
生きている・死んでいる【さとゆみの今日もコレカラ/第 141 回】
気圧の低い日は、死んだ人のことを考える。こちらの世界で亡くなった人を思い浮かべると、天国にいるその人の周りに花が咲くという話が好きだ。
昔からずっと不思議に思っていることがある。
身内でもない限り、誰かの訃報を知るのは、その死の瞬間ではない。24 時間後とか、数週間後とか、時間が経ってから報を受け取る。
だから、私たちが悲しむのは、その人が「死に終わって」しばらく経ってからだ。
その人が亡くなったことを知らない時間、私にとってその人はまだ"生きている"。そして、訃報を聞いた瞬間、その人は、死ぬ。
だとしたら、自分以外の人の死とは、単なる認知の問題なのだろうか。知らなければ、ずっと生きている。知った日に、死ぬ。
知っている人が死ぬと悲しいのはなぜだろう? もう会えなくなるから? いやでも、この数年間、一度も会ってなかったし、連絡も取らなかったではないか。
では、その人が世の中に物理的に存在していることと、していないことの間には、何か差があるのだろうか。
もう少し考えてみたい。
誰かが死ぬと、その誰かの記憶の中にあった私も死ぬと考えてみる。
知り合いが死ぬということは、私を記憶する脳がひとつ消滅するということだ。私に触れた肉体もひとつ消滅する。それが悲しいのだろうか。
いや、むしろ、「私」の消滅が悲しいのかもしれない。私の中にある、その人といる時にしか発動しなかった「分人」が消滅するのが悲しいのかもしれない。特定の人の死は、自分の中の特定の場所を殺す。
非情な低気圧爆弾と、容赦なき花粉乱舞の洗礼を受けながら、まだ全然生きてるなあと諦観する朝。
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読み終わって初めて死を実感して、涙が止まらなくなった。私がどれほど彼女の文章に救われてきたかを、ようやく思い知ったのだった。

