
言葉ぐすり、ひとつ【さとゆみの今日もコレカラ/第 222 回】
誰かの存在があったから、あの時、なんとか生きていられたという出会いがある。
同じように、あの言葉があったから、生きるのが楽になったという言葉がある。
撮影も講演も取材も全部ぶっ飛んだコロナの時代。
全国の書店がクローズになり「読書は不要不急の行為じゃない」と突きつけられた時。先の見えない不安で誰かが誰かを攻撃する言葉ばかりが飛び交った時。
物書きはどれだけ世の中を真剣に見るか、目を凝らし耳をすませ毛穴を開いて物事を見るかが勝負だけど、こんなに殺伐とした、暴力的なアラートばかりの世の中を真剣に見ようとしたら、自分の感性が死んでしまうのではないかと思ったことがあった。
この時代を一身に浴びて大丈夫だろうか。もっと心を閉じて自分をガードした方が良いのではないか。
そんなことを考えていた時、それでもやっぱりこの時代をちゃんと生きなくてはと思えたのは、一片の詩のおかげだったと思う。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
この3行で終わる茨城のり子さんの詩は、戦争があった時代を思い返して書かれた詩であると言われている。
コロナ禍といういわばある種の戦場で生きなくてはならなくなった時に、この詩は「言葉ぐすり」のように効いた。
ささくれだった心をじんわりと包んでくれるような薬ではない。頬を張られ、「目をかっと見開け」と頭を掴まれたような力で、現実と対峙させられた。その圧倒的な言葉の力が、あの時代を乗り越える支えになった。
私たちの体は、食べたものでできている。そして触れた言葉でできている。自分が浴びた言葉は、血となり肉となり、そして骨格をつくり、私たちを内側から支えてくれている。
先日から、Voicy さんで「深夜のラブレター」を再開している。
再開するにあたって、今回のテーマは、「言葉」にしようと思い立った。
これまでの人生で受け取ってきた言葉に、私の言葉もちょっと添えて、そっと置いていきたいなと思っている。昨夜は「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」について話した。
時に薬のように、時にラブレターのように、誰かの心にひっそりと届くといいな。一緒に言葉を食べてくださる皆様のお越しを待ってます。
【この記事をおすすめ】
同じ雑誌を読んでいた人には、同じ学校を卒業した同窓生のようなシンパシーを一方的に感じます。


