受け入れられた気がしました。

堀川:振り返ってみると、夫が亡くなってすぐに夫が遺した小説の共著に取り掛かり、その後も1冊、自著を書き上げました。彼を失った悲しみを仕事で埋めていたのだと思います。でも、そんな逃げ場がなかったら、人は壊れてしまう。その時間だけ、私は悲しみを忘れることができた。だから、私は彼が遺してくれた仕事に救われ、生かされてきたのだと思います。
いま、医療現場では「ビリーブメントカンファレンス」といって、亡くなった患者のケアについて医師や看護師が振り返る取り組みが始まっています。そこに遺族も参加してもらっている病院もあります。最善の対応であったのか、どうすればよかったのかを共有する場であり、グリーフケアの一環にもなっています。
今なら、この取り組みの意味がよく分かります。夫が亡くなっていくあの最期の過程を知っているのは、私と看護師さんだけなんです。それは、「あのときこうだったね」「つらかったよね」と分かち合える相手が、ほとんどいないということ。私はあの時間を、一人で抱え込むしかなかったのです。
終末期、死にゆく人との間には言葉が減るという話もしましたが、そこに第三者が入り、言葉をつないでもらうことの大切さも、今は強く感じています。

わずか3泊の入院でしたが、退院して家に戻ったとき、「私も頑張っていたんだな」と思えたら、ようやくご飯を作ろうという気持ちになっていました。キッチンのパントリーを開けたら、隅の方にあったんです。夫が亡くなった年の2017年のお米が。「うわあ」と思って、洗って一晩つけて炊いたら、食べられました。8年がかりでした。
緩和ケアだけでなく、喪失に対する家族へのケアもまだ十分とはいえません。誰かを見送ったあと、残された人がどう生きていくのか。その問いもまだ置き去りにされたままなのかもしれません。(了)

撮影/深山 徳幸
執筆/市橋 かほる
編集/佐藤 友美

堀川惠子(ほりかわ・けいこ)
1969年広島県生まれ。92年広島大学総合科学部卒。ノンフィクション作家。テレビ局でドキュメンタリー制作に携わり、のちに独立。夫の林新氏は、NHKスペシャルなど数々の番組を手がけたプロデューサーで、二人三脚でドキュメンタリー制作に取り組んできた。
その後、作家に転向し、現場で培った取材力と構成力を武器に、医療、司法、戦争など社会の深部に迫る作品を発表し続けている。透析患者であった夫の看取りの経験をもとに執筆した『透析を止めた日』は医療現場や制度をめぐる議論に影響を与え、現在は講演活動も行う。
主な著書に『死刑の基準—「永山裁判」が遺したもの』(講談社ノンフィクション賞)、『裁かれた命—死刑囚から届いた手紙』(新潮ドキュメント賞)、『教誨師』(城山三郎賞)、『原爆供養塔—忘れられた遺骨の70年』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『暁の宇品—陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(大佛次郎賞)など多数。第23回司馬遼太郎賞を受賞した『狼の義—新 犬養木堂伝』は林新氏との共著。

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